49 ネイの依頼
◆
五月下旬、ローザリアは五千の軍勢を率いてウルドの公都ノイタールに入った。
膠着したミリタニア戦線に一石を投じる為、ネイからの命令が下ったのだ。
ローザリアはノイタールの政庁に入ると、すぐにもネイの私室に招かれた。
ローザリアが公爵たるネイの部屋に足を踏み入れるのは、初めてのこと。
部屋の壁は赤を基調としているが、洗練されていた。金色の美しい紋様が部屋の隅々を彩り、ドーム型の天井にはきらびやかなフレスコ画が描かれている。
夏が近づいていた。といって、まだ窓を開け放つ程では無い。
午後の日差しが窓から入り、壁の装飾をきらびやかに輝かせていた。
その窓の先には、大きな露台がある。
豪奢、荘厳、華麗――ローザリアの脳裏に浮かぶのは、そのような言葉。
彼女は部屋を見回し、小さく感嘆の声を上げた。
「なんと美しい……」
といって今やローザリアもウルドの辺境伯。その広大な領土は、公爵であるネイの直轄地にも等しい。望めば、この程度の部屋に住むことは可能であろう。
しかしローザリアの居室は簡素なもので、大きな木の寝台と小卓があるのみ。
贅沢をしたことのない彼女にとって、この様な貴族的生活様式は、未だ理解の範疇を超えるのだ。
ネイは長椅子に横たえていた身体を起こし、柔らかく微笑んでいる。
「わざわざ呼んで、悪かったわね」
緩慢とした動きのネイに、ローザリアは口元を抑えていた。
ネイはややふっくらした体つきを、ゆったりとしたドレスで包んでいる。
決して太った訳では無い。膨らんだお腹を見れば、彼女が妊娠していることは一目瞭然であった。
ローザリアが慌ててネイに駆け寄る。
「……ネイさま」
このような女性の姿を、ローザリアはつい一月前まで毎日見ていた。
ラエンカにおいて、ミシェルが妊娠したのだ。
もちろん父親はウィリスだから、ローザリアとしては複雑な気分であったが。
(まったく……戦争の最中に、どいつもこいつも……)
ローザリアは苦笑しつつも、微笑ましい気持ちになっていた。
彼女は人を殺すことを生業としていたから、余計に新たな命を守護したいと思うのかも知れない。
「そ、そのままで……!」
「いいのよ、大分安定してきたし……それに二人目だもの」
ネイの視線が下方に向けられた。
彼女の視線の先には、ふかふかとした絨毯の上を這い回り「キャッキャ」と笑う子供の姿がある。
ネイの一人娘、リーネ。遅くとも来年には姉になる、次代のウルド公だ。
ローザリアはリーネを見て、「子供の成長は早いものだ……」と感心した。
が、彼女はすぐネイに意識を戻し、「本日は、どのようなご用件で?」と問う。
援軍に来いとの命令を受けて来たものの、ノイタールで足止めとは不思議な話だ。直接ミリタニアに入れば、三、四日は早く戦場に到着出来るのに。
「ま、そう慌てないで頂戴」
ネイは表情を硬くしているローザリアに座るよう促し、侍女に茶菓子を持ってくるよう指示を出した。
彼女は優しく微笑み、「カラードの様子はどうか?」とローザリアに訪ねた。
「はっ。皆のお陰をもちまして、安定しております」
「守りはどうしているの?」
「アリシアとサリフに八千の兵を与え、ラエンカを守らせております」
「そう、順調そうね。カラード辺境伯」
「あっ……お礼を言うのが遅れました。このように高き地位を賜りまして、身に余る光栄に存じます……」
「何を言ってるのよ、ローズ。あなたはドレストス王家の血を引いているのでしょう? だったら辺境伯くらい当然だわ」
「ですが、この早さは……」
「そうね……確かに妬み嫉みはあるでしょう。諸侯といっても、誰もが大人物という訳では無いのだし」
「でしたら……」
「でもねローズ、これは自分で切り取った領土でしょう? 誰憚ることがあると言うのかしら?」
「……いえ。閣下の口添えがなければ、私は未だ一介の傭兵だったでしょう」
「あら、ローズの口からそんな言葉が出るなんて……夏に雪でも降るのかしら?」
「私は、感謝申し上げているのです。全ては、あのとき無茶な願いを聞き届けて下さった閣下が居ればこそ、今の私があるのだと」
ローザリアに頷き、ネイが紅茶のカップに手を伸ばした。
「あら、随分としおらしくなったものね? ウィリスに散々夜這を掛けて、フラれていた小娘が」
懐かしそうに遠くを見て、ネイは微笑んだ。
ローザリアは気恥ずかしそうに俯き、紅茶で口を湿らせる。
今のローザリアとウィリスの関係は、きっと誰に言っても理解出来ないものだ。
例えるならば一枚のコイン、その表と裏であろうか。
互いに離れられぬと知っていながら、向き合うことが出来ないのだから。
「……そ、そんなことより、閣下ッ! ミリタニアの攻略――手を焼いていると伺いましたが」
ローザリアは身を乗り出し、本題を切り出す。
「そうね……ミリタニアに関しては、当てが外れた――というところかしら。それであなたを呼んだの」
「当て、と申しますと?」
赤毛を人差し指に絡め、クルクルと巻いて遊びながらネイが言う。
「ミリタニアにもね、私達の味方になるはずの男がいるのよ。少なくとも、そう思っていたのだけれど……それが動かないの」
「動かない……どなたですか?」
「先王の孫を擁する、ゲディミナスと言う男よ。彼が起ってくれれば、ミリタニア西方から二万の味方が見込める所だったのだけれど……」
肩を竦めながら、ネイが焼き菓子を口に放り込んだ。
ローザリアも、ゲディミナスという男の名は記憶している。
彼はミリタニアの北西にあるシラクという街の領主だ。
複雑な姻戚関係だが、ゲディミナスの義娘が先王の娘。そして先のミリタニア東西戦争における西軍の盟主が、彼女の夫であるフランツだった。
「王孫を擁しながら動かないとは……野心の無い男なのでしょうか?」
「さあ……仮にゲディミナス本人に野心が無かったとして、孫が可愛いと思うなら動くと思うのだけれど」
ローザリアは眉根を寄せて、怪訝そうに口を開いた。
「だとすると……ゲディミナスという男に、何か狙いがあると?」
「それが読めなくてねぇ……実際、敵対しているわけでもないのよ? それどころか現在も友好的だし。
ただね、彼は参戦しない理由を、こう言ったの――竜がいるから、領地を離れることが出来ない――って」
顔に手を当て、「はぁ〜」と溜め息を吐くネイ。続く言葉は、「意味が分からないでしょ?」だった。
ローザリアは何やら嫌な予感がして、「竜!?」と言いながら仰け反っている。
「そ、竜なのよ」
◆◆
ゲディミナスの話によれば、領地シラクに火竜が出たという。
その火竜は毎月三人を生け贄として喰らう代わりに、土地を守護を申し出た。
当初ゲディミナスは断り、火竜を制圧しようと軍を動かしたが、あえなく返り討ち。
そのとき、火竜はこう言ったという。
「我を倒さんとする勇気は認めよう。我と互角に戦い得る戦士が一人でも居るのなら、この地を去るも吝かではない」と。
ここまで話してネイは、またも溜め息を吐いた。
「当然、軍で当たって倒せない火竜よ? シラク軍に火竜と互角に戦える戦士なんて、いなかった訳よ。だからゲディミナスは諦めて、以来ずっと月に三人の生け贄を用意してるってわけ」
「はあ……それは厄介な竜ですね」
「でしょう? といって話は通じる火竜だし、交渉役になっているのが他ならぬゲディミナス本人だって言うの。だから、動けません――って」
肩を竦めるネイを見て、ローザリアは「まあ……そうでしょうね」と相槌を打つ。
「でも、そのような状況ではいずれ領地が破綻しましょう? 私なら、何とか打開策を練ります。少なくとも閣下に助けを求めるなりすれば――やはり、ゲディミナスの意図は分かりませんね……」
「そう、そこなのよ。でもまあ毎月三人というのなら、年間でもたったの三十六人だわ。例えば犯罪者などで賄うなら、悪く無い話よね。それに話が出来る竜なら、シラクとの協定さえあるのかも知れない……」
「まさか、そんな……いくら犯罪者と云えどもッ!?」
「だけど、このウルドだって死罪になる者は年間で百を超えるわ。人口がいくら少ないと言っても、不可能では無いでしょう」
「そ、それは……確かに……」
「まぁ、私が妊娠していなければね……火竜をちょいちょいって倒して、問題を解決出来たのでしょうけれど……これじゃあね」
お腹をチョンチョンと人差し指で押し、ネイは深い溜め息を吐いた。
「無茶を仰らないで下さい。いくらネイさまが万全でも、火竜と互角には戦えません」
「あら、そう?」
「そうです。だいたいネイさまの得意魔法は炎でしょう? 完全に力負けしますよ」
「やっぱり、そう思う?」
「思いますッ!」
「だからね、そこで――なんだけど、ローズ」
ここでローザリアの背筋に、冷たい汗が流れた。
彼女は援軍にウィリスを伴う様、ネイに指定されている。
そして竜が望むのは「己と互角の戦士」であった。
「まさかネイさまは、ウィリスに火竜を倒せと命じるおつもりですか?」
「あら、分かる?」
「……駄目です。たとえ彼でも、火竜になんて勝てません。それにミシェルが……」
「知っているわ。ウィリスが死ねばミシェルは、生まれたばかりの子供を抱えて未亡人になるでしょうね。でも、それがどうだというの?」
「ネイさまッ!」
ローザリアは流石に怒り、テーブルに両手をバンと付いた。
こんな話を、「はい、わかりました」などと安易には答えられない。
人の身で火竜と戦うなど、自殺行為である。
(ネイさまは、ウィリスを殺すつもりか……!)
もちろんネイは恩人だし、善人だと思っていた。
だから、絶対の忠誠を誓っても良いとまで思ったのに……。
ローザリアは怒りも露に、きっぱりと言った。
「ウィリスを貸す件は、お断り致します。ミリタニア攻めは、引き連れた五千の兵と共に援護しますので、それでご容赦頂きたい……」
立ち上がり、ローザリアは踵を返す。
その動作は非常に鋭角的で、彼女の迸る怒りが全身から発されていた。
「ドレストス辺境伯、話を最後まで聞きなさい」
「嫌です」
「いいえ、聞きなさい。このままエンツォと共に幾つもの要塞を落とした後、ミリタニアの王都へ進撃すれば、数多の兵を失うでしょう。最終的に、半数を失うかも知れない」
「かも、知れませんね」
「でもウィリスが火竜を倒せば、ゲディミナスがウルドに味方をしない根拠を失うの。つまり彼等が側面からミリタニア王都を襲う気配を見せれば、要塞の兵は王都へ戻らざるを得ない。それで我が軍の損害を減らせるのよッ!」
「それはそうでしょう。いくら要塞を守っても、王都を落とされては意味が無いのですからッ!」
「考えなさい、ローズ。最終的に全軍の半数――七千の兵を犠牲にしてミリタニアを落とすか、ウィリス一人の命を賭けて七千の命を救うか――国に戻って父親になる男は、何もウィリスだけではないでしょう? 七千の兵にはそれぞれに家族がいて、愛する人が待っているのよ」
「で、でも……それでウィルが死んだら……私はッ!?」
ネイの目がスッと細まり、支配者の顔になる。
「ウィリス・ミラーが火竜に負ける程度の男なら、少しも惜しく無いわね……むしろミシェルが再び一人になるのだから、これを政治的に利用すればいい。軍を退くか進めるかは、その時に考えるわ。
ローズ、いい? ――万が一彼が負けたなら、あなたにとってもそれは臣下を一人失うだけのことよ。君主とは、戦争をやれば良いだけじゃないのだわ。政治の力学も考慮した上で、戦さに最良の駒を投入する。駒は――時に奪われ、破壊されるものなのよ。
何より君主とは、誰か一人を特別に想って良い存在ではないのだわ」
「し、しかし、ネイさまッ!」
「――それにローズ……ウィリスが負けるとは限らないでしょう。彼を信じることが、出来ないの?」
ネイの声音には、否定を許さない凄みがある。
ローザリアは知らず、冷や汗をかいていた。唾液を飲み込もうとして、失敗する。いつの間にか口の中がカラカラで、彼女の声は掠れてしまった。
「そうですね……わかり……ました」
虚ろな目で頷くローザリアは、ガックリと肩を落とす。
「……これは本心なのだけれど、ローズ。私はウィリス・ミラーなら、火竜にも勝つと思っているわ」
凍土のように冷たいネイの声が、ローザリアの耳を撫でる。
深い愛情と冷酷が同居する存在こそ、君主なのだとローザリアも理解していた。
だからこそ、まだまだネイに及ばない。
悔しさと不快な酸が胃の奥から込み上げるのを押さえつけ、ローザリアは静かに退出した。
――――
こうして話を終えたローザリアは、ノイタール郊外の宿営地に戻る。
すぐに皆を集めると合議を開き、その席で彼女は宣言をした。
「――とまあ、そんな訳でウィル、火竜退治だ。なに、シラクまでは私も一緒に行くし、大丈夫だろう」
ビュウ――と強い風が吹き、天幕がバタバタと揺れる。
腕を組んで座っているドレストス軍の幹部達が、全員同時に立ち上がった。
「何で引き受けるかな!? 火竜退治なんてッ!」
一番大きな声を出したのは、サラであった。
「仕方が無いだろう……だってゲディミナスを味方に引き入れなければ、ミリタニア攻略に膨大な犠牲が出るかも知れない。そうなれば、今日率いている兵とて半数を失うかも知れないと言われたのだ」
ローザリアも泣きそうな顔で反論する。
「不死兵だって元は人間なんですよッ! 火竜なんかと戦って、無事で済む訳ないでしょうッ!」
サラが更に激高した。
彼女はいつもウィリスの調整をしている手前、彼の性能を熟知している。
だから決してウィリスが「負ける」とか「死ぬ」とは言わない。
「勝てる可能性があることを知っている」からだ。
しかしだからといって、「負ける可能性」もある。それを考慮すれば、危険な賭けになることは間違いないのだ。
「まあ……いいんじゃないか。俺としては、勝てば兵の犠牲が少なくなるのなら、有り難いことだと思うのだが」
ウィリスは腕を組んだまま、静かに言った。
右眉だけがピクリと上がったのは、“元人間”という言葉に対する反応である。
否定する気にもなれなかったので、片眉だけが上がってしまった。
この様なウィリスの発言に両眉を寄せたのは、ナディアだ。
今や彼女も正式にウィリスの第二夫人となり、公的にはドレストス軍の軍師である。
だからウィリスだけが背負うリスクに対して、眉を顰める権利は十分以上に持っていた。
「理屈は分かる。でも……辺境伯。これはウルド公の策でしょう?」
「そうだな、ナディア。ウィルが死んだ場合でも、ネイさまは損をしないよう考えておいでだ」
「当然ウルド公なら、その程度は考える」
ウィリスは苦笑を浮かべ、沈鬱な面持ちで会話するローザリアとナディアを見ていた。
「俺はもともと不死兵、死地へのみ行くよう創られている。二人とも、気にするな」
「ウィル……」
全てを察したようなウィリスの視線に、ローザリアが下唇を噛む。
彼女は自分の不甲斐なさが、どうしようもなく情けなかった。
――――
ドレストス軍本隊はイゾルデが率い、ウルド公国を一路南下。一月後にエンツォ率いるウルド軍一万との合流を果たす。
一方ローザリアはウィリスとリリー、ハンスの三人を引き連れ、ゲディミナス侯爵の領地シラクへと向かった。
ナディアも同行を申し出たが、ローザリアの嫉妬により却下されている。
「貴様、今はぬいぐるみがあれば寝られるだろうがッ!」
「黙れ、辺境伯。私は、なんと第二夫人です」
「知っているわッ! しかし私は領主だ、文句があるかッ?」
放っておくと喧嘩になりそうだったので、ウィリスがナディアに言って聞かせ、事なきを得た。
「ナディア、イゾルデの下で軍師としての腕を振るってくれ。俺達に帰る場所があるのも、強力な軍があってこそ。イゾルデと力を合わせ、何事も無い様に頼む」
「……はい」
「ウィルが言うと素直だなッ、えッ、おいッ! ナディアッ!」
「妻として、当然」
文句を言うローザリアに対し、勝ち誇った笑みを見せるナディアであった。
ゲディミナスの領地シラクは、ウルドの都ノイタールから馬で三週間の距離だ。
道中は険しい山道で、一行は砂と埃に塗れていた。
ゴツゴツとした岩山の間には、いくつもの神殿がある。それらは嘗て栄えた魔法文明の証しであった。
しかし今となっては祈りを捧げる者も無く、ひび割れ、風化する寸前の寂し気な姿を旅人に見せている。
時折、空に飛竜が姿を見せた。
この地は竜の住処としても、有名だ。風化しそうな遺跡の影に、彼等の巣があると言われている。
実際グラニア帝国の竜騎士も、何人かはこの地で竜を得たらしい。
「火竜がいるというのも、納得できる」
翼を広げて悠然と飛ぶ飛竜を見上げ、ウィリスが呟いた。
火竜というのは、火の精霊の影響を受けた飛竜なのだと言う話だ。
ローザリアが馬の足を緩め、ウィリスの横に並んで問う。
「火竜というのは、一体どれ程の強さなのだろう?」
「さあ。戦ったことがないから、何とも言えんな……」
彼等の行く手に、ようやく巨大な壁と門が見えてきた。
風が吹く度、砂埃が舞って目が痛むような土地だ。
周囲にある草木はどれも背が低く、枯れているものさえ多く目につく。
そのような土地に人が暮らす町があるのかと、一行に疑念が芽生え始めた頃であった。
街道の両脇にも、ようやく疎らながら緑の草花が散見している。
「どうやら、シラクに着いたようですわ」
リリーが前方を指差して、言った。
面白いと感じたら、評価、ブクマ、感想、宜しくお願い致します。
作者のやる気が上がります!
※評価ボタンは下の方にあります。




