07‐ 新平等主義条約
アイリーが顔を伏せて考え込み始めたのを見てイノリがテレサへと体の向きをかえた。
「ここまで貴女に意見を仰ぐことなく思うところばかりを述べてしまった失礼をお許しください」
そう言って深く首を垂れる。
「そしてアイリーにアンチクライストの情報を開示して下さった英断に深く感謝いたします。ありがとうございますセイントマザー・テレサ」
「敬称は不要です。私達はこの後協力しあって困難に立ち向かわなければなりません。私もあなたを信頼と親愛をこめてイノリと呼ばせて頂きたいのですが私の願いを聞いて下さいますか?」
フィギュアロイドの姿のまま礼節に適った態度をとるテレサにイノリは優しく微笑んだ。
「信じがたい話ばかりなのでまだ混乱しています」
イノリの言葉にテレサが何とも微妙な表情になった。どこが? と問いたいのだろう。
イノリは既に恐怖を克服した様に見える。まだ年若い彼女は今日までにどれほどの危機と困難を克服してきているのか。その疑問はそのままテレサにとってイノリへの好感へと繋がってゆく。
「テレサ、質問があります。アンチクライストが自身を宣言して活動を始めた場合に第三資源管理局はどの様な動きをとりますか?」
腕組みをしたまま、深く首を傾けてうなだれた姿勢のままでアイリーが尋ねた。“第三資源管理局はアンチクライストを保護している”とイノリは言った。イノリの意図よりも先にテレサに事実を尋ねようと思ったのだ。
テレサが首を横に振る。
「第三資源管理局は世界に800名しか存在しないエレメンタリストの生存権を保証する機関です。彼らエレメンタリストにとってはアンチクライストも同胞の1人です。人間の為に同族を狩る決断はありません」
「人間社会に甚大な被害を与える存在であったとしても?」
「新平等主義条約をリッカに教えてもらいなさい」
テレサの助言を得たリッカが情報を検索しアイリーの知識に組み込む。
「…人類と高次AI群とエレメンタリストは互いに知的存在として平等の権利を有する……。 数または実体特性を以てして他を害してはならない…?」
記憶をたどる様にアイリーが暗唱した。その意味するところが理解できないという顔だ。
『ざっくり言うと人類が60億っていう数的優位で高次AIやエレメンタリストを迫害したらいけないし高次AIもエレメンタリストも自分達の特性を使って人類を攻撃してはならないっていう条約だよ。ハッシュバベルの根幹を作ってる条約』
リッカの解説は歯切れが悪い。アイリーは当然の疑問をリッカに尋ねた。
『アンチクライストの大量虐殺は正に条約違反じゃないか?』
『人類60億とエレメンタリスト800人の価値は等しいっていう条約だよ。今、世界で死刑制度を残している国の殆どで人間は2人以上殺さないと犯人を死刑には出来ないって相場があるでしょ。この相場はエレメンタリストにも適用されているんだよ。…… つまり…… 』
『エレメンタリスト1人の命は人間750万人の命と等しい?』
『ああ~…。 ……。 そうね。そういうこと。仮にの話だけれどアンチクライストが1500万人を殺害したら第三資源管理局は初めて刑罰部隊を編成する…ってことだね』
愕然とするアイリーの表情をみて知識が追い付いたと判断したのだろう。テレサがアイリーへと語り掛けた。
「当然の事だけれど自分の身を守る権利、生活を守る権利、幸福を追求する権利、つまり人権については人間とエレメンタリスト、高次AIの全個体に対して平等に与えられているわ。ただ命の重さについては食物連鎖上位と下位では個体の重みは事実として違う。海洋生物を例にとれば鯨一頭と鰯一匹の命の重さを等しいとする考えを誰も持っていないわ」
呆然とテレサを見つめるアイリーに最後の言葉が掛けられる。
「この条約の草稿を起こしたのは人間よ。そして締結された条約に個人が怒りを覚えてもハッシュバベルと国家の力を動かす事はできないわ」
『……。 リッカの意見が聞きたい……』
アイリーの問いに答えたリッカの顔は上機嫌そのものだった。
『ん? ルールがどうであれ! アイリーがアンチクライストの動機を挫けば済む話でしょ? ネガティブファクトは何もないね!!』
…む。それもそうかもな。
アイリーの思考が立ち直りを見せ始める。




