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「ねえ、美空、大丈夫?」
彼女は何事もなかったかのように軽く微笑んで美空の手を引く。
「平気、それより、静かな場所へ行こう」
この廊下だって別にうるさいわけじゃない。どこかの教室で当りはばからず笑いあう女生徒たちの声も、どこかで大声で呼び合う男子生徒たちの声も、ここで聞けば細かな会話など失われて単なる音としてしか認識できない。すべてはがやがやと賑やかであっても意味のない、例えばBGMのようなものなのだから会話の邪魔にはならない。
それでも美空は、片手を振って何かを払いのけるようなしぐさを見せた。
「ああ、うるさい」
だから康子は、美空が疎ましがっているのは音ではなくて視線なのだと気づいた。確かに、遠慮がちに目を伏せたふりをしていながら、その実興味深そうにこちらをうかがう野次馬たちの視線はうざったい。
康子は自分の方から美空の手を引いて、最初のひと足を踏み出した。
「行こう、わたし、誰も来ない場所、知ってる!」
ふたり、廊下を駆け抜けて……驚いて道を開ける生徒たちの夏シャツは白くて、走る康子たちのために光が道を拓くみたいだった。途中で「廊下は走るな!」と怒鳴る教師の声を聴いたような気がするが、それさえ一瞬のうちに飛び越して、二人は走った。
校庭を一気に走り抜けて、康子たちが飛び込んだのはプールの端にある女子更衣室だった。
弾む息を整えながら、康子が笑う。
「ね、この時間、ここは誰もいないの」
ザラリと無機質な打ちっぱなしのコンクリートでできた狭い部屋までは教師たちの声も追ってはこない。並んだロッカーはどれもきっちり扉を閉じて、ここには誰の視線もない。
プールから上がったばかりの瑞々しい女生徒たちが長く着替えのために使っていたここは、壁に染み込んだ微かな塩素の香りと、甘い汗のにおいに満ちている。
部屋の中央に置かれたそっけないベンチに美空を座らせて、康子はその隣に自分も腰を下ろした。
「どう、ここなら静かでしょ?」
問えば美空は声もなく頷く。そのしおらしい姿に、康子は「おや」と思った。
ちょうどこの更衣室の外側にとまっているのだろうか、鳴きだしたセミの声がコンクリート越しにじわじわと染み込んで響く。ついに外からの音は完全にふさがれ、この狭い女子更衣室は静寂に似た蝉鳴の中に取り残された。
世界中で、ここだけが、二人きり……。
美空はさっきの威勢もどこへやら、寂しそうに肩を落としてうつむいている。その唇が小さく動いて言葉をこぼした。
「髪の毛の色なんか変えたって……」
セミの声がうるさくて、康子はそのあとの言葉を拾いそこなう。
「え?」
聞き返せば、美空は顔をあげた。その目の端はこらえた涙でわずかにうるんでいた。
「髪の色なんか変えたって、周りは何も変わっちゃくれないじゃない」
これが美空の本心だろうと、康子はすぐに気付いた。
美空は破天荒ではあるが、何にでも反発するほど思慮の浅い性格ではない。きっと、もっと幼く無邪気な頃に周りの言うことを素直に信じて、髪を黒く染めたこともあったに違いないと。
実際に、美空は小学校の頃に一度、髪を染めたことがある。「黒い髪にしたら、みんなと同じに見えるでしょう?」という女教師の言葉を素直に信じたのだ。しかし表面だけ黒く取り繕っても地の色は明るい金、生え際に残るその色まで隠すことはできなかったのだ。
「お前の髪、変なの、逆プリンじゃん」
意地悪な男子の一言がきっかけで、美空はそれから小学校を卒業するまで『逆プリン』と呼ばれて過ごした。だから、髪の色を変えたところで黒髪の群れに紛れ込めるわけではないことを、身をもって知っているのだ。
美空の細い方が涙に震えた。目の端に大きく膨らんだ涙の粒は、ついに踏みとどまることをあきらめて床にこぼれる。
「髪の色なんか……」
嗚咽交じりの声に驚いて、康子は美空の肩を抱き寄せた。
「美空……」
ここで「泣かないで」と言うのは残酷だろうか――心のいちばん弱い場所をさらけ出して泣いている相手にかける言葉など、若い康子は持ち合わせてはいない。せめてもの慰めにと、美空をさらに深く抱き寄せる。肩に回していた腕は彼女の後頭部へ、まるで小さな愛玩動物を抱くときのように柔らかく力を込めて美空の頭を自分の胸の中に抱きこむ。壁に染み込んだ微かな塩素の匂いと……美空の甘い体臭がふわりと香った。
康子に頭を抱かせたままで、美空がつぶやく。
「ねえ、ヤスコは黒い髪の私と、金色の髪の私、どっちが好き?」
言われて康子は、自分の腕の中を見た。
小さな明り取り窓のすりガラスを通した光は儚く彼女の髪を照らしている。少し乱れた毛先の一本一本までが明るい太陽の色に輝いて美しい。
「私は……」
まるで太陽のかけらを抱きしめているようなこの感覚が好きだ、と康子は思う。美空の体温はわずかに康子よりも高くて、その熱が腕から胸までをじんわり温めてくれるのも、まるで陽だまりに射す優しい太陽を思わせる。
だが、自分の嗜好を彼女に押し付けることを、康子は良しとは思わなかった。だから答えは慎重に。
「私は、美空が好きな美空が好き」
この言葉に、美空が顔をあげた。
胸元から自分を見上げる彼女の表情は不思議そうで、きっと言葉の意味をうまく拾えなかったのだろう。康子は大慌てで彼女の体を手放し、大げさな身振りを交えて説明する。
「だからね、髪の色がどうとかじゃなくて、美空が自分を好きだって誇っている姿が好き、だから、髪なんて、美空の好きな色にすればいいと思うって、そういうことなの」
言葉足らずを埋めようと、しどろもどろになりながらではあったが、それが康子の本心のすべてであった。
美空は笑顔でその言葉を受け止めた。
「ふふっ、なにそれ」
彼女の頬はまだ涙に湿っていたが、目には陽光のような明るさが戻っていた。
「ヤスコってば、キザね」
声の調子はすっかりいつもの美空だったが、彼女が抱える孤独の一端を知った今、康子にはそれがどうしても今まで通りの声には聞こえなかった。彼女の軽口は、あまりにも空々しい。
それでも美空はニコニコと笑って、涙を拭いた。
「あはは、こんなことで泣くなんて、私、バカみたい」
この軽い物言いにイラついて、康子は美空をしかりつける。
「バカじゃない!」
驚きに美空の眼は見開かれ、涙は完全に止まった。
康子は美空の両肩をつかんで、その表情をまっすぐにのぞき込む。そして唸るような声でひとこと。
「美空は、バカなんかじゃないよ」
美空が、今度こそ心の底から、にっこりと笑った。康子の意識がぐらりと揺れる。塩素の香りにまぎれて匂う甘い汗の香りは、部屋が放つあまたの女生徒たちの残り香なのか、それとも、目の前にいる太陽のような少女から立ち上るものなのか。
康子は美空の髪にともった太陽を吸い込むかのように、そっと顔を近づけた。その香りは、案の定、甘かった。