43 侵攻前夜
◆
問題は葬儀の前日に起きた。
第一皇子は確かにリュドミール帝の遺言に従い、第二皇子を皇帝と成す事を認めている。
認めれば、皇帝暗殺に関する嫌疑を不問にしても良いと言われれば、従わざるを得なかった。
何よりリュドミールの遺言は、既に近衛にも広まっている。
従って帝都周辺の軍権は、もはや第二皇子に奪われたも同然。
百程度の手勢しか連れていない第一皇子が、万の兵を擁する第二皇子に抗する術など無いのだ。
この事情は諸侯達とて同様。
数十から数百の兵しか、皆、連れて帝都に入っていない。
第二皇子に睨まれれば、すぐにも捕えられ、殺される恐れがある。
いくら疑わしいと思っても、第二皇子に面と向かって異は唱えられない。
しかし、だからと言って誰も、納得した訳ではなかった。
特に第一皇子ボリスは、腹の虫が収まらない。
自分は皇帝を殺していない。その事実を自分自身が知っているのだから、当然だ。
それに彼とて、馬鹿ではない。皇帝を暗殺して誰が最も得をするのかなど、一目瞭然である。
だからこそネイを始めとした有力諸侯を回り、自身の無実とアーノルドの陰謀を吹聴していたのだ。
それと同時に、自身を副帝とするよう弟には要求するつもりであった。
これを第二皇子アーノルドが認めれば、話は早かったのだろう。
アーノルドとて、別に兄が嫌いな訳では無い。
面と向かって話せば、その条件を飲む可能性はあった。
だが彼等の間を、第三皇子レオニードという壁が阻む。
レオニードにしてみれば、目的は第二皇子の戴冠ではない。
あくまでも彼は、トラキスタン帝国を二分させることが目的なのだ。
だから第二皇子の客人として屋敷に留まるレオニードは、第一皇子からの使者をことごく追い払った。
従って第一皇子の要求を、まだ第二皇子は知らなかったのだ。
この状況に第一皇子ボリスは痺れを切らし、直接アーノルドの屋敷を訪ねる事とした。
「アーノルドも私を兄と思うなら、副帝にするくらい良かろう。私は既に奴を、正帝と認めやっているのだッ!」
第一皇子は、このように考えていたらしい。
父の死については、もはや問題ではなかった。
彼としては、このまま南方の属州支配を続けられれば十分なのだ。
何も変わらないことが、重要だった。
双方が互いに干渉さえしなければ、広大な帝国の統治は上手くいく。
この条件さえ飲んでくれるのなら父帝殺しの真相など、闇に葬っても良いとさえ考えていたのだ。
ボリスが第二皇子の屋敷に辿り着くと、通常の応接間に通された。
これは皇族に対し、大変な失礼である。
ましてや、弟が兄を迎えるのだ。
本来であれば馬車を降りる所から、アーノルドが迎えるべきである。
「これでは臣下と同じ扱いではないかッ!」
第一皇子は応接間でこれ見よがしに怒鳴り、供された茶を床に投げた。
そしてすぐさま帰ろうとする第一皇子。これを臣下は必至で止めた。
まだ皇帝暗殺の疑いさえ、晴れていない状況だ。
むろんボリスの臣下も、第二皇子が皇帝を暗殺したと疑ってはいる。
だが、何一つ証拠が無いのだ。迂闊なことは言えない。
ここで隙を見せれば、瞬く間にボリス皇子は不利な状況へと追いやられるだろう。
いや、既に十分、不利な状況と言えた。
このままでは、ボリス皇子は破滅する。
そして主の破滅は、臣下の破滅でもあるのだ。
ボリスも今の状況を十分に理解していた。
だからこそ臣下の意見を聞き入れ、弟の到来を応接間で数時間も待ったのだ。
しかし、我慢にも限度というものがあった。
「アーノルドは何をしているのだッ!」
ボリスはアーノルドの家令に怒鳴り、状況を聞く。既に五度目だった。
「ただいま、お客様とお話中でございまして……」
「それは、先ほども聞いたッ! どれほど待たせれば、気が済むと言うのかッ!」
その客人は誰かと問い質せば、第三皇子のレオニードだと家令が答えるではないか。
ボリスとしては、怒髪天を衝く――というものだ。
「無礼であろうッ! 弟との話を優先させて、兄を待たせるなどッ!」
ボリスは与えられた茶を投げつけ、怒りを露にした。
「も、申し訳ございません……ただいま、アーノルド殿下をお呼び致しますゆえ……」
「もういいッ! なぜ俺が、弟二人に虚仮にされねばならんのだッ! 馬鹿馬鹿しい、帰るぞッ!」
こうして第一皇子ボリスは帝都の屋敷どころか、自らの居城へと帰ってしまったのだ。
むろん、この行為は明らかな反逆と看做された。
そもそも彼は、皇帝暗殺の嫌疑が掛けられていたのだ。
それがリュドミールの葬儀すら出席せず、さっさと本拠地へ帰ったのだから弁解の余地はない。
これを聞いたアーノルドは眉を顰め、レオニードに言った。
「流石にこれでは、兄上も可哀想ではないか?」
「情に流されれば、命を失うのは兄上ですぞ」
「そ、そうか……それにしてもボリス兄は、どのような用件で参ったのであろうか?」
「兄上を正帝と認める代わりに、自身を副帝と成せ、と」
「ほう? それであれば、別に認めてやっても良かったのではないか?」
「何を眠たいことを……天に二日無しと申します。兄上は、兄上だけの覇道を歩まれませ」
「確かに……ボリス兄は父殺しを私の仕業だと吹聴して回っているという。信じる諸侯が増えれば、厄介なことにもなろうしな……」
「はい。ですがこれで、ボリス兄上を信じる者はいなくなるでしょう……」
答えながら、レオニードは背筋に寒気を覚えていた。
全て、与えられた計画書の通りに事が進んでいる。
これを作成したのがゲートリンゲンではないことなど、承知していた。
けれどいったい誰が、こんなものを用意したのか。
もしもこれを練り上げた人物と敵対したならば、自分では決して勝てない。
そう思えば、レオニードはトラキスタンと云う国家の行く末を、案じずにはいられなかった。
遠くグラニアでトラキスタンの状況を耳にするゼナ・ヴェルナーは、会心の笑みを浮かべている。
別に、第一皇子が勝とうと第二皇子が勝とうと問題は無い。
何であればムスラー、ゴードの両国を蹴散らしたあと、第二皇子を後押しすると称して侵攻するのも一興だ、と考える程度の話であった。
◆◆
リュドミールの葬儀が終わったあと、ネイは屋敷に三公領の面々を集め、会議を開いていた。
皆、一様に黒い喪服姿のままだ。口数も少なく、顎に指を当てている者が多い。
葬儀のあと、アーノルドの発した言葉が理解出来ないからである。
「ボリス追討は、暫くの間せぬ」
アーノルドは、こう言った。
今であれば、帝都に諸侯が揃っている。
この機を活かして号令を発すれば、十万を超える軍を集められるだろう。
その上で一気呵成に討伐をすれば、何も問題は無いのだが。
皆の気持ちを代弁するがごとき、ネイの発言である。
「意味が分からん。アーノルド殿下は何を考えておいでか……」
円卓を囲む一同も、皆が首を傾げていた。
ネイに答えたのはエンツォだ。
今や彼はウルド公の夫という立場だけでなく、三公領の筆頭魔術師とも目されていた。
「誰が敵で誰が味方か分からない状況……というのを嫌ったんじゃないかな」
皆も頷く。
現時点での討伐となれば、皆が領地へと戻る。
そして、堂々と兵を集めることが出来るのだ。
その中にボリス派の人間がいたとして、咎めることは出来ない。
現段階で旗色が分からないのだから、当然だ。
となると、いざ蓋を開けたら敵だった、などということも起こり得る。
軍師皇女と呼ばれたナディアが、ボソリと口を開いた。
「それもあるけど……グラニアが攻め込まれるのを……待ってる……」
皆の視線が彼女に向き、ナディアがローブのフードを深々と被った。
「どういうことです?」
ローザリアが口を開き、眉根を寄せている。
「父の下に、ムスラー公国から親書がきていた。冬の前に、北海と東から攻める。呼応されたし……と」
顎に指を当てていたウィリスが、奥歯をギリッと鳴らす。
彼は皇帝が暗殺された日、レオニードの姿を見ていた。
まるでパズルのピースが嵌っていくようだ。
余りにも都合が良過ぎる……。
だが想像したことを証拠も無く、口にするウィリスではない。
代わりに言ったのは、別の言葉だ。
「ですが、陛下が兵を集めるような命令を下されていたとは、思えませぬが……」
「そうだねぇ。呼応するなら、私達にも声を掛けると思うのだけれど……」
エンツォがウィリスに頷き、机上に置かれた地図を指差す。
ムスラーが北海から攻めるとすれば、狙いはグラニアの帝都であろう。
東からゴードが侵攻するなら、丁度ウルド公国は西を襲える位置にあった。
そのウルドに何の連絡も無いのだから、リュドミールにはグラニアを攻める気など無かったのではないか。
――皆もそう思った。
「父は、帝国に侵攻する意図が、無かった。勝った方の軍と、戦うつもりだったから」
ナディアの言葉に、フィヨルド公が薄く笑っている。
彼は三公領の最北に位置する、フィヨルドの主だ。
フィヨルドは東側の国境全てがカラードに接していた。
だから彼も、最前線の君主である。
しかしウィリスは、どうもフィヨルド公が苦手であった。
かつてカラードを攻めた折、戦った事がある。
たいして損害を出さぬうち、さっさと引き上げたのが印象的だ。
中肉中背で常に薄笑みを浮かべたような顔は、どこか不気味ですらあった。
そのフィヨルド公が、言う。
「悪く無い策ですなぁ。どちらが勝っても弱っている。上手くすれば、一挙に大陸制覇も可能だったでしょう。クハハ……」
カミラの父、ルイード公が肩を竦めて苦笑した。
「フィヨルド公は、お人が悪い。リュドミール陛下に、そのような野心があったとは思えませんがね……」
腕を組んでいたエンツォが、茶を口に含んだ後で言う。
「……ともあれグラニアが攻め込まれている最中なら、どれほど派手な内戦になろうと、グラニアがこちらに干渉することはない……か」
「……逆に考えればグラニアはこちらに攻められる心配も無く、ムスラー、ゴードの両国を迎撃出来ます。些か都合が良過ぎませんか?」
「そう言われると、そうだねぇ。ドレストス男爵の意見も尤もだ」
「はい――とはいえ、これがグラニアの仕組んだことならば、益々もって巻き込まれるなど御免こうむりたい。宿敵に操られた馬鹿皇子二人の為に兵を死なせるなど、冗談ではありません」
エンツォに答えたのは、ローザリアだ。
彼女の戦術眼は、皆が一目置いていた。
その彼女にナディアが頷いているのだから、信憑性が増す。
ネイも頷き、「なるほど」と唸った。
冷徹なローザリアの観察眼に、一同も唖然としている。
これでまだ十八歳なのだから、末恐ろしい。
ウィリスが椅子を軋ませ、「確証はないが……」と前置きをして話し始めた。
主君であるローザリアの明敏さが、ただ嬉しい。
こうなれば、自身の考えを披露しても問題ないだろう。
どうせ、主君の意思に同調するだけのことだ。
「確かに今回の件、グラニアが仕組んだ罠……という線も十分に考えられます。ムスラー、ゴードに攻められる最中、トラキスタンにまで攻め込まれては、いかな軍事大国といえども、太刀打ち出来ませんから。
それに第三皇子レオニード……彼は長年グラニアに亡命していました。それがなぜ、今になって戻ったのでしょうか」
ウィリスの低い声に、皆が戦慄した。
もしもこれが罠だとして、トラキスタン宮廷が手玉に取られたのなら、由々しき事態だ。
「ふむ……こんな策を思い付きそうな者が、グラニアにはいるのか?」
ネイの問いに、ウィリスは頷いた。
「二人ほど、思い浮かびます」
「誰だ?」
「コーラル・ユーシスとゼナ・ヴェルナー」
「ユーシス将軍とは幾度か戦ったが……正々堂々とした、清廉なお人柄と見受けたが?」
「はい。ですから恐らくは、ゼナ・ヴェルナーの方かと」
ネイは茶を口に含み、中空を睨む。
「どのような人物なのだ、ゼナ・ヴェルナーとは……」
ウィリスは腕を組み、眼を閉じて彼女を思い出す。
幾度も剣技の試合を挑まれた。
幾度打ち負かしても次の日には挑んでくる、ゲートリンゲン配下の将。
決して、嫌いではなかった。
彼女はウィリスと入れ替わるように、将軍の列に加わったという。
竜騎兵を束ねる立場となったのだから、それも当然と云えよう。
「混沌を好む性質にて……善にも悪にも転びましょう。ゆえに目的の為ならば、手段を選ばぬ人物です。ただ先も申しましたが、確証は無い。徒にグラニアの罠と断ずるのも早計でしょう」
「ふむ……そうだな。となると、我らは迂闊に動くべきではなかろう……少なくとも、来るべき内乱に関しては……だが」
机の端を指で叩きながら、ネイが言う。
重々しい口調とは裏腹に、彼女は会議が自らの思い描く方向へ進み喜んでいる。
「そうですな……状況がどう転ぶか、見極めた上で動いても遅くは無いでしょう」
同調するルイード公に、カミラも頷いていた。
「では、我らは第一皇子、第二皇子の両陣営、どちらにも属さぬ――ということで宜しいか?」
ネイの言葉に、一同が頷く。
「はっきりと申されては如何かな、ネイどの。我らは第三の勢力を目指す、と」
フィヨルド公が笑っている。
ネイも頷き、笑っていた。
「そのつもりだ――諸君、この状況は、我らにこそ利があるぞ」
三公領に属する領主達の瞳が、俄に輝きを増した。
◆◆◆
二週間が過ぎ、いよいよ冬が間近に迫る頃――ローザリアは雑事に追われていた。
彼女は帰路の途中、ネイから命令を受けたからだ。
「グラニアがムスラーに攻め込まれたならば、機を見て、カラードを攻めよ」との命令である。
このとき時を同じくして、ネイはミリタニアを攻めると言う。
二正面作戦であった。
ローザリアとしても、一万三千に膨れ上がった兵は養いきれない。
戦争に駆り出すか、解雇するか、農民にするかの選択肢しか無かった。
となれば、ここで戦争の選択肢が出来ただけ有り難い。
ましてや、カラードには金がある。喉から手が出るほど欲しい土地であった。
とはいえ、領内の整備や諸々の雑事がある。
この状況で出征など、簡単に出来るものではなかった。
だが、事態は切迫している。
いよいよグラニアが攻め込まれた――との報告が入ったのだ。
もはやローザリアには、選択肢が無い。
こうして彼女はウィリス・ミラーを政庁に呼び、命令を下したのだ。
「ウィリス・ミラー将軍! 八千の兵を率い、北方、カラードを制圧せよ! なお、ルイードより二千の援軍が約束されているッ!」
小さな階の上に、木製の椅子を置いただけ。
居並ぶ臣下は未だ、十数人。
ローザリアの玉座など、今はその程度のものだった。
けれどウィリス・ミラーは彼女の前で黒衣黒甲に身を包み、漆黒のマントを翻す。
片膝を付いて畏まるその姿は、まるで皇帝の勅命を受けているかのようであった。
「ご下命、謹んでお引き受け申し上げる」
くぐもった、ウィリスの声が聞こえた。
彼はすぐに立ち上がり、颯爽と身を翻す。
彼の後に続くのは、ドレストス軍を彩る勇士達だ。
イゾルデ・ブルーム、ジョセフ・アーサー、ハンス・チャーチル、リリー・パペット、サキュバス・ミスティ、グラハム・ジード、サリフ……そしてサラ・クインシー。
彼等は皆、後の世で吟遊詩人に謳われ物語の華となる。
ウィリスが去って閑散とした広間で、ローザリアがアリシアにぼやく。
「私も行きたいのだがなぁ……」
そんなローザリアに、アリシアも文句を言った。
「あたしだって、あっちの方がいいわよッ!」
二人を見比べ、筆頭魔術師のシェリルは苦笑するのだった。
「仕事が山積みですよ、男爵閣下。戦さは殿方にお任せしましょう」
「うむ……そうだな」
――――
イゾルデがクシャミをした。
ブルリと自分で肩を抱き、「冬の戦さかぁ」と一人ごちる。
前を行くウィリスは、そんなイゾルデに苦笑した。
色々と、寒さが骨身に沁みる。
来年には三十になると思えば、そろそろ引退を考えるイゾルデであった。
面白いと感じたら、評価、ブクマ、感想、宜しくお願い致します。
作者のやる気が上がります!
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