42 晩秋の風
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トラキスタン帝都スペリオル。
そこにあるウルド公爵邸は皇帝リュドミールの死後数日の間、盛況を極めた。
彼女が死を間近にした皇帝に呼ばれたことは、周知の事実。
つまり彼女こそ、トラキスタン帝国の筆頭諸候であると見られたからだ。
「今日は第一皇子が来られたとか。常であれば、その権勢揺るぎなし、といった所ですね」
窓辺に立って紅茶を飲みながら、ローザリアが外を見つめている。
庭先にある木々はすっかりと色づき、深まる秋を如実に物語っていた。
「常であれば、ね。ボリス殿下は、全ては第二皇子アーノルド殿下の罠だ、と――そう言っていたわ」
「双方共に、相手を父殺しと非難するのですね。すると閣下は、どちらが犯人だと思われるのですか?」
「状況証拠で言えば、第一皇子が怪しくなるわ。でも――陛下の死で利を得るのは第二皇子よ」
ソファーに座り紅茶を啜ったネイが、苦笑しながら言う。
「確かに、この状況で最も得をするのは第二皇子殿下。だとすると第一皇子殿下の仰りようも、一理ありますが……」
「そうなのよ……でもね、リュドミール陛下が亡くなる前に後継を定められたのも事実だし、それを今更覆す訳にも、いかないじゃない? 大体、そんなことを言う権利なんて、私にはナイ、ナイ」
手をヒラヒラと振るネイは、別のことを考えていた。
むしろ帝国が割れれば良い――と思っている。
ウルドを本当の独立国にする為には、それが最良なのだ。
とはいえ、その思惑はまだローザリアにも伝えていない。
言うタイミングが難しいのだ。
「どちらの陣営も、ネイさまを取り込みたくて必至なのでしょうね。ははは」
ローザリアはネイの真意を知らず、笑っていた。
「正直な話、来られても困るのよねぇ……私はどちらの味方もしたく無いの。今度からローズ、あなたが適当に相手をして、追い返してくれない?」
「皇子達を追い返すなど、一介の男爵に出来る事ではありませんよ、閣下。といってこれも、明後日までの辛抱ではありませんか? 本国へ帰れば、使者とて早々は来ないでしょう」
戦勝祝賀の典で集まった諸侯は、そのまま皇帝の葬儀に参列することとなった。それが、明後日なのだ。
これら式典に関する第二皇子の手際が実に良く、大した器量だと感心する諸侯も多い。
それに比べて祝典にすら遅参した第一皇子ボリスの株は、今や下落の一途を辿っている。
しかし裏を返せば既に葬儀の準備が出来ていたのではないかと、第二皇子を疑う勢力も生まれつつあった。
「……そうね。それよりも、ウィリスとナディア殿下の様子はどう?」
ネイの質問に、ローザリアは硬直する。
窓の外では木枯らしが吹き、木に残っていた枯れ葉を飛ばしていた。
彼女の気分も今まさに、そのようなものである。
風で飛ばされたい、ローザリアだった。
「ウィルはあれだけの怪我をしたのに、もう剣を振っています。不死兵というのは、本当に人間離れしているのですね。
ナディア殿下の方は――あれから部屋に籠りきりで、食事もほとんど摂られないご様子……」
ローザリアは言外に、ナディアなど知った事か――と言っている。
ネイは紅茶のカップを皿に置き、彼女をギロリと睨んだ。
「あの事は……ウィリスに伝えたの?」
「は……何のことでしょう?」
慌てて目を逸らす、ローザリアだ。
ならない口笛まで吹いて、何処までも誤摩化す気らしい。
「恍けないで、ローズ。ウィリスにナディアとの結婚の話をキチンと伝えたのか、と聞いているのッ!」
額に冷や汗を浮かべて、ローザリアが口ごもる。
「い、いや……そのっ……ウィルもまだ回復していないし……何というかァ……」
「そりゃ、あなたの気持ちも分かるわ。でもね、ローズ……あなたは今や領主でしょう。ドレストス王国を取り戻すという目的だってあるのよ」
「それとこれとは、話が違います……」
「いいえ、あるわ。ナディア・イーゴリをあなたの保護下に置く意味は、計り知れない。それはそのまま――私の下にグラニアとトラキスタンの皇女が居る事になるの。
こんな事を言うのは不敬だけれど、リュドミール陛下がお亡くなりになった中、ウィリスがナディア殿下を助けたことは、本当に僥倖だわ」
そう言われて、ローザリアはハッとする。
ローザリアは、グラニアの皇妹とトラキスタンの皇女を保護下に置いた。
その自分を擁するネイは、言ってしまえば両帝国に貸しを作ったことになる。
こうなると、どちらの帝国も簡単にはウルド公国を攻められない。
どころか宗主国たるトラキスタンなど、より大きな支援をすべき立場となるはずだ。
一方で武力さえ整えば、ウルドはどちらの帝国も攻めるに足る大義を得た。
例えばグラニアを攻めるなら、ウィリスを貶めミシェルに婚約破棄をさせた不義理。
トラキスタンを攻めるなら、ナディアを担いで皇子の陰謀説を振りかざせば良い。
それにローザリアとしては考えたく無いが、さらに利点がある。
もしもウィリスと二人の間に男児が出来れば、最良だ。
ミシェルとの間ならグラニアの皇位、ナディアとの間ならトラキスタン皇位の継承権を得る。
これらのことを承知の上でネイが「僥倖」と言うなら、ローザリアが考えられることは一つだ。
彼女は紅茶のカップをテーブルに置き、ネイに向き直った。
「ネイさまは、再び東西の帝国を統合なさるおつもりですか?」
「あら、気付いちゃった? といっても、今は力が足りないわ。だから、もしも運命の神なんてものがいて、時代がそれを望むなら……有り得る話にもなるでしょう、ってことよ」
スッと、ローザリアが目を細めた。
ネイの言葉が本心であれば、彼女の行く手にはグラニアの打倒がある。
ローザリアの進むべき道と、それは一本に繋がっていた。
例えばウィリスとの約束を果たすとして、自身が絶対の君主である必要は無い。
それどころかネイさえ健在なら、自分が街娘に戻ることすら容易いだろう。
ドレストスを再興してグラニアを倒したあと、平等が齎された世を統治するのはネイであれば良い。
その中で自分がウィリスの妻になれば、何の不自由があろうか。
ローザリアは、そう考えたのだ。
だから片膝を付き、彼女は改めてネイに臣下の礼をとる。
以前、誰の下にも付きたく無いと喚いた彼女とは、もはや違うのだ。
「ネイさま。そのようなお心とは知らず、ご無礼を……私は、今後とも閣下のお役に立ちとう存じます」
ネイは立ち上がって、ローザリアの手をとった。
ローザリアが己の野心を真摯に受け止めてくれた事が、とても嬉しい。
「ローズ……ありがとう。あなたの働きには、期待しているわ」
「……ネイさま!」
ローザリアの顔が、パッと明るく輝いた。
けれど次のネイの言葉で、彼女は再び肩をガックリと落とす。
「じゃあウィリスには今日中に、結婚のことも含めて色々と伝えなさい」
「は、はぁ……でも……」
「それから、ウィリスをナディア殿下の部屋へ行かせるのッ!」
「えっ、でも……いきなり二人きりにするなんて……」
「いいじゃない。ナディアさまだって美人だし、ウィリスの心が変わるかも……」
「そ、そんなことはっ! だってウィルは私の……私の……心変わりなんて、して欲しくないッ……」
俯くローザリアを抱きしめ、ネイが優しく言う。
「ローズ、聞いて。エンツォにだって、妾くらい居るのよ?」
「えっ!?」
「私の下にはね、百もの諸候がいるの。彼等との繋がりを強固なモノにする為には、そういったことも必要なの」
「それじゃ、ネイさまは……」
「もちろん、私だってイヤよ。だけど、これも政治なの。だからローズも我慢して」
思いっきり眉毛を落とし、ローザリアが情けない声を出す。
「は、はぃ……でもぉぉ……」
なおも煮え切らないローザリアに、ネイはとうとうブチ切れた。
「いいから、言う通りにおしッ!」
――――
ローザリアがドレストス家の屋敷に戻ると、既に日が西に落ちかけていた。
冬が近づくにつれ、日が短くなる。
空の上部は紫色に染まって、茜色が残るのは地平線に程近い一部だけ。
冬になれローザリアも、いよいよ十八歳だ。
だとしたらウィリスは二十八歳になっているのだな――などと思いつつ、ローザリアは沈鬱な気持ちになった。
ミシェルとウィリスの結婚は、認めるしかない。
それがどうして、オマケでナディアまで付いてくるのか。
しかも自分がウィリスに、その事実を伝えねばならないとは……。
世も末、人の心には血も涙もないのか――とローザリアは肩を落とす。
全ては大義の為とはいえ、それで恋がぐちゃぐちゃになるとは、君主とは切ないものだ。
馬上で肩を落とし、とぼとぼと庭先を進むローザリアを見つけ、グラハムが声を駆けた。
「男爵閣下!」
グラハムはちょうど、ウィリスと剣の稽古をしていたようだ。
手を振るグラハムの後ろで、ウィリスが汗を布で拭いてる。
ローザリアは馬丁に馬を預け、彼等の下へと向かった。
気を利かせて、グラハムが去る。
「ちょっと水でも浴びてくるからよッ! じゃ、デカブツ、あとは頼んだッ!」
ローザリアはウィリスを見上げ、軽く腕に触れた。
「もう、痛まないのか?」
ウィリスは微笑して頷く。
「ああ、問題無い。魔石の魔力を多少使ってしまったが……」
ローザリアは「うむ」と頷き、「ほっ」と息を吐いた。
不死兵の概要は、サラから色々と聞いている。
今ならウィリスの胸を開け、簡単なことであれば調整することも出来るローザリアだ。
あの程度でウィリスが死ぬ筈は無い、とは分かっていた。
それでも――心配にはなる。
「実はな、話があるのだが――」
言いながら、ローザリアが近くのベンチへとウィリスを誘った。
この前庭には、無数のベンチが置かれている。
おそらくは先帝リュドミールが、手入れを欠かさずにしてくれたからだろう。
そうでなければ今頃、全ては雑草で埋め尽くされていたはずだ。
ウィリスと共にベンチへ腰を降ろしたローザリアは、リュドミールの恩を思った。
これからウィリスに伝えることは、彼の最後の意思。即ち、遺言である。
それと同時にローザリアとネイに大義を齎す、魔法の言葉でもあった。
「ウィリス、リュドミール陛下はな、貴様とミシェルの婚姻を認めた」
「……本当か?」
「嘘を吐く必要など、何処にある。ただ、一つ条件を出された」
「それは、何だ?」
「うむ……ナディア殿下も貴様の妻に、とのことだ」
「……断る」
「まあ、そう言うであろうとは、思っておった」
大きな溜め息と共に、ローザリアが説明を始める。
トラキスタンの情勢や、ナディアの身の上などなど……。
それらをウィリスはいちいち頷いて、熱心に聞いた。
最後に、「グラニアを倒し、平等への階梯を登る為の礎になれ」とローザリアは付け加えた。
彼女の目に涙が溜まってしまったのは、多分、今の自分の気持ちも礎になってしまうからだろう。
「事情は分かった――では、形だけでも良いか?」
困ったように頬を指で掻き、ウィリスが言う。
彼も愚鈍ではない。ローザリアの気持ちは分かっていた。
「形だけ?」
「ああ。妻にはするが、俺は彼女に手を出さん」
ローザリアの頬が、朱に染まる。
ウィリスの手を取り、彼女は大きく頷いた。
「それは、貴様に任せる。でも、私を妻にする時は、それではいかんぞ?」
「それも――分かっている」
◆◆
ローザリアと別れ、ウィリスはナディアが籠っているという部屋へ向かった。
彼女を励ましてやってくれ――とローザリアに言われた為だ。
随分と落ち込んでいるらしい。
言われてみれば、当然だろう。目の前で、父親を殺されているのだから。
“コンコンコン”
ウィリスはノックをした。
ふと、彼女がなぜ自分に懐いているのか、不思議に思う。
それほど面識は無い筈なのだが……。
しかし、考えが纏まる前に返事があった。
「……開いています」
くぐもった声が聞こえる。
ウィリスは扉を開けて、中へと入った。
暮れかけた日差しは、もう部屋に届かない。
薄暗い室内で、皇女は寝台の上にいた。
「ずっと、そうしておいででしたか?」
ナディアは桜色の髪を両手で押さえ、ガリガリと頭を掻く。
イライラとしながら、何かに怯えている。
ウィリスは彼女の仕草から、そんな印象を受けた。
「悪い?」
「悪くはありませんが、食事も摂っておられぬとか……」
「父は、もう食事を摂る事が出来ない。それなのに私だけ、食事なんて……」
「父君は、お亡くなりになったので……」
「……殺されたから」
「そうですね」
「仇を、とりたい」
「相手が、分かっておいでですか?」
「……どちらかの……兄」
「ですが、どうにも出来ないでしょう」
「兵を、貸して」
「どちらの兄君を討つのですか?」
「……両方」
「それは、無理でしょうな」
ウィリスは首を左右に振って、寝台に近づいた。
美しかった皇女の顔が、随分と窶れている。
落ち窪んだ目、ボサボサとした髪――それはまるで、貧民街にいる物乞いのようだ。
ウィリスは彼女がナディアだと、にわかには信じられなかった。
「ウィリス……」
不意にウィリスを見上げて、ナディアが後ずさる。
寝台の布が擦れて、乾いた音を立てた。
彼女は目を見開き、驚いている。
今の今まで会話を交わしていた人物が、誰だか分からなかったらしい。
「私……あなたに助けられて……お礼も……していない。それなのに……会わせる顔が無い……」
ウィリスは首を左右に振って、微笑んだ。
ずっとここに居て、ただ怒り、怯えていたのだろう。
今のナディアは、大分臭う。
もともと薄汚れたローブをずっと着ていたが、それとは違う。
本当に人間が何日も身体を洗わない、垢の匂いだった。
けれどウィリスは気にしない。
戦場に居れば、そんなことは幾度もあった。
男達の汗と油、血と汚物と泥濘の中、彼は戦ってきたのだ。
獣じみた雌の匂いなら、むしろ馥郁たる香りにも等しい。
「いいんです……俺は……リュドミール陛下をお助けすることも、出来なかった」
言いながら、ウィリスは思った。
俺は一体、人生で幾度の失敗をするのだろう――と。
最強の不死兵などと言っても、肝心の時にこれでは、どうしようもない。
ナディアが、ウィリスにしがみつく。
彼女の目から、ポロポロと涙が零れた。
「ありがとう……ウィリス……助けに来てくれて……」
「あなただけでも、守れて良かった」
ウィリスはナディアの背中を軽く撫でて、落ち着かせる。
「これからも……守って……くれる?」
ナディアが上目遣いに、ウィリスを見た。
懇願するような眼差しだ。
「あなたは俺の妻になる――守るほか無いでしょう」
「父の遺言だから?」
「そうでなくとも、あなたの事は守る。けれど妻にするのは――遺言だからです」
「……形だけ、ということ?」
「解釈は、あなたにお任せする」
「そう、わかった。形だけでも構わない……それでも、私の気持ちは変わらないから」
コクンと頷き、ナディアがぎこちなく微笑んだ。
「あなたの気持ちというのが、俺にはよく分からない」
「どうして?」
「なぜ、俺などを好いてくれるのか……理解出来ません」
「私にも、よく分からない。気が付いたら、あなたの事ばかり考えていた」
「……ナディアさま」
「私のことは、ナディアでいい。ウィリス・ミラー。私は、あなたの妻になるのだから。ふふ……」
「分かりました、ナディア。今後とも宜しくお願いします」
ナディアは父を失ったけれど、ウィリスを得た。
代償というには、余りにも損失が大きい。
それでもナディアは、ようやく笑うことが出来たのである。
もしもウィリスがいなければ彼女はきっと、どちらかの皇子に殺されていただろう。
そのことを、ナディアは誰よりも理解している。
そして自分を形だけでも受け入れてくれたウィリスを、心から大切にしようと誓うナディアだった。
同時刻――明日に迫ったリュドミールの葬儀を前に、第一皇子ボリスが帝都を出たという。
この知らせは、トラキスタン諸侯の心に寒風を齎した。
確実に帝国が二分される――そのことが約束されたのだから。
面白いと感じたら、評価、ブクマ、感想、宜しくお願い致します。
作者のやる気が上がります!
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