34 戦勝の夜
◆
トラキスタン皇帝リュドミール三世は、一先ず大軍をノイタールの外に置いた。
さすがに街の全人口を超える軍を、中に入れる訳にはいかないとの配慮である。
こうして五百の兵と側近だけを伴い、リュドミールはノイタール政庁に入った。
当然、図らずも皇帝の行幸である。ノイタールは上を下への大騒ぎだ。
市民達は皇帝を一目見ようと沿道へ出るし、官吏達は、いかに歓待すれば良いかを考える。
ある意味で官吏達にとっては、戦争よりも生きた心地がしなかったであろう。
いくらネイが公爵の地位にあるとはいえ、皇帝との差は歴然である。
そんな中、皇帝リュドミールは黄金をあしらった馬車に乗り、ノイタールの目抜き通りを行く。
同乗するのは、第五皇女ナディア・イーゴリーであった。
ナディアは今年二十二歳と、本来ならば降嫁していてもおかしくない年齢であったが、その内気な性格の為に縁談が纏まらない。
しかし皇帝リュドミールとしては、それも悪く無いと考えていた。
彼は親征に際して、必ずナディアを伴う。
その理由は彼女の軍略が、まさしく優れている為であった。
事実、彼女はグラニア軍と最後に対戦したおり、その軍略をもって軍事の天才たるイラペトラ帝を退けている。
結果として引き分けに終った会戦のお陰で、両国に一時的な平和が訪れた。
ゆえに人はナディア・イーゴリーを、軍師皇女と呼ぶのだ。
その彼女に、皇帝リュドミールが訪ねる。
ノイタールへ入城する兵の数は、本当に五百で良いかと確認をしたのだ。
「――これで良いかの、ナディア」
「……はい」
馬車の中、皇帝の問いに小さく答えるナディアは、たとえ相手が父であっても、決して目を合わせようとしない。
二十二歳になるというのに、熊のぬいぐるみを手に持ち、ずっと俯いていた。
それから暫くして、独り言のようにナディアは言う。
「……五百でも多いくらい。ウルド公がその気になれば、どうせ、すぐに殺されるもの。本当はお父様と私だけで、十分なのよ……」
皇帝リュドミールは撫でていた白い髭を思わず引っ張り、「駄目ではないかッ!」と喚く。
「いいの……今は、私達が味方であると認識して貰う方が大事。彼等は一兵も損ねていない私達を、快く思っていない」
「それは、そうであろうが……援軍には違いない。現にグラニア軍も、さっさと引き上げたではないか」
「ウルド公が、その点に気付いてくれれば……」
「気付かなければ、どうなる?」
「ウルド公は私達を、潜在的な敵と看做すだけ……でも、大丈夫だと思う……」
「なぜ、そう思うのだ?」
「……フヒ、フヒヒヒ。だって……フヒヒヒ……」
「おい、ナディア! その笑い方はやめろ! 恐いぞ! あと理由はッ!?」
深く被った灰色のローブの奥、軍師皇女がくぐもった笑い声を漏らす。
フードから零れ落ちるのは、鮮やかな桜色の髪。
その色は遥か東方の島国で、春になると咲く花の色と同じだと云う。
瞳の色は、大樹を思わせる褐色であった。
六十歳に近い皇帝が、三十を過ぎて出来た子だ。
ナディアのことが、可愛く無い訳が無い。
だから幸せになってもらおうと、様々な者と見合わせた。
けれど、どのような臣下に嫁がせようと思っても、彼女の眼鏡に叶う者はいない。
第五皇女ナディアは、手元のぬいぐるみを眺めてウットリと笑う。
熊のぬいぐるみに着せた服は、黒衣黒甲であった。
皇帝は溜め息を吐く。
かつてイラペトラと直接対決をした際、ナディアの策が無ければ戦さを互角に持ち込むことなど出来なかっただろう。
その際、ナディアは見ていたのだ。黒衣黒甲を身に纏い、悪鬼の如く戦場を駆け回る一人の将軍を。
もしもナディアが望むなら、彼を夫にするのも良いだろう。
あれ程の将なら、爵位も領地も思いのままだ。
何よりナディアとウィリスが組めば、大陸全土を制覇出来るかもしれない。
そう思えば今日、彼と会うのは僥倖だ。
なにせ彼とミシェル・ララフィとの婚約は、破棄されているのだから。
それにウィリス・ミラーの主君だというローザリアは、ドレストスの王族。
となれば彼女からウィリスを貰うに当たり、ネイの言う通りに復権を認めれば良い。
皇帝リュドミールは顎髭をしごく。
ウィリス・ミラーが息子になれば、「余も無敵だな」――と満足そうに頷いた。
ナディアが、熊のぬいぐるみを掲げている。
彼女はその顔に口を近づけ、ウットリと微笑んだ。
「ウィリスが居る……だから私達の意図に……気付く」
ナディアはぬいぐるみにも、ウィリスと名付けていたのだった。
――――
ノイタール政庁の広間に席が設けられ、奥に玉座が設えられる。隣が皇女、ナディアの席だ。
皇帝が座る階の下に、公爵ネイの席もある。
あとの者は、そのまた下だ。長机を前にして、百を超える人々が居並んでいた。
釣り下がった無数のシャンデリアが、夜の闇に抗して光を場に齎している。
トラキスタン軍の到来によって、戦さの早期決着が成ったと気付いた者は、ウルド軍中に二人いた。
一人はウィリス・ミラー。
今一人はローザリア・ドレストスだ。
だからローザリアはノイタールまでの帰還途中、ネイに告げていた。
「ネイさま。もしも敵が援軍を察知して退いたのだとすれば、やはり皇帝陛下のお力をお借りした、ということかと……あまり無碍になされませぬよう」
無意味に現れたように見える援軍に、さんざん毒づいていたネイだったが、しかしローザリアの意見を聞き、馬上で少し首を捻る。
「うむ……では、そうなるよう状況を作った者がいる――という話になるな」
考えて、ネイはすぐに思い当たった。軍師皇女、ナディアの存在に。
――――
間もなく、歓待の宴が始まるというところ。
そんな会話を思い出し、ネイは階の上に座るナディアにチラリと目を止めた。
軽く会釈をして、ニッコリと微笑む。
だがナディアは慌ててネイから目を逸らし、手に持った熊のぬいぐるみをギュッと握りしめる。
そしてローブを目深に被ったまま、タタタッと何処かに走り去ってしまった。
人見知り――どころではないぞ、とネイは溜め息を吐く。
皇女ナディアが向かった先は、ウィリスの姿が見える部屋の隅だ。
人見知りでありながら、妙なところで行動力がある。
しかし彼女は極度のヒキコモリ。社交性は皆無であった。
「フヒヒ、フヒヒ……ウィリスだぁ」
涎を垂らさんばかりにウィリスを眺め、ハァハァと萌える皇女。
有り体に言って、変態だ。
そして彼女は、薄汚れた灰色のローブを着ている。
だから階の上に居なければ、誰も皇女だと思う者はいなかった。
そこで、用を足そうと席を立ったウィリスが、ふと彼女に目を止めてしまう。
部屋の隅で熊のぬいぐるみを抱えた、あからさまに怪しい人物である。
ウィリスは「魔導師であろうか?」と思い、声を掛けた。
万が一、暗殺者の類であれば一大事である。
「どうした。何か用があるのか、魔導師どの?」
「あ……う……あ……あ……」
皇女は極度のコミュニケーション障害だ。
父親以外と、まともに口が利けない。
ましてやずっと憧れを抱いていたウィリスに、いきなり声を掛けられた。
もう駄目だ、動転してしまった。死にたいと思う。いや、死にそうだ。
当然、逃げ出す、走る、転ぶ、という黄金のコンボを決めて、ローブがはだける。
そして、美貌がバレた。何なら美脚もバレた。
「だ、大丈夫か?」
ウィリスは彼女の手を取り、助け起こす。
ナディアは顔を真っ赤に染めて、熊のぬいぐるみをギュッと握る。
もはや物語の中の王女と騎士だ。ヒキコモリにこの仕打ちはまずい。
最初から好きな人が、結局は王子さまだった事故の発生である。
腕の中の熊が、目の前にウィリスを呼んでくれたのか……。
ナディアの心は今、ウィリスに鷲掴まれた。
そして肉体はウィリスの腕の中で、意識を失っていく。
これは、中々に深刻な事態の発生だ。
だが、ウィリスの状況も深刻である。
もともと厠へ行きたかった。膀胱だって、この状況に大慌てだ。
どうやら早々に、麦酒を飲み過ぎたらしい。
「ナディアさまッ!」
「皇女殿下ッ!」
ウィリスの腕の中でぐったりするナディアを見つけ、トラキスタンの重臣が口々に喚く。
「ウィリスどの、事情をご説明頂けますかッ!?」
「あ、いや……俺は……」
むろん、軍事以外のウィリスは、いくら黒衣があっても木偶である。
たどたどしく自らの無罪を主張しようと、後ずさった。
そこで薄らと意識を取り戻したナディアが、一言。
「ウィリ……ス……さま……好き……」
一同呆然である。
だが皇帝リュドミールは一人、皇女の行為に親指を立てていた。
「グッジョブ、ナディア!」とでも思っているのであろうか。
だがここで、怒りに染まった女性が二名。
ミシェル・ララフィ・サーリスヴォルト及びローザリア・ドレストスだ。
「そこの薄汚い皇女ッ! 私の盾をなんだと思っているの! 離れなさいッ!」
何だか分からないが、椅子に右足をタンッと乗せて、漆黒のドレスを身に纏うミシェルが言った。
「薄汚い皇女」とは聞き捨てならないが、以外と言い得て妙である。何故かトラキスタンの重臣も、「ふむ」と納得していた。
「相手が誰であれ、容赦などせぬ! その者は我が剣! 誰にも渡さぬッ!」
一方、左足をタンッと椅子に乗せたのは、ローザリアだ。
ミシェルとの息が、日に日に合ってきている。
むしろ親友なんじゃないか? とサラなどは思っていた。
が、そんな二人は互いを睨み、怒りの矛先を転嫁した。
「ウィルは私の盾よッ! あなたは引っ込みなさいッ!」
「貴様こそなんだ! 戦さも知らぬくせにッ!」
「「ガルルッ!」」
やがてナディアの意識がはっきりと戻り、ウィリスを見上げて顔を真っ赤に染める。
「わ、わた、わたし……ひゃう……」
言うなりナディアが元の席へ戻ると、流石のミシェルとローザリアも鼻白む。
二人はこっそりと席に座り、ゴニョゴニョと言葉を交わした。
「ミシェル殿下……残念だが、貴様は打首だな。あれ、本当に皇女であったようだぞ……」
「な、何を言ってるの、ローザリアさん。私だって皇妹だわ。地位なら変わりません」
「でも、亡命の身で、トラキスタン帝国の保護が必要であろう?」
「あなただって、ドレストス男爵の地位は、トラキスタン帝国あってのものでしょう? それなのに皇女殿下にあんな口のきき方をして……」
二人は共に頭を抱え、口を揃えて言うのだった。
「「どうしよう……」」
もう、キス勝負どころではない有様である。
そんな彼等を会場へ残し、ウィリスは一人、いそいそと厠へ向かう。
ちょうどそこに、グラハムが居た。
「いよう、デカブツ。いつの間にか、俺達を指揮するようになっちまいやがって……ハハ……でも、悪く無かったぜ、将軍!」
「グラハムには、助けられた。防壁隊、強いな」
「へっ! 嬉しいじゃねぇか! ま、鉄血騎士団は、不死隊だけじゃねぇってことよ!」
「ああ、そうだ。これからも、宜しく頼むぞ。グラハム隊長」
「任せとけ! ウィリス騎士団長どの!」
グラハムが、バンとウィリスの背中を叩く。
「あ……」
ウィリスはちょっと、手が冷たかった。
お返しに、グラハムの背中をバシッ叩く。
「おい……」
二人は共に、しっかりと手を洗ってから会場へ戻った。
◆◆
その後もトラキスタン皇帝リュドミールを歓待する宴は、つつがなく続く。
皇女の件については、ナディア本人から皇帝に経緯を伝えたらしい。
むしろ、ウィリスが褒められて終った。
ウィリスに皇女を娶るよう確認するのは、きっちりと外堀を埋めてから――と皇帝は考えているらしい。
「して、あの元気な女性達はどなたかな?」
ウィリスを褒めたあと、皇帝はローザリアとミシェルのことを、ネイに聞く。
「あれが先のドレストス王シグムントの忘れ形見、ローザリアにございます、陛下」
「ほう……」
目を細め、昔を懐かしむように笑みを浮かべたリュドミール帝。
しばし考えて、ようやく口を開いた。
「余とシグムントは、友であったよ。世間が、どう思っておるかは知らんがな。ヤツを救えなんだは……偏に余の弱さが原因だ……息子達がな、シグムントは強過ぎると言いおった。余、亡き後、ヤツに帝国を奪われるとでも思ったのだろう。余とて、息子等は可愛いからのう……意見を退けることが出来なんだ……」
何ともネイには答えがたい、皇帝の言葉だ。
「そのようなことを、なぜ私ごときに?」
「余、亡き後――後事を託せるのは、そなたかと思うてな」
「陛下……少し、酔われましたか?」
「ふっははは! なんの!」
ネイは少し考えてから、皇帝に対する自分の偏見を恥じた。
巨大な国を治めるには、相応の努力と覚悟が必要だ。
たとえ友でも裏切り、親兄弟も殺す――それが大国の主というものだろう。
自分には、その覚悟が出来そうもない。
「後事などと……陛下には、是非にも長生きをして頂きとう存じます。私は、この国のことで手一杯にござりますれば」
リュドミールは黄昏時に入った自分の人生を思い、白い顎髭をしごく。
その様をチラリと横目に、ナディアは頷いていた。
これでネイの好感を得たと、確信したのだ。
遠い目をするリュドミールが会話を終らせる前に、ネイはローザリアの件を問うた。
「ところで陛下、手紙でもお伝え致しましたが……ローザリアのドレストス家相続の件、よろしいでしょうか? 後見は私が務めますし、今のところ爵位は男爵に留めますが……」
「ああ、構わんよ。爵位とて、もっと上でも構わんのだが……ドレストス領がなぁ……」
「あの娘、いずれ奪還に向かう気のようです」
ローザリアを見つめながら、ネイが眩しそうに言う。
リュドミールも「はは」と笑い、大きく頷いていた。
「そう強気になれるのも、ウィリス・ミラーが居るからか?」
「それもあるでしょうが、元より芯の強い娘です」
「ふむ、そうか」
横で、皇女の肩がピクリと揺れる。
だが彼女はそのまま、無言で熊のぬいぐるみをギュッと抱きしめた。
「そしてローザリアの隣におります女性が、ミシェル・ララフィ・サーリスヴォルトにございます」
「ふむ……あの美しさを見ればのう。ではないか、と思うておったわ」
「まさしく、傾国の美女にございましょう? ですが……彼女はドレストス領に入り、ウィリス・ミラーと妻となることを望んでおります」
「なるほど……破棄した婚約を戻そうと、祖国を寝返ったか」
「さよう。ですが如何なる顛末となりますかは――まだ分かりませぬ」
リュドミールは瞼を閉じて、黙考する。
これは、一筋縄ではウィリスをナディアの夫には出来んぞ――と計算をしていた。
「そうか……では早晩、グラニアから何事かを申してこような」
「すでにグラニアは、我が領土に侵攻しております」
「無視すればよい、と申すか?」
「さよう。既に盟約は破られております」
「ふむ……だが、せっかくの皇妹。我が王子のうち、誰かの妻にしても良いと思うが……」
「さすればグラニアとの縁が出来るかも知れませぬが、ウィリス・ミラーが敵に回りましょう」
「ふうむ……それは厄介じゃな。では、ウィリスに我が娘を与える――というのは?」
リュドミールの提案に、ネイの眉が動く。
皇帝が何を考えているのか、分からなくなった。
「ウィリス・ミラーをつなぎ止める為――でございましょうか?」
「うむ。さすればミシェルどのも、余が皇子の誰かと結婚できよう」
「それはあまりに……賛成は、致しかねます」
「そうか……そうだな――ウィリス卿の気持ちも、ミシェルどののお気持ちもあろう。
ならば良い。こたびの戦勝とローザリア卿の叙爵を、改めて帝都で行う。それまでに、ウィリス卿とミシェルどのの件をどのように致すか、考えておくとしよう」
「御意――宜しくお願い致します」
こうして勝利を祝い、リュドミールを歓迎する宴は閉幕する。
今回の戦勝はトラキスタン帝国の栄誉と目され、帝都において盛大な祝宴が催されることとなった。
つまりグラニアの侵攻を悪とし、国威発揚を旨としたプロパガンダを行うということだ。
このとき、同時にローザリアも正式に叙爵されるという。
時期は、秋も深まりし季節と決まった。
となれば、ウィリスがローザリアを選ぶか、ミシェルを選ぶか――結果も出ているはずであろう。
しかし物事は、彼等の思惑通りに進まない。
何故なら、そこには様々な人々の思惑が介在するからである。
ともあれ宴の後、ついにローザリアは部屋にウィリスを呼んだ。
むろんそこには白いハンカチを握りしめ、薄い唇を噛むミシェルの姿もある。
そしてローザリアは迫った。
「さあ、ウィル! 私とキスをしろッ! 思いきり濃厚なヤツをなッ!」
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