9 氷刃の涙
◆
振り下ろされた戦馬の前足を、ローザリアは横に転がってかわした。弾かれた石が背中にぶつかり、息が詰まる。彼女は砂に塗れた顔を歪め、唇を噛んだ。
「かはっ! こ、こんな所でッ!」
グラニア帝国を倒すなどと言っておきながら、実際はこんなところで負け、そして死ぬのか。所詮は儚い夢だった――そう思うと、悔しくてローザリアは泣きそうだ。
無様に転がって蹄を避ける自分が、どうしようもなく情けない。
大志を持って傭兵団を作ったのに、僅か一年足らずで自分は死ぬ。しかも剣や槍ですらなく、馬の蹄に顔を潰されて……。
しかも騎乗しているのは鎧すら着ていない、薄笑みを浮かべたドレスの女だ。屈辱以外の何物でも無い。
だから、ローザリアは涙を堪えていた。泣いてなどやるものか、と。
「だからといってッ!」
どうせ死ぬのだとしても、これ以上の無様は嫌だ。
もう避けきれないと覚悟を決めると、せめて一矢報いる為に剣を握る。
相手が馬でも、その足くらいは奪ってやるとローザリアは決意した。
そのとき、目の前に大きな背中が現れた。
薄い麻の衣の奥で、分厚い筋肉が躍動している。
大きな男が、ローザリアの姿を馬からすっぽりと隠した。
刹那、戦馬が高く掲げた蹄を、男が片手で受け止めている。
有り得ない光景だ。人間に出来るとは思えない。
しかし、そんなことが可能な男を、ローザリアは一人だけ知っていた。
それは嘗て最強と謳われたドレストス国王シグムント二世。
即ち、ローザリアの父親である。
「ちち……うえ……」
僅かに記憶に残った、父の背中。
それは大きくて、分厚くて、逞しい――どんな敵も打ち砕く、最強の男の背中だ。
「助けにきて……下さったのですね……」
ローザリアは安堵のうちに、その目を閉じた。気を失ったのである。
◆◆
ウィリスは馬上の女を、憤怒に満ちた瞳で見上げていた。
大胸筋、小胸筋、上腕二頭、三頭筋がビキビキと音を立て、盛り上がる。全ての力が左掌に集約されて、一トン近い馬体を弾き返した。
「コフゥー……」
ウィリスの体から、ユラユラと白い湯気が立ち上っている。
戦馬が怯え、嘶いた。イゾルデは軽く手綱を引き、首筋を撫でて馬を落ち着かせる。
「息災のようだな、友よ」
「友だと? 誰がだ」
眉をピクリと上げたウィリスは剣を構え、大地を蹴った。
ウィリスはこれ以上、イゾルデと言葉を交わす気など無い。
一足飛びに間合いを詰めて、逆袈裟に馬の首を狙う。
「ちっ! 少しくらい……話を聞けッ!」
舌打ちしつつ、イゾルデは馬を竿立ちにした。ウィリスの剣が空を斬る。
だが、既に間合いは詰まっていた。返す刀でイゾルデの左足を狙う。
足を斬り、体勢を崩した所を脇腹から一突き。刃が心臓に達して、終いだ。
イゾルデは氷結魔法の名手だが、呪文を唱える暇を与えるつもりは無い。
だがしかし――。
“ギィィィン”
鋭い金属音と共に、火花が散る。ウィリスの剣は、繰り出された槍に弾かれていた。
ジョセフ・アーサーだ。
予測していなかった訳ではない。彼の姿は視界にも入っている。
しかしウィリスは繰り出される槍よりも早く、始末を付けるつもりだったのだ。
「危なッ! 将軍、ちょっと待って下さいよッ! イゾルデさまを殺そうなんて、酷いじゃないですかッ! 恋人でしょっ!?」
関係性が間違っている――とウィリスはツッコミを入れそうになった。しかし、それは相手の思うツボだ。こうして油断を誘うのが、ジョセフのやり方である。
「こ、恋人ではない……い、今はッ!」
問題は、イゾルデが反応したことだ。アイツ、本当は馬鹿なのでは? とウィリスは思った。
そもそも「今」も「未来」も、ウィリスは彼女と恋愛関係になるつもりなど無い。仮に可能性があったとすれば、それは過去だけだ。
「……今は殺し合う関係だ」
「しっかり話せば、分かり合えるでしょうにッ!」
僅かに苛立った顔で、ジョセフが叫ぶ。
イゾルデは下がりウィリスから距離をとって、不死隊を集合させた。
「兵を纏める。ジョセフ、しばし時間を稼げ!」
「えッ! ちょっ! 俺が一人で将軍をッ!? そりゃ無理っすよッ! 死ぬ、死ぬッ!」
面倒な主従だと、ウィリスは呆れている。これも攪乱する為だとすれば、多少は厄介だ。
ウィリスは、ぶっきらぼうに言った。
「じゃあ、さっさと死ね」
「将軍、まさか俺も殺すつもりっすか!?」
「ああ。お前等こそ、俺を殺すつもりで来たんだろう? それでもな――他の奴等に手出しさえしなきゃ、殺されてやっても良かったんだぞ」
「あはは……お見通しって訳ですか……」
怯んだフリをしながらも、ジョセフの繰り出す槍は凄まじい。
軽薄そうな声とは裏腹に、二撃、三撃と繰り出される彼の突きは神速の域に達している。
だがウィリスは動じず、恐るべき回避能力を示していた。
一撃目は軽く首を横に傾げ、「ボッ!」という槍の過ぎ去る音を聞く。
二撃目は体を開き、胸元に槍を翳めさせながらも踏み込んだ。
あれ程の突きを、紙一重でかわしている。常人に出来る事では無い。
そして距離を詰め、ついに剣の届く位置に到達した。
「ジョセフ、逝け」
ウィリスの声は冷淡だった。横薙ぎに剣を払う。端から見れば、無造作な動作だ。
しかし腹筋を捻って腕を回したウィリスの力は、旋風となって敵を襲う。
何とか槍を縦にして受け止めたジョセフは、馬ごと弾き飛ばされた。
“グオォォォン”
凄まじい音がした。ジョセフの馬がたたらを踏んで、蹌踉けている。立ち上がれない。
受け止めた槍は中程から折れ、もはや使い物にならないだろう。
「弓兵、射よ」
ウィリスは傭兵達に命じた。指揮することに馴れた、威厳に満ち溢れる声で。
傭兵達は整然と従い、矢をイゾルデとジョセフへ向けている。
その間にウィリスは、ローザリアに目を向けた。
彼女はうつ伏せになり、気を失っている。瞼の端に、光るものがあった。
とりあえず彼女を退避させる為、ウィリスは肩に担ぐ。するとローザリアは気がついたのか、小さな声を出した。
「ちち……うえ……」
夢でも見ていたのだろうか。背中越しに手を伸ばし、何かを求めるような仕草をしている。
ウィリスは片眉を吊り上げ考えた結果、聞かなかった事にした。
だがローザリアの方が気付いてしまったらしく、肩に担がれたまま足をジタバタと動かしている。
「……ち、ちちう……ん? ……あっ、ウィル! なんだ、これは? おい、こら、降ろせッ!」
せっかく助けたのにと、釈然としない気持ちでウィリスはローザリアを降ろした。彼女は両頬を膨らませて怒っている。真っ赤な顔に涙目で、まるで駄々っ子のようだ。
「わ、わ、私は助けてくれなどと、頼んでいないぞッ! あんな女、私一人でだなッ!」
ウィリスは彼女の目をそっと指で拭い、「今はそれどころじゃない、待っていろ」とだけ言う。
再びウィリスが振り返ると、体勢を立て直したイゾルデが馬上で待っている。
ローザリアもハッとして、俯いてしまう。確かに、彼女は状況を忘れていた。
それ程にウィリスの存在感が大きく、安心しきってしまったのだ。
「ウィリス・ミラー! 私の話を聞けッ!」
イゾルデが大声で言った、よく通る声だ。
「そもそも、弓兵どもが私を狙ったとて、当たりはせぬぞ!」
道理だ――とウィリスも思う。
彼女は無詠唱で、防御魔法を身に纏うことが出来る。実際、矢は一本も彼女に命中していない。
彼女は身体の周囲に薄い氷を張り巡らせて、防御壁と成す。
それによって降り掛かる弓矢の中ですら、イゾルデは剣を掲げ突き進むことも出来た。
だからこそ、“氷刃”の異名を得たのだ。
もっとも、そんなことは織り込み済み。ウィリスはただ、彼女を油断させているに過ぎない。
だが、しかし――イゾルデの次の言葉が、ウィリスの首を傾げさせた。
「ここは、我らが退く! 故に――不死兵の亡がらだけ引き取らせてくれぬか?」
「虫の良い話だな、イゾルデ。お前は俺の首を取りに来たのではないか?」
「そうだ――が、諦めた。黒剣を手に入れた貴様を、この戦力で討てると思う程、私は愚かではない」
「ふん。その話を信じる程、俺も愚かではないぞ」
イゾルデの言葉を、ウィリスは鼻で笑った。
「信じて貰うしかない」
「信じる? あの日、あのとき裏切り転進したお前を、まだ信じろとッ!?」
ウィリスの黒い瞳が憎悪に染まる。五万の兵の無念が彼の心を日々、押しつぶすのだ。忘れた日とて無い。
「あれはっ、私にも理由はあった! 私とて、三万を率いていたのだ! 合流すれば、それだけ食料が不足するであろうがッ!」
「敵も攻めて来たッ!」
「……別個に……別個に撤退するだけだと思っていた。それだけで良いと……でなければ私とて……お前を見捨てなどするものか……お前を死なせたいなどと……誰が思うものか……」
「もういい、黙れ」
左手をスッ――と胸元におき、ウィリスは身体の中にある魔石に語りかけた。
「第一、第二門を解錠」
ドクン、ドクンと心臓が大きく脈打つ。
ウィリスの全身に、無数の血管が浮き上がった。身体が朱に染まってゆく。
これこそ、改造に改造を重ねた試作品であるウィリスだけの力だ。
魔石に充填した魔力を外殻より五層で覆い、その一つ一つに膨大な魔力を蓄えておく。
全ての門を開放すれば、その威力は地を割り天を穿つだろう。
ドン――と音を立て、ウィリスが大地を蹴った。
次の瞬間、イゾルデは大きく目を見開き、宙を舞う。
何が起きたか分からぬ間に、彼女は大地に叩き付けられていた。
自身の乗っていた馬が、頭上から黒い眼で見下ろしている。
「かはっ……!」
背中を強かに打っているらしい、イゾルデは口から血を吐いた。
見ればウィリスが馬乗りになって、剣を翳している。
いつの間に――と言おうとしたが、腹部が圧迫されて声が出ない。
「うぐっ……!」
苦悶に歪むイゾルデの美貌を見て、ウィリスが薄く笑った。
「何か言い残すことは、あるか?」
「ぐぅっ……うぐっ……」
言い残したくても、これでは言い残せない。イゾルデは焦った。
どうせ死ぬなら、例え信じて貰えなくても、ウィリスに気持ちを伝えたい。そして謝りたいと思う。
イゾルデは声が出せない代わりに、気持ちが溢れてくる。自然と涙が出た。
「泣けば、許して貰えるとでも思っているのか? 俺の兵は……泣かず、許しも求めず、誇り高く死んで行ったぞ……」
その時、ウィリスの背後からジョセフが迫っていた。
槍を折られて、剣を抜いたらしい。ジョセフは剣も、達人の域に達している。
鋭い剣が背を貫くかと思われた刹那――ウィリスは半身でかわした。
逆にジョセフの腕を抱え込み、いとも容易くボキリと折る。
「ぐああああぁぁぁっ!」
戦場で一度も傷付いたことの無い男が、肘を押さえて踞る。
ウィリスは一旦立ち上がり、ジョセフの腹を蹴り上げて遠くへ飛ばした。鎧が拉げ、彼の内臓を破壊する。
ジョセフは血と胃液の混じるドロリとした液体を吐き出し、動かなくなった。
「ジョセフ……! 馬鹿な……!」
解放されたイゾルデは、ようやく声が出せた。急いで回復魔法の呪文を詠唱する。
――が、ウィリスはその口を押さえ、眉を顰めた。
「許すと思うか、この俺が。さあ、答えろ、イゾルデ」
質問をした後だけ、僅かにイゾルデの口から手を離す。
「……な、何を?」
「ここの者を、皆殺しにするつもりだったのか?」
「そ、そうだ……悪いか……」
「そうか……だったら俺は、お前達を皆殺しにするまでだ」
「仕方がないだろうッ! 不死隊を見られているんだッ! 機密だぞッ!」
「そんなことが、理由になるか、この馬鹿野郎ッ!」
「わ、私は野郎じゃない……!」
ウィリスはイゾルデの頬を、ピシャリと叩いた。
痛いが、痛く無い。イゾルデにとっては、懐かしい痛みだった。
遥か昔イゾルデはウィリスと、こんな会話をした事があったと思う。
イゾルデは瞼を閉じ、最後の時を待つ。
このときイゾルデは、初めて知ったのだ。
ウィリスはずっと、自分と稽古をする時に手加減をしてくれていた。
自分に合わせて、強さを調節してくれていたのだ、ということを。
それなのに……。
いや――だからこそ、イゾルデには最後に伝えたい想いがあった。
たった一つだけ、真実の想い。それさえ伝えることが出来れば、もはや死んでもいい。
覚悟が決まると、また涙が溢れてくる。今までの自分は、なんと愚かだったのだろうか。
「ウィ……ル……最後……に……」
「なんだ、往生際が悪いぞ、イゾルデ。将らしく、潔く死ね」
そのとき、ウィリスの頭がペチリと叩かれた。
不愉快そうな目をウィリスが背後に向けると、そこには無い胸を反らすローザリアが立っている。そして、真っ赤な顔でプルプルと震えていた。
「お、お、おのれ、おのれ! 貴様がウィリス・ミラーとは……よくも私をたばかったな! 我こそドレストス王国第四王女、ローザリア・ドレストスだッ! この者――イゾルデ・ブルームとジョセフ・アーサーの身柄、鉄血騎兵が預かるぞッ! 貴様のような嘘つきに、こんな大事なことを任せられるかッ!」
混ぜっ返してくれる――とウィリスは思った。
だがドレストスの王を、ウィリスは一騎打ちにて討ち取っている。となると――自分こそが彼女の父親の仇だ。
ウィリスは非常に困った――復讐を遂げようとした瞬間、自身が復讐の対象になり果ててしまったのだから……。
先に自分が殺されるべきか? 否――そんなことをすれば、誰がイゾルデを殺すと云うのか。
そのイゾルデが口を解放されて、泣きながら何事かを言い始めた。
ローザリアもイゾルデを覗き込み、「なんだ、申してみよ」などと言っている。
「ウィル……ウィル……わだしが……えっぐ……わだじがまぢがっでいだぁぁ……ごめんなさぁぁぁい! わだじはぁぁ……ぐやじがったんだぁぁぁ……ずっと、ずっとすぎだったがらぁぁぁ……ミシェルと結婚しでほじぐなぐでぇぇ……転進したのもぉぉぉ……そうじないどぉぉ元帥がぁぁ補給をよござないっでえええ……えっっぐ……わだじだっでえええ、三万の兵をぉぉ、飢え死にさせたぐながったからぁあああ……ウィルゥゥ好きだよぉぉぉおお……言えだぁああああ……もお思い残すこどは無いぃぃ……殺してぇぇ……あなたの手でぇぇえええ、うわぁぁぁああん……はやぐぅぅううう、うわぁぁぁああん!」
ウィリスは首を左右に振って、溜め息を吐いた。
ローザリアも目をパチパチと瞬き、首を傾げている。
「こ、これが名高き“氷刃”……なのか? どうしたのだ、これは。なんかウィル……貴様のことが好きだとか言っているぞ? ……凄く謝ってるし告白されてるし、もしかして痴話喧嘩だったのか? それで貴様の客だと?」
「断じて、違う」
ウィリスは頭を掻きながら、黒剣を手放した。
自らの罪を認め、涙と鼻水に塗れて殺せと言う者を、わざわざ殺す事など出来るだろうか。
少なくとも、ウィリス・ミラーには無理であった。
それに、ローザリアもウィリス・ミラーを許すと言う。
父の命を奪われたが、自分の命は救われたからだ、と。
それにローザリアは、「本当の悪は別にいるのではないか?」という。
そう言われれば、その通りだった。ウィリスもイゾルデも、頷くほか無い。
とはいえ二人とも、自らの内にある悪を認識している。だからこそ、苦しいのだ。
全てが戦場の倣いと片付けることは出来ないが、死は容易い。
僅かでも未来に希望があるならば、罪を償い人は生きるべきだとローザリアは語る。
むろん許されざる罪もあれば、許しがたき人もいるだろう。
だが果たして、イゾルデの罪はどれ程のものか? ウィリスの罪は許されざるものか?
償いたくば、二人とも国を変えよとローザリアは言う。
こうして十六歳に過ぎない少女に、二十七歳の男と二十八歳の女が説教をされたのだ。
そしてローザリアは言った。
「だから我が剣となれ、ウィリス・ミラー。その命が尽きるまで」と。
もちろん、ウィリス・ミラーは断った。
イゾルデ、成敗!
こんな感じになりました〜!
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