05‐ ライアンの目覚め
「……いい事を思いついたわ。今イノリを殺してしまう事も考えたけれど…… 貴方は彼女の死を糧に強者へと成長を遂げてしまうでしょう。 ……それじゃあ不都合なのよ」
女が声を立てずに笑った。
「イノリにはつかの間の生を許してあげましょう……。 私の計画に彼女が邪魔になった時に殺すわ。いつ殺すかは私が決める……。 貴方達が優位に立つほどイノリの死のリスクは高まり、劣位にある限り虐殺は止められない……。 そのジレンマの中で貴方に最も必要とされた瞬間に貴方の目の前で殺す。何も成し遂げられず何も見届けられない無価値に終わる生と無駄な死を彼女に宣告してあげる」
それから…… とつぶやいて女はアイリーから目を逸らし、上半身を屈みこませて横抱きにしているライアンへと顔を近づけた。
女の口から光る靄の様なものが溢れ、眠っているライアンの鼻孔へと吸い込まれていく。ライアンの全身が震えた。弛緩していた指先が曲がり、握りこまれる。
4年の間、一度も開く事のなかった瞼が開く。
焦点の定まらぬ目が周囲を見回し、アイリーと目が合った。
「…アイ…リー…」
4年ぶりに聞く実兄の声だった。
アイリーの双眸が裂けんばかりに見開かれた。
もう一度、兄を目覚めさせる為に幾百回の死を乗り越えて来た。心の中に湧きあがる諦めと向き合い、自分の力不足を呪う様に生きてきた4年だった。
アイリーの思考が真っ白に燃焼した。
「何、勝手に治しているんだ!!」
意識などする間もなく口をついて出たその言葉に一番衝撃を受けたのは他ならぬアイリー自身だった。
「…違う」
何が違うのか。
自分で言った言葉の意味が理解できない。何故、そんな事を言ったのか。その意図さえ自分で理解できない。
いや、理解は押し寄せる高波の様にアイリーの意識に事実を突きつけてくる。
…… 俺はこんな形での兄の覚醒を望んでいなかった。
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自我を獲得して以来、最大の後悔と混乱がリッカを襲った。
アイリーとの話題に出す事を避けながら、リッカはライアンが実際に覚醒する事はないと予想していた。
過去200年、終末期再生調査中の事故による意識喪失から覚醒した者はいない。発症条件が特殊過ぎ、患者数も少なすぎる為に専門に原因を研究する者もいない。
自分の桁外れの情報処理能力を駆使して原因究明に専念しようと思った事もない。
何故か。
アイリーが言語化を拒み、無意識の領域に封印している本音をリッカは熟知しているからだった。
アイリーが持って生まれてくる事が出来なかった自己肯定感。
誇りを持って生きる為に仕方なく縋ったのは他人からの肯定、他人からの評価だった。
常に他者に貢献しつづけなければ維持する事も叶わない脆く不安定な自信。
その自信を無垢の愛情で圧殺しつづけてきたのが天才と呼ばれる兄だった。
他に縋るものもなく怯えながら誰かの役に立つ行動だけを探し続ける弟に対し課題を与え、手本を示し、手を引いて導き、評価者を用意し、最善の結果を作り出し、全てお前の手柄だと押し付けてくる天才。
アイリーが求めて止まない揺るがない自信というものを、勝手に組み上げて完成させた状態で手渡して何の代償も求めない愛情深い実兄。
アイリーが初めて憧れを覚えた女性を悪意なく自分達の間に呼び寄せ、3人の間で信頼関係を育み、手本を示す様に愛情を深め、何の行動も起こさなかったアイリーから奪うという意識もなく取り上げ、義理の姉弟という不可侵の間柄を押し付けてきた実兄。
“天才を凌駕した特別調査官”というアイリーの評価を容易く奪い返せる唯一の存在。
俺の尽力があって、やっと目覚めさせる事が出来た。その前提すら覆して天才が勝手に覚醒してしまったらアイリーの心はどうなるか。
リッカはアイリーのメンタルパラメーターを確認する。初めて向かい合った本心を前に、アイリーの思考は完全に停止してしまっている。
致命的な一撃を受けた。リッカはそう感じている。アイリーを値踏みしている最中の殺人者が、まだ目の前にいるのだ。
『アイリー!』
『違う…違うんだリッカ。俺は』
『分かってるから!落ち着いて!アイリーは何も間違っていない!!』
『違うんだ』
わたしの言葉が届かない。
アイリーの視界の中で横たわったままのライアンを抱いて座る女が深い笑みを見せている事にリッカは気づいた。
状況は最悪へと向かっている。




