71 剣だから 1
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ウィリスが戻ると、案の定ナディアは部屋の隅で小さくなっていた。
食事は今回も二人分が、きちんとテーブルに乗っている。
まさかナディアが作った訳では無いだろうと思いつつも、ウィリスは申し訳ない気持ちになっていた。
「ナディア……」
ウィリスの呼びかけにもナディアは応えない。
灯りも無く、ただ開け放たれた窓から刺し込む月明かりだけが、ほの暗く室内を照らしていた。
外部からの音が妙に遠く感じ、ウィリスは頭を振る。
しかし酒で鈍った頭蓋の中身は、ナディアに掛けるべき気の利いた言葉さえ思い付かなかった。
(とにかく暗がりでは、どうにもならない)
ウィリスは室内のランプに火を灯し、少しだけ耳を澄ましてみた。「スーッ、スーッ」というナディアの規則正し寝息が聞こえる。
まさか泣いていないだろうな――と不安に思っていただけに、ウィリスは少しだけ安心した。
それからナディアの側へ行き、ウィリスはそっと彼女の頬に手を触れる。
そこでハッとした。ナディアの頬に薄らとした涙のあとが残っていたからだ。
(これも俺のせいだろうか……?)
つい疑問に思ってしまうのはウィリス自身、それほど“想われている”という自覚が無いからだ。
しかし昼間聞いたナディアの言葉を思い出せば、自分の責任だと認めざるを得ない。
となるとウィリスは今日、二人の女性を泣かせている。
もしも今日のことを知れば、きっとミシェルも泣いて怒るだろう。
だとすれば実質的に三人を泣かせることになるので、ウィリスはガックリと肩を落とした。
しょせん自分は不死兵なのだ。
戦場で戦うことしか能の無い人間。
汚泥と血と汗の中で生き、そして死ぬのが相応しい。
それが何の因果か恋をして、妻まで持ってしまった。
いや――恋をしたこと自体は素晴らしい。
ミシェルは素晴らしい女性だし、ローザリアのことも大切だ。
ナディアは運命の悪戯で妻にしてしまったが、彼女自身は美しくてとても健気である。
そんな彼女達に囲まれた自分自身は、とても幸せだ。
つまり問題は、彼女達を幸せに出来ない自分自身なのだとウィリスは考え、深く沈んでいく。
(俺の様な人間など、不死兵として仲間と共に死んでいた方がマシであった)
思わず、そんな風に思ってしまう。
だがそれも、今となっては逃げの考えだ。
では――どうするか。答えはあった。
まずは皆の幸福を望む事だ。
だからまず、目の前のナディアを幸福にすることを考えよう。
彼女が自分を待っていてくれたのなら、その気持ちに応えることから始めなくては……。
そう思うとナディアに掛けるべき最初の言葉を、ようやく思い付いた。
ウィリスはナディアの頬に浮かんだ涙の跡にそっと指先で触れ、静かに言う。
「ただいま――ナディア」
「ん……?」
ナディアは瞼に当たる柔らかな灯りと頬に触れる硬い指の感触で、薄らと目を開けた。
「お帰りなさい」
ナディアは微笑み、ウィリスを見つめて言う。
彼女は手を伸ばして彼の大きな身体に抱きついて……。
ウィリスは困った様に眉を顰めつつも、ナディアの桃色髪をそっと撫でる。
グラハムはナディアが「可哀想」だと言った。
確かに現状を鑑みれば、そうなのかも知れない。
だがナディアが可哀想な原因の一端が自分にあるのなら、十分に改善の余地はあった。
なぜならナディアに寂しい思いをさせているのは自分である。
ならばウィリスは自分を変えれば良い、と考えたのだ。
しかし問題はウィリス自身、自分をどう変えれば良いのか分からない。
何しろ物心ついたころから不死隊として、実験と戦争の日々を過ごしてきた。
兵器として改造され、戦場で戦い、敵を殺し味方の死を乗り越えて戻る実験の日々は虚無である。
またそれは、虚無でなければ乗り越えられない日々であり……。
全ては死へと至る階梯の中、それは誰にでも唐突で……しかも救いだった。
だからウィリスは死こそが光であり、やがて行き着くべきゴールだと思っていたのだ。
それが不幸であったなどと、当時ウィリスは考えもしなかった。
生きて戦い、時がきたら死ぬだけ。
けれど生物とは皆、すべからく同じだと思っていた。
敵と戦っても天災に巻き込まれても病を得ても寿命が尽きても――つまりは皆が死ぬ。
全てはその階梯の内にあるのだ、幸も不幸もありはしない。
それがかつてウィリスの価値観であった。
しかしそれではいけないと、二人の人間がウィリスに教えてくれて――……。
イラペトラ帝とミシェルであった。
イラペトラは語った。
「無意味な死など有りはしない。死は平等に重く――生もまた平等に尊いものだ。余は皇帝として其方に命ずる――生きて帝国を守り立てよ」
以来グラニアの為、イラペトラの為にウィリスは死ねなくなった。
ミシェルは言った。
「何でもいいから帰って来て! 死ぬ許可なんて与えないんだからッ! とうぜん怪我をするのも許さないのだわッ! 舞踏会に買い物――それから、ええと、ええと……ああもうッ、やることはいっぱいあるのッ! だいたい戦争なんて何でするのよ! お兄様もお兄様だわッ!」
そのときウィリスは初めて、自分が果てのない闇の中にいたのだと気が付いた。
何故ならそこに、目映い程の光を見出したからである……。
であるならばナディアも今、果てのない闇の中にいるのであろうか?
死への階梯を登るだけの者なのだろうか?
――違う。以前の彼女は光を知っていた。
それはトラキスタン皇帝リュドミールこそが、彼女の光であったから。
しかし逆に言えば光を知っていたからこそ、闇しか見えない今が辛いのではないだろうか……。
だが、救いはある。
なぜならナディアは、ウィリスの中にも光を見出しているのだから。
だからこそウィリスが変われば、ナディアを本当の意味で救う事が出来るはずなのだ。
しかし――と、ウィリスは自問する。
(俺はナディアを愛せるだろうか? 愛せたとしてミシェルは、それを許してくれるのだろうか?)
……考えても仕方の無い事だ。
とにかく今は、ナディアと真っ直ぐ向き合えば良い。
そもそもナディアが闇に飲まれそうだと感じたのは、自分が向き合わなかったからではないか。
愛するとか愛さないとか――そういったことはしっかり彼女と向き合ったあとのことだ。
だからウィリスは無言でナディアを見つめ、その表情をしっかりと見た。
喜びの中にある悲しみと安堵、それから絶望を壊そうとする勇気。
ナディアの瞳はウィリスを真っ直ぐに見つめ、ただ純粋に彼を求めている。
そんなことに今まで気付かなかったのかと、ウィリスはしばし愕然とした。
「夕飯までに戻らなくて済まなかった……また、冷めてしまったな」
ウィリスの言葉にナディアが笑う。それはぎこちない笑みだったが、何故かこの時ウィリスの目には、まるで花が咲いたかのように見えていた。
真っ直ぐにナディアを見れば、彼女は本当に美しい。傾国の美女とはナディアの様な女を指すのだろう。
「お酒臭い……でも……帰って来てくれて嬉しい」
ウィリスの気を惹こうと、ナディアは媚びた声を出す。
彼女も今が最大の好機だと考えていた。どういう訳かウィリスが自分を見てくれている。
今、彼の心を掴まなければ永遠に機会が訪れない……そんな気がするのだ。
けれど馴れないことをしたせいで、ナディアの声は裏返っていた。
「うむ。飲んだからな」
ウィリスは苦笑している。ナディアの猫撫で声が珍しい。
だが同時にナディアも皇族なのだなと、妙な納得もした。
ミシェルと同じく、我が侭なのだ。帰って来てくれて嬉しいと言いながら、その声には責める響きがあったからだ。
案の定、次の台詞を聞けばウィリスは頬を引き攣らせる他ない。
「ローザリアさまと……飲んだの?」
「いや、グラハムだ」
「ローザリアさまは?」
「ナディアのところへ戻れと仰られた」
「……なぜ?」
「あなたが俺の――妻だからだ」
「でも……それは……形だけだって……」
眉根を寄せて、悲し気に言うナディア……。
ウィリスは見ていられない。首を左右に振って、立ち上がった。
ここからは……なんと言えば良いのか分からない。
確かにナディアは不憫だ。
政治、軍事の道具と看做されつつも、健気に父へ尽くしてきた今までの半生。
皇族である以上、父帝も愛情を注ぐだけという訳にはいかなかったであろう。
そして今は愛情の存在しない、かりそめの夫婦。
しかしだからと言って、いきなり愛情が芽生えるようなものではなかった。
美しいと思う。大切にしたいと思う。
だが、そう思うことが同時にミシェルやローザリアへの裏切りだとも思うのだ。
要するに自分で自分の心を抑え込み、ナディアの中へ踏み込むことを躊躇しているのだろう。
今までは、そんなウィリスの態度が余計にナディアを不安にさせていたのだが。
けれど、今日のウィリスは少しだけ違った。
ナディアに手を差し伸べたのだ。
それから彼女の腰を抱き、夕食の並ぶテーブルへとエスコートをした。
席に着くとウィリスは改めて言う。
「料理は冷めてしまったが、ナディア――共に夕食を摂ろうと思って帰ってきたのだ」
ナディアはポカンとウィリスを見つめ、何も答えなかった。
怒っている訳では無い――ウィリスの優しさが不思議だったのだ。
ウィリスは反応に困るナディアに、しっかりと頭を下げる。
思えば今日は謝ってばかりだと、ウィリスは心の中で苦笑した。
「――その、今日はずっとここで過ごすと言いながら、出て行って済まなかった。寂しかったのではないかと思い、心配だったのだが……」
ナディアの瞳が見る間に潤み、大粒の涙が零れた。
「うん……寂しかった……凄く」
ウィリスはオロオロとして、また泣かせてしまった――などと激しく動揺している。
しかし今回の涙は今までのモノとは全然違う。何故ならこれは嬉し涙であったから。
「でも……大丈夫……帰ってきてくれた……から」
震える声でナディアが言った。
「にしても暗がりで、あんな場所に座って待っているなんて」
「フヒ、フヒヒ……あそこ、落ち着くの……」
「そうか……ところで、なあ、ナディア」
「なに?」
「うむ、実は……前々から思っていたのだが……せっかく美人なのに、その笑い方はどうにかならんのか? 勿体ないぞ。何と言うか、少し恐いのだ」
「あっ……」
ナディアはしばし中空に視線を泳がせてから俯き、胸元に手を置いた。それからゆっくりとした口調で、嬉しそうに笑みを浮かべて言う。
「お父様にも……同じ事を言われていた……よ」
「そうか」
ウィリスは笑い、ナディアも笑った。
ウィリスはこれでキチンと向き合えているのだろうか? と少し不安になったが。
しかしナディアは今、心から嬉しかった。ウィリスが真っ直ぐに自分を見てくれている、そう確信できたから。
ナディアがニコーッと笑ってウィリスを見つめている。それが余りにも美しくて――、ウィリスは慌てて冷めた料理にがっついた。そうでもしなければナディアの魅力にやられてしまうと思ったのだ。
酒場で飲み食いしてはいるが並の一食くらい、十分にウィリスの胃袋は収納可能なのである。
そんなウィリスを見て、ナディアは再び不安になった。
冷めた料理に口をつけつつ、彼女がポツリ、ポツリと口を開く。
「ねえ、ウィリスさま……私、邪魔……なの……かな? 結婚、迷惑だった……よね?」
ウィリスはスープに付けた匙を持つ手を止めて、ナディアに答えた。こんな思考に彼女を追い込んだのは自分。ならばキチンと責任を取るべきだ。
「うむ……正直にいえばローズやミシェルのことを考えて、あなたを側に置くのはどうかと思っていた。その意味では、どうして俺なのかと頭を抱えたものだ……」
ウィリスの答えに目を見開いて、ナディアは呆然としている。
答えをはぐらかされていない――それが新鮮だった。
けれど同時に、とても悲しい。やはりウィリスが自分との結婚を望んでいなかったからだ。
「ごめん……なさい……好きだから……でも……ぐすんっ」
泣きそうになるナディアに手を振り……。
「違う、違うのだ……――」
「うん?」
ウィリスはなおも言葉を続け、正直な思いを彼女に伝えていく。
「――誤解しないで欲しい。共に過ごすうち、あたたもまた俺にとっては大切な存在だと思えるようになってきたのだ。上手くは言えんが――少しでも好きになって欲しいというのがあなたの願いなら、それはもう……すでに叶っている」
言い終わったウィリスは匙を高速で動かし、スープを慌ててかき込んだ。
それから羊肉にかじりつき、瞬く間に平らげる。顔も見る間に真っ赤になって――俺は何を言っているんだ、とブンブン首を左右に振っていた。
ナディアは暫く「信じられない」といった体で呆然としていたが、すぐに「ねぇ、それって……」と鳶色の瞳を輝かせる。それからニマ〜〜ッとぎこちなく笑い、顔を真っ赤にしていた。
よっぽど嬉しかったのだろう。この元皇女は笑うことが何より苦手なのに、それでも笑顔は花も恥じらう程に美しかったのだから。
「それは……私のことが……好きってこと……?」
「まだだ、まだ好きだと言えるほどではない。だが――……」
「分かった……もっともっと……私のこと……好きにさせて……みせる」
またもニマ〜〜ッと笑うナディア。ぎこちなさが新鮮で、奇妙な愛らしさを醸し出している。
こんな笑顔を見せられては、ウィリスとしても覚悟を決めるしかない。
きっといつか、ナディアを好きになる。好きになってしまったら……。
ああ……ミシェルに何と言おう――許してくれるかな……。
ウィリスの中に新たな不安の種が芽吹いたのであった。
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作者のやる気が上がります!
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