14 喪服
◆
今日、イゾルデは宮廷に呼ばれている。
復帰の命令が下る、その内示があるそうだ。
面倒なことだ――とイゾルデは思う。復帰といえば、戦場へ出ろとの指示に他ならない。
すぐにも帝国を出ると思えば、イゾルデのやる気は限りなく減退しているのだ。
それでも馬車に揺られつつ、邸から宮殿へと向かっている。今ここで気取られれば、全ての準備が水の泡と消えるからであった。
街路にはまだ、昨日の雪が残っている。
轍に時折、赤色が混じっていた。それは貴族達が平民を馬車で轢き、死体を隅に追いやって先を急いだからだろう。
帝都の街路には、死体が積まれたままの場所がある。世も末だとイゾルデは思った。
昨年の敗戦による軍事、政治、経済に対する打撃は深刻だ。それを認識している貴族がどれ程いるのか。むろん方針を過たなければ、それらは数年のうちに回復するだろう。
しかし今、皇帝の側に侍るのは佞臣、奸臣の類のみ。どうにもならぬとイゾルデは頭をふる。
宮殿の正門を潜ると、景色は一変した。
広い庭園をまっすぐに走る流麗な馬車道は、一辺の雪とて残らず整然としている。
また、雪が僅かに残る庭園も、人が歩ける程度の道が確保してあった。
「なんだ、これは?」
イゾルデは同道するジョセフ・アーサーに聞く。
「園遊会があるようですよ」
「民の苦労も知らず、気楽なものだ」
「――今の事態を憂うる諸侯は、随分と引き上げたようですね。我が父も、領土へ引き蘢りました。自宅警備の任に就く、と張り切っていましたよ」
「……皇帝は、かかる事態に何の対処もしていないのか?」
「リュッセドルフ将軍が討伐軍を率い、数人の諸侯を討ち取ったと聞き及びます」
「あの男か……」
イゾルデは不快感も露に、眉を顰める。
「近頃は、随分と幅を利かせているようで、ユーシス将軍も煙たがっておられました」
「まあ――ユーシスどのも、あの男の相手は面白くなかろうよ」
「ロンド内務卿が唯一の盟友であるとか。今やお二人が、帝国の良識でしょうね」
「――私は、良識ではないのか?」
「閣下は――些か毒が強過ぎます」
「馬鹿のクセに、酷いことを言う……」
「馬鹿は酷いですよ、閣下」
「それはそうと、フロート伯の娘――何と言ったか……」
「アンネです。もう、別れは済ませました」
「良いのか、本当に?」
「ええ。いつか閣下が、一晩だけでも俺のものになると思えば、どこへなりともお供します」
「……まあ、ならんが。しかし――婚約者を捨ててまで、私と道を共にしてくれる、という点に関しては感謝する」
「はは――まあ、もともと親が決めた結婚話。あちらも乗り気では、ありませんでしたよ。向こうも別に恋人がいたんで、ちょうど良いでしょう」
――――
イゾルデは『翡翠の間』に通された。ジョセフは馬車で待機している。
ここは男爵以上、伯爵未満の者が皇族と会うまでの間、控える部屋だ。
ということは、どうやら直接皇帝にでも会うらしい――とイゾルデは苦笑した。
壁には様々なタペストリーが掛けられ、床にはモザイク絵が描かれている。
幾度見ても、意味が分からない――と平民出身のイゾルデは思っていた。
「ま、これを見るのも最後であろうよ」
何とはなしに、それらのモノを目に焼き付けていると、イゾルデはようやく呼ばれた。
通された先は、皇帝執務室である。
『謁見の間』と違い、無駄に広いということはない。実務的、かつ重厚に護られた部屋だ。
中には皇帝を中心に、警護とは別で二人の男が立っていた。
一人は帝国元帥ロウ・サム・ゲートリンゲン。もう一人はリュッセドルフ・エンデ将軍である。
イゾルデは皇帝に膝を屈して挨拶を済ませると、二人の将に軽く礼をした。二人も返礼をする。
「早速だが、明日から復帰してもらうぞ、ブルーム将軍」
皇帝は、単刀直入に言った。
重厚な机に肘をつき、薄笑みを浮かべた皇帝は、外見だけなら先帝と見紛うばかりに美しい。
「戦争だ――ウルドを獲る」
ゲートリンゲンが、皇帝の言葉を引き継いだ。彼は一枚の書類を手にしたまま、事務的な口調で言う。
「は?」
イゾルデは眉を顰めた。当然だ。そんなことをすれば、外交問題となる。
確かにウルド公国は帝国側に付いたカラード公国と、紛争が絶えない。だがそれは両国の問題であって、ことさら介入すべき問題ではない、というのが軍部の基本的な考えだ。
そもそも去年、十万の兵を動員し、大敗を喫したばかりである。加えてミリタリアの内乱も泥沼状態、あまつさえ帝国各地に反乱の芽が出始めている今、他国を攻めている場合か――とイゾルデは言いたかった。
まさに己の首を絞めるがごとき、愚行である。
「トラキスタンとの盟約は、いかになりましょうや?」
「ん?」
書類に落としていた目を、ゆらりと持ち上げたゲートリンゲンが、イゾルデを見た。
「ま――出てくるであろうな。だが、それを打ち払うのが将たる者の務めではないのか?」
「フハハハハハハッ! よくぞ申した、ゲートリンゲン! それこそ、帝国元帥の鏡というものッ! さすが、余の弟になるだけのことはあるなッ!」
大きな机をバンバンと叩き、皇帝が笑う。ブルクハルトの目は、赤く濁っていた。酒に酔っているのだ。
イラペトラ帝の偉業を、かくも容易く失って行く。
将として仕えた数年が、虚しく瓦解してゆく様をイゾルデは感じていた。
「といっても、貴様は副将だ。主将はリュッセドルフとする」
ゲートリンデンが、隣に立つ将の肩に軽く手を乗せる。
リュッセドルフは、ゲートリンゲンの知恵袋と云われていた。
イゾルデの伝え聞いた話では、ウィリス・ミラー敗北の絵図を描いた男だという。
確かにゲートリンゲンの才覚では、どうやってもウィリスを敗北させることなど出来ないはずだ。
そう思えば、イゾルデは不快感に奥歯を噛んだ。
リュッセドルフは三十代半ばの男で、薄くなった黒髪をオールバックで纏めている。
また、髭にこだわりがあるらしい。整えられた口髭は、どちらかといえば官吏のように見えた。
用兵は可もなく不可もなく――大軍を活かした包囲殲滅戦を得意としている。
もっとも、不利な状況では決して戦わない辺り、無能な将ではないのだろう。
イゾルデは後ろ手に組んだ拳を握りしめ、表情を消していた。
今すぐ、この男を殺してやりたい。
この男がいたから、補給を寄越さないという人道にも悖る行為が生まれたのだ。
あのとき――イゾルデも三万の将兵を率いていた。遠征中に食料が無くなる、という恐怖は、実際に味わった者しか分からない。
だからイゾルデは、「この男だけは絶対に許さない」と、心に誓っていた。
「用件は済んだ。下がってよいぞ」
皇帝が、黄金の杯を傾けながら言う。
イゾルデは顔を引き攣らせながらも、礼を失する事なく退出した。
◆◆
イゾルデが廊下を歩いていると、小間使いの少女に袖を惹かれた。
今日は珍しく、イゾルデは男装だ。濃紺の上衣に白いズボンを着用し、長い黒髪を背中で纏めている。
少女を振り返ったイゾルデは、「なにかな?」と優しく声を掛けた。
「皇妹殿下がお呼びです」
少女は小声で言うと、イゾルデに付いて来るよう促した。
不審に思いながらも、少女の後を歩くイゾルデだ。しばらく歩いて、中庭の外れにある四阿へ通された。
「よく来たわね、イゾルデ・ブルーム」
漆黒のドレスを身に着けた、絶世の美女。その圧倒的な存在感に気圧されながら、イゾルデは膝を折って挨拶をする。
しかし彼女は、なぜ黒いドレスなのか。誰か皇族で最近、亡くなった者がいただろうか――とイゾルデは首を捻る。
「ご機嫌麗しゅうございます、ミシェル殿下」
ミシェルは紅茶を二つ用意するよう、侍女に命じてイゾルデを席に招く。
このようなことは、初めてであった。流石のイゾルデも戸惑い、動作がぎこちなくなる。
「お久しぶりね、イゾルデ」
「はて……?」
「恍けているのかしら、あなた」
ミシェルは両目を細め、苛立たし気に黄金の髪を掻き上げた。
「昔……ウィルとの買い物を邪魔したでしょう?」
「……覚えておいででしたか」
「ええ、もちろん。私、記憶力はよくってよ」
二人の間に紅茶のカップがおかれる。
ミシェルが先に口をつけ、「どうぞ」と掌を見せた。
毒は入っていないと、示しているのだろう。
「だから、あなたがウィルを殺すとは――思っていなかったわ」
「私がウィリスを……殺す?」
一瞬、イゾルデは何を言われているのか理解出来なかった。
だが、すぐにミシェルの黒い衣服とそれを結びつけ、彼女の意図をイゾルデは察する。
彼女は勘違いをさせられている。そして何より、ウィリスを裏切っていなかった。
「ゲートリンゲンに、そう言われたのですか?」
「……ええ、違うの?」
「違います。彼は生きています――もしかしてミシェルさまは、ウィリスの為に喪服を?」
ミシェル・ララフィ・サーリスヴォルトの蒼い瞳が、虚空に泳ぐ。それから、イゾルデに渡した紅茶を奪い、床に落とした。
零れた紅茶からは湯気が立ち上る。ゆっくりとそれは階へと至り、側にいた猫がペロリと舐めた。
猫はすぐに仰向けとなって、痙攣する。口から泡を吐いて動かなくなった。
「あなたがウィルを殺したのなら、今、ここで殺すつもりでした――話を、聞かせていただけます?」
眉一つ動かさず、ミシェルはイゾルデを睨み据えた。
彼女はイゾルデを殺そうとしたことなど、微塵も後悔していないのだろう。どころか、それは当然と言わんばかりの表情であった。
イゾルデは鼻白みながらも、ウィリスとの戦いをこと細かに説明する。
それをミシェルは、時に笑顔で、時に悲しそうに聞いていた。
「……ウィルは、私を恨んでいましたか?」
「恨むと言うより――死にたがっているように思えました。あなたがいなければ、彼にあるのは絶望だけでしょう」
「あなたの口からそれを聞けて、少しだけ嬉しく思います……けれど」
唇をキュッと噛み締め、椅子の上で上体を揺らしたミシェル。
ミシェルはさらに、自らの唇を強く噛んでいた。血が雫となって、白いテーブルに落ちる。
侍女が慌てた。
「――あのようにすれば、私を恨み、それを糧として生きると……」
「一体何を、なさったのです?」
「ウィルには……とても酷い事を……だけど極刑から彼を救うには――それしか手が無かった……私のことなど、忘れてくれればいいと思ったのに……!」
それだけ言って、ミシェルは惚けたように立ち上がった。
イゾルデは頭を抱え、「うーん」と唸る。
ウィリス・ミラーが追放刑で済んだ理由は、ミシェルの懇願によるものであった。
それをロウ・サム・ゲートリンゲンが利用し、彼女を妻にしようとしたのである。
牢においてウィリスを絶望の淵へ追い込んだのも、ミシェルなりに理由があった。
自分を恨めば、ウィリスは強く生きられると思ってのことである。
それで帝国を倒すなら、それでいいと考えていた。他に好きな人を作って、幸せになって欲しいとも願った。
けれど思いの外ウィリスの心は、弱かったのである。
だが、それがミシェルにはたまらなく嬉しい。
それと同時に、ゲートリンゲンとキスをした自分を絶対に許せなかった。
ミシェルが床で砕けたカップの破片を掴み、喉を刺す――刹那、イゾルデが動き、彼女の手首を掴む。
「――何をなさるッ!」
「放しなさいッ! 私はあなたを殺そうとした女ッ! 助けられる謂れなどないッ!」
イゾルデはミシェルの頬をひっぱたき、耳元に口を寄せる。
「殿下がウィリスを心から想うのなら、私が彼の下へ行く手伝いをしてもいいッ!」
「――ほんとうに?」
「本当です。お約束しましょう。このイゾルデ・ブルームが、必ずや殿下とウィリスを再び巡り会わせてみせると。ですから――死ぬのはおやめなさい」
ミシェルの動きが止まり、その瞳からハラハラと涙が零れた。
イゾルデは、自分で自分が信じられない。なぜ恋敵を助けると言うのか。
だが、少なくともミシェルは全てを捨てて、ウィリスの命を救おうとした。
そして今また、彼の為に躊躇いもなく死のうとしている。
翻って自分は、軍団の兵と彼の命を天秤に掛け、一度は捨てている。勝敗は明らかだったのだ。
グラニアを出て行こうと思っていたイゾルデは、邸に戻り決意を翻す。
「グラニアには愛想が尽きたが……あのお姫様なら助けてやらんこともない。同じ男に惚れてるしなぁ……仕方ないよなぁ……」と。
「結局のところ、閣下ってお人好しですよね? 殺されかけてますよね、ミシェル殿下に?」
ジョセフが余計なことを言い、新たな痣を作ったのは言うまでもない事である。
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