37 蠢動
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ムスラー公国は大陸北東に位置する海洋国家だ。
国の形は長靴のようで、つま先が西を向いていた。
つま先の向こうがゴードであり、その先にグラニア帝国がある。
だから当然、海軍国であることは言うまでもない。
人口は三百万を擁する。
公国という規模では、既に無い。
それでも主を公爵としているのは、海の向こうに小さな王国があり、その国王を奉じているからだ。
といって――形式的なものではあるが。
常備軍は十万。
先年ウィリス・ミラーを破った際はゴード公国の志願兵を入れ、十五万を号した。
実際の最大動員兵力は、三十万と目されている。
現在の当主は、エーリク・アムンセン。
赤みがかった金髪が特徴的な、蒼い瞳の男である。
彼の祖は海賊とも言われて、風貌も荒々しい。
その雄大な体躯はウィリス・ミラーにも引けを取らない、大陸最強の一角である。
エーリク・アムンセンは今、宮殿にある自身の執務室から眼下の港を眺め、眉を顰めていた。
夏の海が陽光を反射し、キラキラと輝いている。カモメの群れが、白い奇跡を描いていた。
「間に合いそうか?」
振り向かず、エーリクが背後に立つ男に問う。
男は額の汗を拭い、オドオドと言った。
「秋口までには、何とか四十隻を――……」
「五十隻だ」
エーリクの口調は厳しい。
だが、これはグラニア侵攻における最低条件だった。
エーリクの狙いは、冬になる前に北海からグラニアへ侵攻すること。
それも十万の大軍だ。
海を渡るには、五百隻の大船団が必要だった。
その為に商人や漁師から船を徴用したが、新たに軍船を作る必要もあった。
同時にゴードからの陸軍も、東からグラニア領を侵す。
兵力を消耗しているグラニアが、これに抗する術は無いだろう。
先年の愚行を、血を持って購わせるのだ。
このようにゴード公国との連携があればこそ、船が足りないでは済まされない。
確実に十万の大軍を、グラニア帝国北岸に付けなければならないのだ。
更に今、グラニアはトラキスタンとも事を構えた。
故にエーリクはトラキスタン皇帝にも親書を送り、共闘を申し込んだのだ。
これがなれば、東西と北からグラニアを包囲出来る。
ゆえに、この機を逃す手は無かった。
「ぎ、御意」
雄大な背中の君主を見上げ、怯える様に返事をしたのは、海軍卿たるラッセル・ローケンである。
彼は二十九歳にして、後頭部以外の頭髪を全て失うという不幸に見舞われた。
しかし何故か美人の妻を娶り、三人の子宝に恵まれた男である。
いや、何故か――ではない。
彼を海軍卿にしたムスラー公は、ラッセルがいかに優秀な海軍提督であるかを知っていた。
彼は海戦において、敗北を知らない。その上で、一騎打ちも無敗である。
陸戦においてさえ、あのウィリス・ミラー相手に一歩も退かなかった男だ。
たとえハゲても、強者はモテるのだな……そのようにエーリクは思った。
ただ彼の問題は、ひとえに後頭部に毛を残していること。
なぜ、いっそ剃らないのかと、エーリクは幾度もラッセルに問いつめた。
「いえ、その……毛は大切ですから……」
だが、これが優秀なる海軍提督の答えである。
そういえばラッセルは、頭頂部の全ての毛を失った訳ではなかった。
全て失ったように見えるが、今でも四本だけ、ヒョロヒョロとした毛が残っている。
以前は五本であったらしいが、その一本を抜いた海賊団を、彼はたった一人で全滅させた。
「てめぇ等にはぁぁあ、情けってもんがありゃせんのかいぃぃぃいい!」
そう言って暴れるラッセルに、誰も手を付けられなかったという……。
◆◆
豪奢な寝台に横たわり、五人の美姫を侍らせるのは現グラニア帝国皇帝、ブラスハルト・ジーク・サーリスヴォルトだ。
太陽はとっくに中天へと達しているが、彼の寝室には黄金のあしらわれた分厚い帷幕が、未だ窓を覆っていた。
ゲートリンゲンは皇帝の寝室へ足を運ぶなり、“むわっ”とした臭気に眉根を寄せる。
酒気と女の匂いで、むせ返りそうだ。
といって彼も、別に仕事熱心という訳では無い。
ただ元帥という地位から、昨夜のそれを皇帝よりは早く切り上げた――というだけの話だ。
「陛下――いささか残念なご報告を致さねばなりません」
皇帝の赤らんだ顔が、怒気に染まっていく。
嫌な話を、彼は一切聞きたくないのだ。
「軍事か?」
「御意」
「よきに計らえ」
「……は?」
「軍事のことは、卿に任せてあると言ったのだ! 分かったら下がれ! 余は忙しいッ!」
「御意」
ゲートリンゲンは踵を返し、寝室を離れた。
「これで良い」と彼は思う。
いたずらに皇帝が口を挟めば、やりにくくなるだけであった。
といってゲートリンゲンに、現状を打開する策など無い。
ただ己がやりたいように振る舞う、それだけのことだ。
ゲートリンゲンは自らの執務室に入り、大きな団扇で左右から風を送らせる。
すでに衣服も開けて、武官の最高位とは思えない恰好だ。
処理すべき書類は適当に副官へ任せ、自らは机の上に乗せた果実に手を伸ばす。
“シャク”
齧った果実が、瑞々しい音を立てる。
それにしても、とゲートリンゲンは思った。
ミシェルが裏切ったことが、許せない。
どうせなら、散々に犯しておくべきだった。
皇族だと思って、甘やかしたのが良く無かったか……。
自身が十人も愛人を抱えていたから、「それをどうにかしろ」とミシェルは言っていた。
「身辺整理の出来ていない男に、抱かれるつもりは無い」とも、彼女は言っている。
だからこそゲートリンゲンは愛人を厳選し、五人まで減らしたというのに……。
それもこれも、こうして逃げることを考えてのことであれば、納得がいく。
「時間稼ぎをしおって……!」
左右から自身を仰ぐのは、薄衣に身を包んだ女性兵士だ。
どちらも美貌で、まだ若い。
今宵の相手は彼女達にしようと、ゲートリンゲンは決めていた。
それでも――ミシェルの美しさの方が遥かに上だ。
彼女と比べれば、ここの兵士どもなど塵に等しい。
楽しみを後に伸ばそう、などと考えたゲートリンゲンは、過去の己が恨めしかった。
ゲートリンゲンは果実の乗った盆を腕で払い、中身を辺りにぶちまける。
「巫山戯るなッ! 俺は悪く無いッ! 俺を捨てて行くなど、あの気違い女めがッ!」
女達がビクリと肩を震わせた。
そこに、空色の鎧を着た人物が現れる。
その者は室内でありながらも、兜を被ったままだ。
「元帥閣下。些か戦力比が危険な水準となって参りました」
その者は竜騎兵の隊長であり、ゲートリンゲンを支える武の要。
流石に彼も、邪険には出来ない。
多少は威儀を正して椅子に座り、「うむ」と鷹揚に頷いた。
「全軍で二十万を切っております。対して周辺諸国の動員兵力を鑑みますに……今、ムスラー、ゴードの連合とトラキスタン、同時に攻め込まれますれば、厄介なことになりまする」
「はっきりと申せ。厄介とは、どの程度の厄介ごとなのだッ!」
「はっ――帝都が落ちまする。そして現在、ムスラー、ゴードに不穏の動きあり、との報告もありますれば……」
流石のゲートリンゲンも、背筋が氷る一言であった。
彼は凡庸であっても、愚劣ではない。
今の帝国があればこそ、自身の地位が保たれることを知っている。
しかし帝都が落ちれば、たとえグラニア帝国が存続しようとも、元帥たる自身の地位は危うい。
或は敗戦の責任をとって、処刑されることもあり得る。
「何か、策はあるか?」
こう問うて、ゲートリンゲンはリュッセドルフを失ったことを思い出した。
この様な場合、真っ先に良策を授けてくれた彼である。
そこでようやく、空色の鎧を着た騎士が兜を取った。現れたのは黄金色の髪と、褐色の肌である。
彼女の名は、ゼナ・ヴェルナー。
南方大陸の出身で、竜騎兵になる為にグラニアへ来た女だ。
ゼナが唇の片端を上げて、笑った。
「あるにはありますが……」
ゼナの顔を見て、ゲートリンゲンが好色そうな笑みを浮かべる。
これが嫌で、ゼナは彼の前で兜を取りたく無いのだ。
といって、ゲートリンゲンが彼女に手を出す事は無い。
何故なら、ゼナの心が男だからである。
彼女は女扱いされることを極度に嫌い、為にゲートリンゲンと云えども触れることが出来なかった。
どうしてゼナが自身を「男」だと言い張るのか、その理由は誰も知らないが――。
「なんだ、言ってみろ」
ゲートリンゲンはゼナから視線を逸らし、苛立たし気に机を指で叩く。
“トントントントン”
「では、レオニードに会われませ」
「レオニード? トラキスタンの元皇子か……ヤツに、何かやらせるつもりか?」
「謀反を起こさせましょう」
「……バカな! 亡国の皇子に、一体何が出来るという!」
「出来なくとも、混乱させる程度のことは叶います。成功すれば、トラキスタンの兵力を大幅に削れましょう。どちらにせよ、我らの兵を損ねることはございません」
「……ふむ。やって損はない、か」
「御意。詳細は、明日までお待ち下さい。紙にしたためて参ります」
「良かろう」
ゼナは踵を返し、執務室を出た。
彼女は、これで良い――と拳を握る。
今まではリュッセドルフのせいで、策を練る地位にはいなかった。
けれどこれで実績を示せれば、将軍としての序列も上がるだろう。
やがては全軍に号令出来る日も、きっとくる。
それが最強の将軍を目指す、ゼナの野望なのだ。
なのにグラニアと云う国が潰れてしまっては、元も子も無い。
――――
翌日、ゲートリンゲンとゼナは一人の男の下へ向かった。
ゲートリンゲンがやってきたのは、馬車で一時間弱。帝都グラスコール郊外の屋敷だ。
閑静な住宅街である辺りは、帝国貴族の隠棲地ともなっていた。
ここで暮らすのは、かつてトラキスタン帝国第三皇子であった、レオニード・イーゴリ。
彼はかつて強烈な対グラニア戦略を打ち出した為に、トラキスタンで孤立した。
それが何の皮肉かグラニアへ亡命したのだから、ゲートリンゲンにしてみれば、愉快な話であった。
馬車を降りたゲートリンゲンは、すぐに客間へと通された。
上質な絨毯、上質な鎧の飾り物――その全てはグラニア帝国の税で賄われた品だ。
ゲートリンゲンは豪奢なベルベットのソファに座り、館の主を待った。
暫くして、中背の男が姿を現す。
彼は無精に伸ばした髭をボリボリと掻き、不機嫌そうな目をゲートリンゲンへと向ける。
年の頃は三十手前の筈だが、それにしては老けて見えた。
「久しぶりだな、レオニードどの」
「何の御用かな、ゲートリンゲン閣下」
「うむ――そろそろ卿には、帰国して貰おうと思ってな」
「は? 何の冗談だ。今更、帰れる訳が無い。私は先帝の御代に亡命しているのだ。今では妻も子もいる……」
ゲートリンゲンは目を瞑り、それから指をパチンと鳴らした。
窓から見える中庭に、大きな飛竜が着地する。
暫くして、空色の鎧を着た騎士が現れた。ゼナだ。
彼女はそっとゲートリンゲンの背後に立ち、場を見下ろしている。
ゲートリンゲンが窓の外を見つめ、溜め息を吐いた。
「困ったな……飛竜がこの様な所に」
眉根を寄せて、レオニードが抗議する。
「あれは、閣下の竜騎兵どのの騎竜だろうッ! 何を言っているッ! 我が家をどうするつもりだッ!」
ゲートリンゲンはしれっと肩を竦め、両手を広げて首を振った。わざとらしい仕草だ。
「いやいや、どうにも……私の部下の騎竜であれば、まさか火など吐かぬだろう。ましてや火災の跡からトラキスタン元第三皇子、レオニードどのの死体や、ご家族の死体が見つかるなどと云う事も……」
レオニードは頭を振って、項垂れる。
流石に彼も、察した。
意を決して、ゲートリンゲンを見据える。
「……元帥閣下は、私に何をやれと仰るのか?」
両手を合わせ、ゲートリンゲンが目を輝かせた。
「おお、さすがはレオニードどの! 理解が早くて助かるぞ! なに、簡単なこと。トラキスタンを、真っ二つに割って頂ければ良い」
「なッ! 無茶な! そんな無謀なことが出来るかッ!」
「無茶でも無謀でもない。皇帝リュドミールを殺せば今のトラキスタンは、自ずと割れるであろうがッ!」
ゲートリンゲンの言葉に、熱がこもる。
彼は酒池肉林に溺れることも好きだが、他者を手の平の上で転がすことに無上の喜びを覚える性質でもあった。
そして今、彼の獲物は目の前のレオニードである。
「父上を、殺せだと?」
「かつては、随分と意見を対立させたそうじゃないか」
「逆だ! 最初は同じ意見だった! 結局は父上が兄達に流されたから……!」
「ほう、そのような経緯が……」
「どちらにしても、父上を殺した所で、兄が継ぐだけだッ! 何も変わらん!」
「そうかな? 確か第一皇子のボリスと第二皇子のアーノルドは、随分と対立していると聞くが……?」
「……くっ」
「まあよい――詳細は、ここに書きしたためてある。この通りにやるが良い」
ゲートリンゲンは、一通の封書を差し出した。
レオニードは受け取り、中を確認する。
そこには、トラキスタンに潜入している密偵の名前が書かれていた。
また、作戦概要と骨子も、びっしりと書き込まれている。
昨夜、寝ずにゼナが作ったものの写しであった。
「よくもここまで……」
「そう思うだろう。我が帝国は、人材に事欠かぬのだよ……ふは、ふはははッ」
レオニードの驚愕に、愉悦の笑みを浮かべてゲートリンゲンが答える。
「……だが、失敗したらどうする?」
「ふむ……失敗したらか? そうだな……失敗したら、諦めて死ね」
満面に笑みを浮かべて、ゲートリンゲンが言う。
さらに彼は続けた。
己が優位な立場にある限り、彼はどこまでも饒舌だ。
「そもそも、一度は祖国を捨てた貴様だ。今とて、大して生きている価値も無いだろう」
レオニードは、両手を膝の上で握りしめた。
窓の外では今年四歳になる息子が、飛竜を見て喜んでいる。
彼は子供が消炭になる姿を、見たくは無かった。
「分かった、やろう。だが――家族はどうなる?」
「お前が私を裏切らぬ限り、今と変わらぬ生活を保障しよう。いや――場合によっては、より良くしても良い」
「そうか。ならば安心した……」
「だが、裏切れば容赦はせぬぞ?」
「むろん、分かっている」
「ああ、良い返事だ。ようやく分かったか。
だが、なに、成功することを考えたまえ。君はトラキスタンの宮廷に復帰し、第二皇子を皇帝として即位させ、その功績をもって宰相となるんだ。そして我らと同盟を結べば、末長い和平が約束される――悪い話ではなかろう……ふははッ!」
「ああ――父と兄、そしてトラキスタンの民の血の代償としてな……」
ゲートリンゲンに答えつつ、レオニードは立ち上がる。
妻と子を守る為、彼は悪鬼となる決意をしたのだった。
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