48 遷都
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グラニア帝国歴二六五年は、波乱の幕開けとなった。
皇帝ブラスハルトは帝国元帥たるゲートリンゲンの進言を受け、遷都を決定。
帝都グラスコールより百キロほど南にある都市、エルファリアを新帝都と定めた。
このとき皇帝ブラスハルトは、あらん限りの財、家畜、食料を帝都から持ち出したという。
持ち出せない物は破壊し、燃やした。
お陰でグラスコールに入城を果たしたムスラー公エーリクは、廃墟の中で寒さと飢えに苦しむ住民を目の当たりにし、絶句する事となる。
「エーリクどの……」
廃墟と化したグラスコールの宮殿で、ゴード公ルネが声を震わせ盟友を呼んだ。
宮殿すらブラスハルトは打ち壊し、燃やし、瓦礫の山と変えていた。
ルネの細い足は生まれたての子鹿を思わせる程、ガクガクと揺れている。
ルネの精神は、もともとが弱い。それでこの惨状を見ては、無理からぬコトであった。
今、ムスラー公爵エーリクとゴード公爵ルネは、かつて荘厳であった宮殿の広間にいる。
割れた天井から刺し込む陽光が黒く焦げた絨毯を照らし、栄華の残滓を濁していた。
無造作に転がっていた金の杯をエーリクはしゃがんで手に取り、ルネに向き直る。
エーリクは震える盟友の横顔を見て、舌打ちを我慢するのに必至だ。
ルネが蒼白な顔をしている。
いや――もともと彼は色白で華奢な男だ。もしもドレスを着て化粧でもすれば、貴婦人にも見えただろう。
しかし喉仏だけはしっかりと尖り、彼が男性であることを主張している。
その喉仏が幾度も前後に動いている様を見れば、ルネがどれ程この状況に絶望し、緊張しているかなど、言わずとも理解できるエーリクであった。
(俺とて、これ程とは思わなかったわ!)
名を呼ばれても、どうすることとて出来ない。
エーリクは盟友を見て、皮肉な気持ちになった。
「戦果、とは呼べんな……」
エーリクは金杯の煤を払い、輝きを見てから投げ捨てる。
カラン――と音を立て、杯が転がった。
「それよりも問題は、水だ」
エーリクはこめかみに指を当て、「ふぅ」と息を吐く。
グラニア軍は水道橋を破壊して、南方へと去った。それも七本全ての水道橋だ。
これでは帝都の民を養う事など、到底出来ない。
むろん帝都の民を養う義務など、ムスラー軍には無い。
しかし飢えと乾きに苦しむ民を見捨てては、ムスラー軍の沽券にも関わろうというものであった。
第一、エーリクの矜持が許さない。
それにしても許せないのは、ゴード軍の体たらくだ。
エーリクは色白で細身の盟友を見つめ、「女かッ!」と怒鳴りたくなった。
彼はひたすら部屋でオロオロとして、部下に顔の煤を拭いてもらっている。
その部下が美女だから、さらにエーリクは腹立たしくなった。
しかも彼女は、最上級の将軍だと言う。
(俺の部下は、あのハゲだぞ!)
エーリクは、八つ当たりがしたくなった。
なので、先ほど転がした金杯を蹴飛ばす。
杯は黒く焦げた玉座に当たり、椅子を粉々に破壊した。
これで少しだけ、エーリクの気持ちが晴れる。
ようやく落ち着いて、盟友の落ち度を問う事が出来た。
「何ゆえルネどのは、水道橋の破壊を見過ごされたか……」
そう……グラスコールに向かう水道橋は、大半が西方にある山脈が源流の水を引いている。
ルネがその気なら、グラニア軍の破壊行為は阻止出来たはずなのだ。
「そう言われても、まさか己が国の水道橋を壊すなどと……思わぬであろう?」
茶色の髪と同色の眉を気弱そうに落とし、ルネが言う。
エーリクの強面を恐れてか、彼は内股である。部下の女将軍共々、弱々しくモジモジとしていた。
(ぬぅぅぅああああッ! どっちも抱きたいッ!)
と、少しエーリクが錯乱する。
どっちもというのは、少しマズいだろう。ルネは男である。
「すぅーはぁー」
ここで大きく深呼吸をし、エーリクはハゲの顔を思い浮かべた。
初戦で快勝し、エーリクを悠々と上陸させたハゲ将軍ラッセル・ローケン。
きっと奴が大勝したお陰で、グラニアは焦土作戦に出たのだ。
もしもムスラー軍組みし易しと見れば、グラスコールの前に防衛線を張っただろう。
そう思うと、あの弱気なハゲ面が異様に憎々しい。
何が「敵の海将を討ち取ってしまいました……」だ。
「お前が本気で戦って殺さない相手など、世界に何人いるのだッ!」と怒鳴りたい。
しかし、怒鳴れなかった。
何故ならラッセルは今のところ海軍を纏める為、沿岸の街にいるからだ。
「ふぅ……」
エーリクは溜め息を吐き、赤色に近い金髪を掻き上げた。
言っても始まらないと己に言い聞かせ、何とか落ち着く。
そもそもゴード軍に置ける勇将、猛将、名将の類は、悉くウィリス・ミラーに討ち取られている。
何故なら彼を倒さんと、皆、勇敢に挑んだからだ。
ゆえに現在ゴード軍に残っているのは、彼を恐れて戦わなかった者ばかり。
エーリクとしても、ゴード軍の弱さは分かりきっていたことである。
この女将軍にしたところで、軍を率いているだけマシと言わねばならない。
行軍中に軍を分解させないだけでも、上出来なのだ。
「まあよい、ルネどのは郊外に陣を張り、軍の訓練を急がれよ。戦さにならなかったのは幸いだ。練度を上げ、後の戦さでグラニア軍に後れを取らぬよう、励んで頂きたい」
落ち着きを取り戻した声で、エーリクがルネに言う。
目を輝かせ、ルネは大きく頷いた。彼の方はエーリクを兄の様に慕い、尊敬しているのだ。
それからエーリクが部下に、命令を下していく。
「……急ぎ三本の橋を復旧させよ。一本につき、一万の兵を出せ。それから食料の調達だ。ラッセルに言って集めさせろ。金に糸目は付けん、何処からでも買い漁れッ!」
「エーリクどの。食料に関しては、我らも何とかしよう。民が苦しんでいる姿は、見るに耐えぬ……」
ルネが瞳を潤ませて、エーリクに協力を申し出た。
この君主はどうあれ、性質は善である。
もしも戦さが無ければ、名君として名を残す資質を持っていた。
エーリクも頷き、ルネの肩に手を乗せる。
「よろしく頼む、ルネどの」
こうしてムスラー・ゴード連合軍の侵攻は、グラスコールで一端足を止めた。
もしもエーリクが人道的でなければ、歴史は違ったものになったであろう。
しかし彼等は、ここで民を見捨てることが出来なかった。
つまりグラニアの術中に嵌った――ということである。
◆◆
新帝都エルファリアの人口は、三十万ほどだった。
しかしグラスコールから軍人や家族、或は魔導師達を連れて来たため、現在では七十万ほどに増えている。かつての倍以上だ。
それでも物資を大量に運び入れた為、モノに困るという事は無い。
エルファリアに遷都したブラスハルトは、新年の宴をグラスコールで開けなかった事を、不満に思っていた。といって、既にグラスコールでの暮らしも飽きている。
だから遷都するとすぐに、「新たな街、新たな首都に乾杯」――などと気楽な声を上げていた。
新たな宮殿は、十万もの人員を動員して造営している。
それはエルファリアの政庁を破壊し、周辺を更地にした上で新たに作るモノであった。
東西南北と中央に巨大な尖塔を持つ、グラスコールを凌ぐ皇宮となる予定だ。
世界の中心にならんと願いを込めて、これを“太陽宮”と名付けたらしい。
良識派と名高いコーラル・ユーシス将軍はこれを笑い、投獄された。
しかし来るムスラー・ゴード連合軍との戦いに備え、すぐに釈放されている。
ただしお陰で将軍の位階を最下位に下げられ、ゼナ・ヴェルナーの後塵を拝することとなった。
とはいえ流石に遷都を決めてから一月では、太陽宮も完成には至らない。
今のところ中央にある皇帝の居館と、北の尖塔のみが完成している。
公式の行事は北の館で行う事となっているので、これで特に支障も無いのだが……。
――――
四ヶ月が過ぎた。
新帝都はグラスコールより南方にある為、既に陽気は初夏である。
ゲートリンゲンは新たに開いた元帥府で、満足げに頷いていた。
ここも新帝都建設で、新たに建造された建物だ。
皇宮の側近くに建てられた地上五階、地下一階の建物で、一万の兵を収容してなお余裕がある。
つまり竜騎兵の全てをここに集め、自身の権力基盤としているのだ。
といって皇宮には不死隊の全兵力が集まるので、決して反旗を翻そうとしての事ではない。
元帥府二階に、ゲートリンゲンの執務室はあった。
温かな日差しが、窓から刺し込んでいる。
五月の陽光は既に熱く、室内の空気をしっかりと暖めていた。
「どうだ、ヴェルナー将軍。我が策も、なかなか見事なモノであろう」
ゲートリンゲンが笑みを見せた。
吊り上がった唇の端が、自信を通り越して過信に見える。
だが倫理や道理を無視すれば、遷都は確かに悪い策では無かった。
「御意」
青い兜を小脇に抱え、ゼナが頷いている。
相変わらず健康的な小麦色の肌に、冴え冴えとした青い瞳だ。
金色の髪は少しボサついているが、櫛で梳かせば貴族の令嬢も唸る程の艶をもつだろう。
ゲートリンゲンが、好色そうな目でゼナを見た。
「ヴェルナー将軍。相変わらず恋人はいないのか?」
「はい」
「では、どうだ――今宵辺り、私に付き合ってみんか?」
ムッとして、ゼナがゲートリンゲンから顔を背けた。
舐め回す様な視線を感じて、むず痒くなってくる。
「お断りします」
「何故だ?」
「私と閣下では、身分が違いましょう。私は平民ですし、何より移民です」
「気にするな。少し前まで私は皇族を妻にするところであった――貴族の身でな」
「……それは、残念でございましたな」
「……私は、寂しいのだよ」
ゲートリンゲンの長い舌が、上唇を舐めた。
ヌメリと光って、ゼナは吐きそうになる。
「はぁ……では、女性をお誘い下さい。私は男ですので」
「それよ、それ。ヴェルナー将軍の一体どこが男なのか、私には理解出来ぬのだ」
この問答が、ゼナは大嫌いであった。
思えば自分が男だと言って、「そうか」と認めてくれたのはウィリス・ミラーだけだった気がする。
「閣下」
冷然と、ゼナがゲートリンゲンを見据えた。
射抜く様な眼光に、流石の好色元帥も冷や汗が浮かぶ。
近頃いろいろと献策をしてくるゼナが、自分に好意を持っていると勘違いしていのだ。
それが今の眼光で、間違いだと気付いた。
(この女は今、この私に殺気を放った……一体何なのだ……?)
「こほん……冗談だ」
ゲートリンゲンは目を逸らし、話を元に戻す事とした。
「……何か、意見はあるか? 遷都の件だ」
「そうですね……」
確かに遷都は、策として悪く無い。ゼナもそれは認めている。
実際に敵は数ヶ月、グラスコールで足を止めていた。
住民に食料を提供し、水道橋の修理に兵を使っている。
敵が疲弊していることは、明白であった。
だが――とゼナは思う。民も疲弊させたのだ。
このような事をする国家に、存在意義があるのか?
このままグラニアに仕えていて、正しいのか?
ゼナの心に、疑問が湧いた。
ゼナとて、民が憎い訳では無い。
むしろ彼等にとって、誇れる武人でありたいと思っていた。
少なくとも民と皇帝が一触即発の国で、民に刃を向ける将ではありたくない。
だからといって民を煽動する、反逆者も違うだろう。
対等な国家を策略で潰すなら、それはいい。
だが民を利用し彼等の血で自らの身を守り、何が武人か――と思う。
だから彼女は、初めてゲートリンゲンに反対意見を口にした。
これで罪に問われるなら、全力で逃げてやる――と思う。
「見事ではありますが、民の不満は高まりましょうな」
「民がどうしたと言うのだ。あんなもの、次々と生まれてくる雑草のようなものよッ!」
「で、ありましょうか?」
暫し睨み合う。
先に目を逸らしたのは、ゲートリンゲンであった。
彼にとってゼナは、失う事の出来ない剣だ。
彼女が居なければ、彼の武が根本から揺らぐ。
「まあ良い――見解の相違もあろう。それよりヴェルナー。トラキスタンはどうなっておる?」
「はっ……順調です。もとより第二皇子側の軍事力が勝っておりますので、勝利は揺るがないでしょう。南方の二国、アーリアとソドムの両王国も、第一皇子に味方する気配はございません」
「決着が付くか?」
「いえ。といって南方の経済力は豊かにございます。現在、続々と傭兵団が集まっている由。容易には決着も付きますまい」
「……ふむ。こちらの決着がつく前に、あちらが終っても困る。上手く調整せよ」
「御意。そこはレオニードめが、上手くやっております」
「ほう? やつめ、存外優秀だったと見えるな」
「はい……ところで元帥閣下、奴の妻子めは如何致しておりますでしょう?」
「ああ、まあ、元気であろうよ」
気の無い返事であったが、それはそれだ。
ゼナは少し、ほっとした。
ゲートリンゲンのことである、まさか殺したのではないかと不安になったのだ。
レオニードにあれだけのことをさせて、妻子まで殺しては余りに哀れであろう。
「ところで、気になることがございます、閣下」
「ほう? 軍略家のヴェルナーが気になるのだ……聞こう」
「はい。実はミリタニアの情勢なのですが……膠着しているようです」
「ふむ……援軍を出せば、ウルドを退けられるか」
「御意」
「……だがッ!」
握った拳で、ゲートリンゲンが忌々しそうに執務机を叩く。
顔を顰めたのは、その手が痛かったからであろう。
それ以上に、グラニア軍の現状も痛い。
「はい。軍をそちらに差し向ける余裕など、我が軍には有りませぬ」
「ああ、悔しいが我が軍はムスラー・ゴードの二国で手一杯だ。忌々しいッ! ウルド如きにカラードを獲られ、報復も出来ぬとはなッ!」
「然様……近年、ウルドは急速に力を付けましたな」
「だから、何だと言うのだ!」
ゲートリンゲンのこめかみに、血管が浮かぶ。
彼はウルドが大嫌いであった。
それは彼の地へミシェルが逃げたからであるし、受け入れたネイも許せない。
何よりウィリスを受け入れ重用しているというから、彼にとっては怨敵にも等しいのだ。
が、そんなゲートリンゲンに冷笑を浮かべ、ゼナが言う。
「まあ閣下、落ち着かれませ。膠着状態というのは、そう悪いことでもありますまい」
「確かに、ウルドに我が方が攻め込まれる心配も無いが……」
「然様。とはいえ――ここまで急速に力を付けたウルド軍には、やはり何かがあります」
「ふん――ネイはもともと、烈火の魔女と異名をとる猛将。夫とて雷帝と呼ばれておる」
「それだけでは、今の快進撃などありますまい」
「何が……言いたいのだ?」
「鍵は、ローザリア・ドレストスにあると見ました」
「誰だ、それは?」
「ウィリス・ミラーを従え男爵となり、カラードを獲った女。今は昇爵して、辺境伯を名乗っておるとか……」
「カラードを獲ればな……その程度の爵位には達そう。それがどうした?」
「そのローザリア・ドレストス。かの者は先年まで、一介の傭兵でした」
「だから、何だと言うのだ? 運の良い、ただの成り上がりであろう」
「はたして、運が良いだけでしょうか? ……事態が膠着した今こそ、この目で見てみたく存じます」
「見て、どうするのだ?」
「必要とあらば、殺すまで」
「それで、ウルドは弱まるか?」
「さあ……見てみませんと、何とも……」
「ふん……拘る程の者とは思えんが……まあいい、ウルドの備えというなら勝手にしろ」
ゲートリンゲンは手短に言って、ゼナを下がらせた。
ウルドの事を考えれば、不快指数は天井を超えるのだ。
いくら陽気が良いといって、かつての怒りを忘れる程では無い。
ゼナがウルドを滅ぼす方策を考えると云うのなら、好きにさせる方が得だと考えた。
「御意……それでは早速、行って参ります」
一方、踵を返して退出したゼナの心は、少しだけ浮ついている。
突如現れたローザリア・ドレストスという女に興味があるのは、本当であった。
ウルドが強くなったのは彼女の力だ、という確信がゼナにはある。
もちろん彼女の下にウィリス・ミラーがいる、という点は大きい。
けれど、あのウィリス・ミラーがなぜ彼女に仕えているのか、という所こそ問題なのだ。
それに、僅か二年足らずで傭兵から辺境伯へ――。
形は違えど、ゼナも成り上がり者だ。
だから彼女の中には、ローザリアに対する共感もあった。
成り上がる為には、己が強くそれを望む必要がある。
だけどゼナは世界一の大国を選び、ローザリアが傭兵を選んだ。
この違いは、何か?
ゼナは大軍を指揮したかったから、グラニアだった。
ならばローザリアの目的は、絶対に違うとしか思えない。
「ローザリア……お前は一体、何を望んでいるのだ?」
ローザリアには、自分に無いモノがある。
そんな確信が期待に変わり、ゼナの胸は膨らんでいた。
どこか、友に会う様な高揚感である。
ゼナは元帥府を出ると、一度だけ自室へ戻った。
それから荷物を袋に詰め込み、愛竜の下へと向かう。
「行こう、レイ。西の空へ」
愛竜の青い首筋をポンと叩き、ゼナは手綱を握る。
巨大な首を擡げ、飛竜が大きく翼を広げて見せた。
面白いと感じたら、評価、ブクマ、感想、宜しくお願い致します。
作者のやる気が上がります!
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