73 夏の空へ
◆
カラード軍によるドレストス奪還作戦が始まった。
ローザリア率いるカラード軍はミリタニア南東部よりドレストス北西へ侵攻し、国境線を越えたのだが……。
「ウィル、グラハムの重装兵隊を前進させて、北門前へ展開させよ。シラクとウルドからの援軍は後方で待機。初戦から兵を損ねれば、ゲディミナス殿はともかくネイさまに何を言われるか分からんからな」
「分かった」
行軍を止めた平原で、前方に見える城塞都市に剣を翳してローザリアが言う。その額には汗の粒が光り、きらびやかな銀髪を頬に張り付かせていた。
ウィリスは馬上で頷き、軍師皇女と名高い妻のナディアに目配せをする。彼もまた、夏の暑さにむせ返りそうだった。
面頬を開けた兜の奥で、滝のように汗が頬を伝っている。
「……うん、それで問題無い。現場の指揮はローザリアさまで平気。仮に多少失敗したとしても……修正は可能」
しかし目を細めて頷くナディアは平然としたものだ。「暑くないのか?」とウィリスはナディアを心配してみたが――「平気……」と答えている。
だが実のところ彼女は、我慢しているだけであった。
というかナディアは余り顔に汗をかかないという体質なだけで、衣服の中はぐっしょりと濡れている。ただ生来の性格がちょっぴりマゾなので、それをとても心地良く感じていたのだ。
(フヒ、フヒヒ……中がびちょびちょ……もっと言ったらぐちょぐちょ……)
要するに変態なのである……。
今――空には綿菓子のような雲がぷかりと浮かんでいた。
その先――恐らくは宇宙から降り注ぐ陽光が、各人の鎧兜に容赦なくギラギラ照りつけている。となれば人体に温度を感じる機能がある限り、この状況で快適と答える者はまず居ないだろう。
特にウィリスの纏う黒甲は熱を吸収し、酷く暑い。だからと灰色のマントを纏ってみたが、今度は中が蒸れてたまったものでは無かった……。
この状況に辟易したハンス・チャーチルなど、鎧を脱ぎ捨て執事服に剣だけを腰に差した恰好だ。
「ハンス――……その軽装……あなたはご主人様と共に戦う覚悟、きちんとありますの?」
そう言うリリーもメイド服のまま、本陣で指示を待つ指揮官の一人である。
「――矢に当たらなければ、どうという事もありません。だいたいそれを言うなら、あなたのヒラヒラとしたスカートの方が問題でしょう……」
「これは、ご主人様の目を楽しませる為に必要ですので」
「ほう――……あの方の目は、今やナディアさまをご覧になっていると思っていましたが……あ、いや――、そうでなくともリリー、主の目があなたに注がれたことなど無かったと思うのですが?」
「あぁ? ……おいてめぇ……そりゃどういう意味だ? 喧嘩売ってんのか? あったんだよ、昔、ちょっとの間だけどなぁ……」
「ほう……そいつぁよ、いったいぜんたい何百年前のことだ? まさかよぉ、おい、前世とか言うんじゃあねぇだろうなぁ? ちょっとその辺、おじさんに詳しく聞かせてみろや」
白髪混じりの頭髪を撫で付け、ハンスが言う。そして右手は剣の柄に流れ……。
リリーはギラリと光る眼鏡に中指を当て、無言で巨大な手甲を身に着けた。
二人とも夏の暑さでイラついているのだろう――それを察した近くの兵たちは、彼等から距離をとっている。元不死隊の喧嘩に巻き込まれるなど、誰だって嫌なのだから……。
と――そのような些事はともかく、あの日以来ナディアはローザリアへの協力を惜しまなくなった。いや、もともと惜しんでいた訳では無いので、より積極的になったと言うべきか……。
なので今回のドレストス奪還に関しても、基本計画を立案したのは彼女である。
実際ミリタニアからドレストスの国境を越えるまでに、ナディアは五十を越える案を出していた。
その案を見てローザリアは方針を固め、計画を練って現在に至ったのである。
「……これならば本当に、二月あればドレストスを奪還できそうじゃないか!」
ちなみに現在の計画が出来上がったとき、嬉しそうに叫んだローザリアを見てウィリスは額に手を当てた。
(もしもナディアがいなかったら、どうするつもりだったのだ?)
こんな疑念が脳裏を過ったからだ。
確かにミリタニアから一気呵成にドレストスを奪還することを提案したのは自分だが――だからといって攻めれば勝てるというモノではない。
もちろんローザリアだって一軍の指揮官だ、全体の戦力比程度は知っていた。だがそこから直感的に勝てると導き出した答えに、一体何の価値があるというのか。
少なくともそれでは兵に、根拠を持って勝利を約束することなど出来ないだろう。ウィリスはそう考えた。
しかしローザリアは違う。それでも勝てると言いきる――それが彼女なのだ。
その辺りローザリアのいい加減さというのは、ある種のカリスマ性と言うことも出来るが……ウィリスにとっては心配の種にしかならないのであった。
ともあれ作戦立案から補給計画に至るまで、ナディアは完璧だ。
少なくともグラニアで将軍職にあったウィリスでも作戦の不備は見つけられなかったし、副官であったサラが見ても十全たる補給計画だと認めざるを得ない。
これこそが軍師皇女本来の力なのだと思えば、二人ともナディアのふにゃりとした眠そうな顔を見て、何とも言えない感慨を抱いたものである。
つまりかつてトラキスタンが行った戦争指導の大半は、ナディアの力量によっていたのだ。
となればナディアがこちらにいる限り、トラキスタンは丸裸も同様ということ……。
流石にこの事実に気付いた時は愕然としたが――ウィリスはそれをローザリアにも伝えていない。
或はローザリアも気が付いているかも知れないが、彼女がこれを利用しようと言い出すことは決して無かった。
「ふぅ……」
作戦計画を思い出しつつ、ウィリスは馬上から鉄血騎士団の重装兵隊――グラハムへと伝令を送った。
隣を見ればナディアがあちらこちらへ移動しようと動く軍馬に苦戦し、その首筋をペシペシと叩いている。相変わらず彼女は乗馬が苦手で、ついフラフラとしてしまうのだ。
ウィリスはナディアの馬の手綱を掴み、「どう――」と止めてやった。それから今回の作戦における最重な点を再度、彼女に確認する。
「――なあ、ナディア。ローズ一人にジャーハントの上空を飛行させるなど、許して良いのか? 危険だろう」
ジャーハントとはドレストス北西にある城塞都市のこと。今回の攻略目標だ。
ミリタニアとの国境に最も近い都市である為、旧ドレストスが防備の為に街を城壁で覆っていた。
といっても近年ドレストスがグラニアに併呑されて以降、東ミリタニアとドレストスに国境は無く、為に防衛する必要の無い都市となっていたのだが……。
「問題無い。ここには、竜を迎撃する装備なんて無い、から……それに国を取り戻すのだから、彼女は……英雄になるべき」
「しかしなぁ……たった一騎で敵の街へ入るなど……」
「スカイハイでも同じ事をやった……問題ない」
「あの時は、俺も居ただろう」
「……危険度で言えば、あの時の方が遥かに上……今回の敵は、僅かだもの……士気も低い」
やる気を出したナディアはサラが組織している森人の情報網を使って、敵の戦力を把握していた。もはやサラよりナディアの方が、森人の情報網を上手く使っているかもしれない。
そうして掴んだ情報によれば、ジャーハントの守備隊は僅かに一〇〇〇だという。
現在ローザリアはウルド軍から一〇〇〇、シラク軍からも一〇〇〇の援軍を借り受けており、全軍七〇〇〇で進軍しているのだ。となれば敵は物の数ではない。正攻法でも一揉みに出来るだろう。
加えてジャーハントの守備隊はグラニアの正規兵の二〇〇が旧ドレストス軍八〇〇を監督するという体であったから、降伏した後すぐにもローザリアへ恭順するだろう――とナディアは見ていた。
それにナディアは相手を降伏させるにも、なるべく派手な方が良いと考えたらしい。
また――どうせ降伏して味方になるなら、一兵も損じたくないと欲が出たようだ。
だからこそナディアは今回、ローザリアの暴挙を認めたのだろう。
つまり外部からグラハム達が住民に呼びかけ――それはいい、問題はここからだ――上空からはローザリアが呼びかける――という暴挙を。
「……これが成功したら……今日の噂を広めて……そうしたら……帰順する元ドレストス兵が増えるはず……」
「しかしだな! そうだとしても危険過ぎるぞ! 対空兵器など無くとも、弓矢があれば竜を射てるのだぞ!」
「問題無い。フレイヤは属性竜……炎で迎撃できる。威力は飛竜と比べ物にならない……」
「それを越える威力で放てば、傷つくだろう!?」
「そんなことが出来るのは……不死兵くらい。でも、居ないから」
「いたらどうする!? ――危険だ!」
「でも、本人が、やる気。今更、止められない」
「ローズッ!」
ローザリアは親指を立て、ニヤリと笑っている。本当にやる気だ。
「くっ!」
「心配?」
「当たり前だッ! 主君だぞッ!」
「……そう」
「なんだ!?」
「……なんでも……ない」
ナディアは多くを語らず、ウィリスを見つめていた。
そもそもナディアの基本戦略はドレストス北西から入り東へ大きく迂回し、南の港町ネオレイを目指す。
ネオレイに至ればここを拠点に兵力を二〇〇〇〇以上まで募り、それから一路北上して旧王都ミシガンコードを衝く――というもの。
当初ローザリアはこれに反対した。
国境を越えたら一気に南下し、王都を最初に落とすべきだと主張したのだ。
しかしミシガンコードには最低でも一〇〇〇〇の軍勢がいる。だからナディアは「勝算が低い」ことを説明し、頑として首を縦に振らなかった。
「考えて……最悪の場合は東からグラニアの援軍も来る……。挟み撃ちになったら、敗北は必至」
こう言われては、ローザリアとて折れるしか無い。
だが――だからこそ今回、ローザリアは活躍したかった。
ジャーハントを取り返すに当たって、自分の存在を知らしめたかったのかも知れない。
あるいはナディアに対する嫉妬心が、妙なところで発露した可能性もあった。
しかしローザリアも今や竜騎士である。
その気になれば単騎で敵地奥深くへ侵入することも可能だし、その火力をもってすれば街一つを灰燼に変える事だって不可能ではない。
となればジャーハントへ突入し、ドレストスの旗を振り回して住民を煽動するなど容易いことである。
そんなわけで――ローザリアはグラハムの部隊がジャーハントの北門前に展開し終えると、愛竜フレイヤを指笛で呼んだ。それから大きなドレストスの旗を抱え、ウィリスに手伝ってもらい騎乗する。
「あまり君主が無茶をするものでは無いと思うがな……」
ウィリスはローザリアの踵を押しながら、表情を曇らせて言う。
深紅の竜に乗った白銀の鎧を纏うローザリアは、苦笑を浮かべていた。
本心を言えば、これは当て付けである。
ウィリスとナディアの仲が日に日に深まっていくから、ローザリアは我慢ならなかった。
といって彼等の邪魔をする訳にもいかず……。
だったらもう、心配させてやるッ! と思ったのだ。
何と言うか発想が小学生だが、それでもローザリアは真剣だった。
「何を言う、ウィル。私が先頭に立たねば、誰が付いて来てくれるというのだ!」
拳を握りしめ、虚空を睨むローザリア。言う事だけは立派なのである。
「来ているだろう……見ろ、七〇〇〇の軍勢を」
「援軍が二〇〇〇も含まれているではないかッ!」
「まあ、そうだが――……」
ウィリスが心配そうな顔を向けてくる。なのでローザリア、図らずもキュンとした。
やっぱり一人で行きたくない。ウィリスと一緒に行きたいな――と思う。
しかしそんな姿をジットリとした目でナディアが眺めていたものだから……。
「き、貴様の優しさは、妻にだけ向けておれッ! ……ふんっ!」
ローザリアはそっぽを向くと、兜の面頬を下ろして……。
「行くぞ、フレイヤッ!」
掛け声と共に拍車を入れて、深紅の竜が夏の大空へと舞い上がる。
ローザリアの緑の瞳は、またも涙で曇っているのだった……――。
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