05‐ アンチクライストの真実
イノリの問いにアイリーは反射的な問いを返した。
「え?イエス・キリストは偽名だったんですか?」
イノリが首を横に振った。
「そういう意味じゃないわ。当時のイスラエル北部・ガリラヤ地方では一般人はまだ苗字を持っていなかった。イエスはナザレのイエス、と周囲の人から呼ばれていたはずよ。キリストというのは固有名詞ではなく‟イスラエルを代表する者”と言う意味を語源に持つ称号よ」
アイリーは自分が子供時代に親から教わった聖書の話を思い出す。
「ああ…確かにそう習いました」
「聖書に書かれたイスラエルは国の名ではなく神に選ばれた人々そのものを指していた……。 そして当時、神に選ばれなかった人々というのは存在しなかった。人は神によって作られたというのが常識だったから……。 宗教はすでに愛されている自分たちが見捨てられないための方法論だった……。 では神に選ばれた人々を代表する者とは何をする人だったと思う?」
アイリーはしばらく考え、慎重に自分の考えを口にした。
「人々に神の愛を説く者ではなく、人々を代表して神に見捨てられない様に努める者」
イノリはアイリーの顔を見つめながら小さくうなずいた。
「そう。だからイエスは人々の罪を背負って十字架に上った。だからイスラエルの代表者、キリストと呼ばれた。なら虐殺のエレメンタリスト達が名乗るアンチクライストとはどんな存在だと思う?」
「……最初から神に見捨てられた人々?」
イノリは首を横に振った。
「それなら反創造神よ。ただの悪魔崇拝だわ。反キリストは神ではなくキリストを拒絶しているのよ?」
アイリーが再び考え込む。
「…神に見捨てられない為の行為を拒絶する……。 人間が人間らしくあろうとする姿を拒絶する……。 人間らしくあろうとする者から拒まれた者……。 人間から見捨てられたと感じるエレメンタリスト?」
有り得ない。言葉で認める者は多くないがエレメンタリストはその能力差から見て人類に対して圧倒的優位にたつ上位存在だ。
現実的な社会保障の点でもエレメンタリストはあらゆる面で特権に等しい優遇を受けている。エレメンタリストとして生まれただけで本人は何もせずに富豪としての生活を生涯にわたって住まう国から支給されるのだ。人間に対して見捨てられる、という力関係が成立し得ない。
「初代のアンチクライストの姿を私も見たわ。そして疑問に思った。彼女は何に憎しみを抱いたの? 自分より弱く劣った存在は憎悪の対象にならないわ。圧倒的強者のエレメンタリストは憎む前に奪う事も守る事もできたはず。憎悪は持たざる者が持つ者に対して、奪われた者が奪った者に対して抱く感情だわ」
イノリがアイリーの目を正面から見据えた。
アイリーの目に懐疑の色はない。ここまでのイノリの考えに深く同意している。
「アンチクライストを自称するエレメンタリストが何を憎んでいるのかを理解せずに対峙しても単純な武力衝突しか生み出さない。勝ち目のない消耗戦になるわ。逆にその憎しみにハリストスが先に辿りつけば虐殺の動機がなくなる」
テレサは二人の会話を黙って聞いている。
歴代のハリストス達が数万の屍を地に晒した結果辿り着いた仮説に、高次AI達がどんなに言葉を尽くしてもハリストス達を説得できなかった仮説に、アンチクライストという呼称を読み解くだけで辿りつきはじめている二人に瞠目している。
即ち、アンチクライストを悪の権化、破滅の悪魔と断じて正義を示そうとしても勝ち目はない。




