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例えば、美空は登校してもすぐには教室に向かわない。校門の前に立ち、康子が来るのを待つ。
二人はクラスが別なのだから、そんなことをしたところで、一緒に居られるのは始業前のほんの十数分……それでも美空は健気にも康子を待つのだ。
少し遅れて自転車で登校した康子は、それを心得ているから校門前で速度を落とす。そして美空の姿を探すのだ。
雨の日ならば傘をさして、晴れの日ならば校門にもたれて、美空は待っている。遠目に見ると、まるで飼い主を待つ子犬のようだ。
なぜに子犬なのか……康子が来ることを知っている、必ず自分に声をかけてくれることを信じているからこそ、呑気につま先で地面などかき散らしてさりげない。しかし、たったいまの瞬間、そこに一人で身を置いている切なさに顔を俯けて、細い肩がどこか心細く見えるのだ。
だから康子は、何よりも真っ先に美空のそばに自転車を止めて声をかける。
「おはよう」
そんなたわいもない挨拶に顔を上げる美空の表情はいつだって、キラキラと輝いて見えるほどの喜びに満たされた笑顔であった。
「おはよう! 今日は朝練は?」
いつだって1日の始まりは、こんな風にありきたりで……その後も一日中、休み時間のたびごとにお互いの教室を行ったり来たりして、二人は時間を共有した。
だからといって、ほかの女子グループのように四六時中キャイキャイと身のない会話をしていたわけではない。康子は本来が口数の多い方ではなかったし、美空も暇があればスケッチブックに何か描き込んでいるような性質だったのだから、一言も口をきかず、ただそばにいるだけの時もあった。
特に美空は、康子の姿をスケッチすることを好んだ。自分の前に康子を座らせ、その輪郭を太い鉛筆でスケッチブックに描きこんでゆくのだ。時には自分の望む通りのポーズを康子に指示したりもする。
「ほら、ヤスコ、きょろきょろしちゃダメ。もっと胸を張って」
「え、こう?」
「そうそう、そのポーズ、すごくかっこいい」
そう言ったっきり、あとはスケッチブックにすいすいと鉛筆を走らせるのだ。しかし、まったくの無言というわけでもなく、ヤスコが何かを話しかければスケッチの合間に答えを返してくれる。
「ねえ、絵を描くのって楽しい?」
ヤスコがふと聞いたのは他意あってのことではない、美空がいつでもスケッチブックを開いているから、彼女にとって絵を描くことがどれほど楽しいのかを聞いてみたくなったのだ。
これを聞いた美空はスケッチの手を止めて、じっと康子の顔を見た。
「楽しいこともあるけど、辛い時の方が多いかな」
「えっ」
「じゃあ逆に聞くけど、ヤスコは泳ぐの、楽しい?」
「楽しい……」
既定の距離を一気に泳ぎ切り、誰よりも早くゴールに飛び込む瞬間の喜びと嬉しさは、ほかに比べるモノなどないほどに『楽しい』。しかしそこに至るまでの練習のすべてが楽しいかと言われれば、そうではないのだ。
タイムが思ったように伸びなければ悔しいし、悲しい。あと少しでゴールというところまでたどり着きながらほかの誰かに抜かされれば、それははらわたを吐き出したくなるほど熱い怒りに似た感情も沸くし、何より……。
「ううん、苦しい時の方が多いかも」
何年、何十年水の中に入ろうとも、人間は魚にはなれない。息継ぎがいくらうまくなろうとも水中からえらで呼吸を盗むような体の構造にはなれないのだし、泳ぐこと自体が苦しみの連続である。
「でも、ああ……」
肺を膨らませて水中に潜ったときの、体のまんべんなくを水圧が軽く押してくる感覚は確かに苦しい。両手で水を掻きあげて水面に顔をあげても呼吸はほんの一瞬、軽く肺に飲み込む程度のわずかな空気をとらえるので精いっぱいだ。そのわずかな空気を頼りに両腕を掻き上げ、無様に足をばたつかせてゴールに向かう人間という生き物は、どれほどに醜いことだろうか。
そもそもが、人間は泳ぐに適さない生き物なのである。
そんな康子の気持ちを見透かしたように、美空は小さく口を開けて真珠のような前歯を見せた。
「苦しいし、辛いけれど、でも、一枚の絵を描き上げるのは楽しいし……だから描いているのかな」
その言葉の後に、彼女は加えて。
「あなただってそうでしょう?」
教室の窓の向こうは、晴れ晴れとした青空だった。そこにまぶしいくらいに明るい真昼の太陽が窓ガラス越しにじりじりと照りさしている。
美空の金髪はその光の中で白っぽく光って、キラキラと、キラキラと……相変わらず太陽のかけらのように輝いていた。そう、康子にとって美空は、まるで太陽のような存在だったのだ。
だから康子は、美空が抱えている『孤独』に気づかなかった。いや、気づいてはいても認めたくなかっただけなのかもしれない……。