45 カラード戦役 2
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カラード侯ディエゴは既にクロム城塞へ到達していたらしく、石壁の上には無数の旗が翻っていた。
彼の紋章は勇ましくも、赤地に黒い二頭の竜だ。流石は名門といったところだろう。
が、そのカラード家も今ではグラニアの軍役を担う、一地方領主に過ぎないのが現状だ。
ウィリスはこの地で決戦すると見せるかける為、小高い丘の上に陣を敷いた。
丘は砦を見下ろせる位置にあるが、そのまま馬を駆けされれば、先は沼地にぶつかる。
クロム城塞は平野部にある容易い砦と思われがちだ。
しかし実のところ、四方を沼という天然の堀で覆われた難攻不落の要塞であった。
しかも薄らと雪化粧を纏った今、沼地が一切目視できないのだ。
もしも知らずに馬なり歩兵なりで突撃すれば、瞬く間に冷えきった沼に足を取られ、身動きが出来なくなるだろう。
そこに城塞から矢でも射かけられれば、たちまちに大損害となる。
ゆえにグラニアやトラキスタンの飛兵が無ければ、攻略する事は困難だった。
と、このような地理情報もすべて、ナディアの頭の中に入っている。
流石のウィリスも、これには唸った。
ローザリアの天才的な閃きとは違う、堅実な知性だ。
例えばローザリアがこの地に陣を敷けば、沼地の罠に気付くかも知れない。
けれどナディアは、知った上でここに陣を敷けと言う。
「ディエゴはきっと、こちらを誘い込みたいはず。だからここに陣を張れば、喜ぶの……」と。
確かにここは城塞が沼に囲まれていると知らなければ、敵を見下ろせる絶好のポイントであった。
実際、敵であるディエゴもウィリスが丘の上に陣を敷いたのを見て、頷いてる。
「うむ、うむ。流石はウィリス・ミラー。軍略をよく弁えておる。が――弁えておるからそこ、この罠に嵌るのだ」
恰幅の良い腹を揺らし、ディエゴは大きく首を縦に振っている。
戦さは、「もう勝った」と言わんばかりであった。
ディエゴは白に近い金髪をオールバックで背中に流す三十代の男で、いかにも貴族然としている。
そして彼は、何処までも慎重な男。常に身辺を百の護衛兵で守らせていた。
当然、自身も銀色の全身鎧を着込み、万が一など無いように備えている。
彼の考えは、己の血筋さえ残っていれば良い、というものだ。
領主の為に民や兵が居る。それ以上でも、それ以下でもない。
特に残虐という訳でもなく、日々の中で彼は民や兵に犠牲を強いる。
だから彼に対する恨みは、カラード領内で日に日に高まっていた。
そんなディエゴを支えるのは、当然ながら彼の利権に与る一部特権階級である。
貴族と民衆の差が大きければ大きい程、特権階級に与えられる恩恵もまた、大きくなるのだ。
まして今のグラニアで、彼の行為を咎める者はいない。ディエゴは正義だった。
つまり、かの国の一地方領主となったことが彼に幸いし、民には災いしたのだ。
もちろん公都を守備していたフレッド将軍も、特権階級に属している。
だからこそディエゴを失わぬよう、彼も必至なのだ。
ディエゴに万一があれば、カラードはひっくり返る。
不平不満を溜め込んだ民が、どう出るかは自明の理であった。
とはいえ今のところカラード侯ディエゴは健在。
望楼からウィリスの陣を眺め、悦に入っている。
もちろん彼の作戦は、野戦を挑むと見せかけて敵を沼地に誘い込むことであった。
丘に陣を敷くとなれば、城塞から兵が出れば一望出来る。
数が少ないと見れば、きっと突撃してくるだろう。そして沼に嵌るのだ。
あとは撤退し、城壁上から大量の矢を射かけるだけで戦果が上がる。
もちろん敵兵を誘う際に繰り出した味方には犠牲が出るだろうが、多少は仕方が無い。
兵も貴族である自分の為に死ねるなら、本望だろうとディエゴは思っていた。
やがて西方から、味方が駆け付けるであろう。
これをもって敵を挟撃すれば、撃退出来るという寸法であった。
そもそもディエゴは慎重な男だ。
本来は全軍をもってグラニアの危機に駆け付けよ――とゲートリンゲン元帥より命じられていた。
しかしそれを反古にし、全軍の半数しか出していない。
そんな男であるからこそ、この城塞を用意していたのだ。
「備えあれば、憂い無し――とは良く言ったものよ……だが……」
ディエゴは一人ごちて、城塞の中に戻る。
いかに敵が攻めて来たとて、グラニア軍と合流しないのはマズい。
既にドレストス軍に勝った気でいるディエゴは、次の心配事に頭を悩ませていた。
と、この様な事情だ。
地勢を知らなければウィリスとて、一度は沼地に踏み込んでいたかも知れない。
だからといって敗れるとまでは思わないが、それでも苦戦は強いられただろう。
けれど今や、敵の意図は全てが知れていた。
「サリフ、兵を率いて、近隣の住民を当たってくれ。案内人を雇いたい。それから地図も、出来れば入手したい」
一応、ウィリスはナディアの話を証明するため、サリフに命じて案内人を二人ほど雇った。
二人というのは、嘘を吐かれない為の配慮である。
その二人ともクロム城塞の周辺は沼地で、目印を見なければ入り口には辿り着けないと言う。証言は一致していた。
残念ながら地図は入手出来なかったが、ナディアの言が正しかったことは、これで完全に証明されたのだ。
こうしてナディアは皆から、一目置かれるようになったのである。
――――
陣を敷いた夜から、ウィリスは派手に篝火を焚いて見せた。
見せる陣なのだから、当然である。
困るのは敵が小勢を繰り出し、様子を見ることだった。
完全に沼地に誘っているのだろうが、乗る訳にはいかない。
犠牲を覚悟で兵を繰り出すか――という話にもなったが、それをミスティが制した。
「魔法を見舞ってみましょうか? 敵からの魔法攻撃が無いのも奇妙ですし……」
「そうだな。アレを完全に見過ごせば、こちらの陣が擬態だと見破られるかもしれん」
ウィリスは頷き、ミスティに魔法攻撃を任せることにした。
「逆巻く風よ、雷雲をこれへ。されば雷は大地を穿ち、敵に災いを齎さん――雷撃」
ミスティの朗々とした魔術詠唱が本陣に響き、天候が変わる。
まさかこれ程の魔法を彼女が使えるなどとは思わず、ウィリスは少し腰が引けた。
“ドドドドドドドォォォォオオオオン”
響き渡る轟音の中、遠方を見れば敵が倒れている。
確かにミスティの魔法を迎撃した形跡は見られるが――それでも彼女が放った魔法の威力が遥かに勝っていた。
「ミスティ……お前……」
「名を得たのです……この程度は当然でしょう」
「しかし、あの詠唱は聞いた事が無いぞ」
「さよう。これこそ異界におられる、我が神が得意といたす魔法なれば……」
「神?」
「はい……闇神ネフェルカーラさまの魔法にございます」
ウィリスはぞっとして、ミスティを見つめた。
与えてはならない者に、名を与えたのかも知れない。そう思うと、臓腑が締め付けられる。
ウィリスはギュッと腹に力を入れた。味方に恐怖など、抱いてはいけない。
しかし、そんな彼の内心に構わず、ミスティは潤んだ瞳を細めてみせた。
「……主さまが望めば、更なる秘法をお見せいたしましょう。ただ――」
「ただ?」
問い返すもミスティの眼差しにたじろぎ、ウィリスは目を逸らしている。
「我はサキュバスゆえ、相応の褒美は頂きますが。ウフフ……」
しれっと笑うミスティは、誰よりも妖艶だった。
ごくりと唾を飲み込んだウィリスは、思わず過った劣情を、頭を振って振り払う。
(いかん、いかん……俺にはローザリア……ではなく、ミシェルがいるのだッ!)
――――
対陣して三日が過ぎると、ようやく伝令がやって来た。
「ラエンカのカラード軍が、ルナ森林を通り過ぎたましたッ!」
ウィリスは伝令に頷き、会心の笑みを見せる。
通り過ぎたということは、イゾルデが完全に背後に回ったことを意味するのだ。
ウィリスは深夜、ディエゴ軍に気付かれぬよう全軍を動かした。
天幕も篝火もそのままだ。ただ、軍勢だけが姿を消す。
翌朝、ディエゴ軍が気付けば、さぞや慌てるであろう。
実際、ディエゴ軍が事態に気付いたのは、翌日の昼過ぎであった。
一人の将が、余りにも人影の無い敵陣に不審を抱き偵察隊を放ったのが切っ掛けだ。
報告を受けたディエゴは、慌てて全軍に出撃を命じた。
「……してやられたッ! ヤツ等は取って返し、ラエンカの守備軍を討ち取るつもりだッ!」
ディエゴは、愚将ではなかった。
この状況から、敵の狙いをすぐに看破している。
だからこそ軍を動かしたのだ。
すぐに動けば、どうあれ一万対一万の戦い。力の勝負である。
だが、これが彼にとっての災いとなった。
何しろ分かった時点で、もう遅いのだ。
既にイゾルデ軍が、ラエンカ守備隊の後背を襲っていた。
五千対三千といえど、背後から襲われた軍は脆い。
ましてやここは、左右を森林に囲まれた一本道。
背後を塞がれては、どうにもならなかった。
陣形は、前に対してこそ有効なのだ。それは行軍隊形とて、同じ事である。
「騎馬隊、突撃するぞ」
怜悧な笑みを浮かべて青い兜を被ったイゾルデは、横にジョセフを侍らせ馬腹を蹴った。
五百の騎兵が彼女に続く。
後背を突かれて中央を割られ、敵軍が真っ二つに割れた。
敵の先頭に出るや、イゾルデは再び馬首を返して突撃を敢行する。
やりたい放題だ。
剣に氷を纏わせ、縦横に振る。
季節は冬――彼女の力が最大限に活きていた。
隣で剛槍を振るう緑髪の男も、凶暴だ。
一突きで三人を貫き、薙ぎ払う。
しかも笑いながら人を殺していくのだから、ラエンカの守備兵にしてみれば、悪鬼の如くに恐ろしい。
ましてやラエンカの守備兵は、前方の敵を目指していたはず。
それが背後から襲われたのだ、意味が分からない。
たまらず逃げ散り、森へ入る敵兵が続出していた。
既に陣形も何も、敵にはない。
森に逃れれば、命だけは助かると思ったのだ。
けれど森の中には、雪の中に身を伏せたイゾルデ軍の兵達が待ち構えていた。
見えない場所から突き出される槍に、逃亡したラエンカの守備兵が次々に討ち取られていく。
「戻らぬかッ! ええい! 百人長ども、兵を纏めよッ! 敵は少数ッ! 狼狽えるなッ! 前に進めッ! すぐにもクロム砦が見えるぞッ! さすれば援軍があるッ!」
敵将のフレッドが声を張り上げ、味方を鼓舞していた。
俄にラエンカ守備隊の足が速くなる。
ともかく、森林地帯から抜け出せば何とかなると考えてのことだ。
それに背後にも横にも逃げ道が無いなら、前に進むしか無かった。
イゾルデは再び自陣に戻ると、敵の尻を叩くように弓兵を前に出し、矢を射かけた。
また、敵の逃げ足が速くなる。
「走れ、走れ、愚か者ども……」
十分に敵を殺戮し、蹂躙したイゾルデが歌うように言う。
彼女の吹き出す汗が湯気を作り、冬の大気を熱していた。
森を抜けきった頃、ラエンカ守備隊は全員の息が上がっていた。
彼等は陣形を整える間もなく、辺りにへたり込んでいる。
既に雪は止んで、雲間からは夕日が覗いていた。
背後を振り返れば、敵の姿は見えなくなっている。
「逃げ切った……」
誰かが呟いた。安堵の声だ。
しかし、その安堵は束の間であった。
前方に、整然と並ぶ軍団が現れたのだ。
それも黒衣黒甲の将軍に率いられた、一糸乱れぬ七千の兵団。
見るからに、味方ではない。
フレッド将軍は馬上で歯噛みしつつも、迎撃を命じた。
むろん今更、敵に抗う力など無いことは承知の上だ。
唯一の救いは、太陽の向きであろう。
敵にとっては、逆光である。
「皆、あと少しの辛抱だ! 侯爵閣下が援軍を連れて参られるッ!」
もはや本末転倒な、フレッド将軍の言いざまだ。
誰が誰の援軍に来たのか――もはや彼は忘れてしまったらしい。
それも、無理は無い。
数時間も敵に背後をとられ、ひたすら逃げてきたのだ。
大半の兵が、途中で武器も鎧も捨てている。
それでもなお、ウィリス・ミラーに容赦は無い。
黄昏時の平穏を破砕する轟音で、ウィリスが命じる。
「ハンス、リリー! 騎兵を五百ずつ率い、敵を左右から襲えッ!」
すぐに二人がウィリスの下を離れ、敵を左右から打ち砕く。
瞬く間に、敵の騎兵が壊滅した。
いや――すでに敵は、騎兵などではない。馬に乗った人形も同然であった。
「前進ッ! 前進しつつ、矢を射かけよッ! 狙いなど、定める必要は無いぞ! 射れば当たるッ!」
これは、ウィリスの命令が雑なのではない。
既に気力を失った敵は、盾すら翳そうとしなかった。
ただ矢を受け、バタバタと倒れていく。
本当に、狙う必要が無かったのだ。
「グラハム、サリフ、カミラッ! 行け、敵を蹂躙せよッ!」
近接戦闘に入った。
といって――もはや戦闘などではない。
ほとんどの敵は背を向け、逃げ出している。
「逃げるなッ! 戦えッ! 活路は前にしかないぞッ!」
大声を張り上げるフレッド将軍をカミラが見つけたのは、そんな時だった。
「祈れ、クソザコ。今からお前を殺してやるからなァアアアッ!」
既に血に塗れた戦棍をブンと振り、純白の神官衣を翻してカミラが言う。
細めた青い瞳は、まるで血に飢えた悪魔のようだ。
「巫山戯るな、小娘ッ!」
一方、今日の敗北でズタズタに引き裂かれた将の矜持を胸に、フレッド将軍が槍を構える。
赤い房飾りを揺らし、大柄なフレッド将軍が馬腹を蹴った。
小娘を相手に、大人げない――などという思考も、既に欠落している。
同時に、カミラも馬の腹を蹴った。
フレッドは槍の柄、ギリギリの部分を持っている。
なるべく距離を稼ごうというのだろう。
小柄なカミラの射程は、短い。
槍が先に届けば、確実に殺せると考えていた。
彼は今日、敵を一人も殺していない。
せめて一人だけでも――と考えても、不思議なことではなかった。
「ファーハハハハハハハ! 甘いんだよォォオオオオオッ、このクソザコォォォォオオオオッ!」
カミラが戦棍をグルグルと回し、フレッドの槍を叩き落とす。
フレッドは柄を持つ位置が災いした。
槍は柄の方を持てば持つ程、重みが増す。
確かにフレッド将軍の力は並外れていたが、それでもウィリスほどではない。
カミラの爆発的な破壊力に晒されて、槍を落とさずにはいられなかったのだ。
そのままカミラは戦棍を横殴りにして、フレッドの頭を全力で振り抜く。
戦棍の打撃が見事な飛距離を稼ぎ、フレッドの頭は遠くの木にぶつかってドサリと落ちた。
その顔は、潰れて誰だか分からなかったという。
だが――残された胴体の鎧と指輪が、彼の身分と名前を示していた。
これでカミラが誰を討ち取ったのか、証明が為されたのだ。
皆が戦神の巫女に、賞賛を送った。
「カミラさまが、敵将フレッドを討ち取ったぞォォォオオオ!」
「チッ……こんなザコ討っても、戦神さまは喜ばねぇんだよ、クソがッ!」
血みどろの神官服を着て、馬上から唾を吐き捨てる美少女カミラ。
その姿は普段のおっとりした彼女と、まるで別人である。
ともあれこの戦いは、ドレストス軍の圧勝に終った。
唖然としたのはクロム城塞から飛び出し、急ぎ現場に駆け付けたカラード侯ディエゴであろう。
「五千の軍が……もう壊滅したというのか……?」
ディエゴは西から差す夕日に目を細め、震える声で言った。彼は口を、あんぐりと開けている。
ウィリスは陣形を再編しつつ、イゾルデと合流した。
「もう一戦ある。イゾルデ、付き合うか?」
東に現れた軍団を指差し、ウィリスが笑っている。
「ああ、雪が積もる前に帰りたいからな。やるさ」
ウィリスとイゾルデは互いの手甲をガチンと合わせ、頷き合う。
その姿は、どこまでも友のものであった。
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作者のやる気が上がります!
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