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水から上がったときに特有のだるさで、体がどんよりと重い。それでも康子は、必死に足を動かして彼女の後を追う。体の憂鬱さとは対照的に、空は東から西まで見渡しても雲ひとつ見つからないほどのブルー……疑うこともないほどに晴れ晴れと広がっている。
まるで空を泳いでいるみたいだ、と康子は思った。
真夏に似た熱い日差しの中にしずくを振りまけながら校庭を走り抜ければ、部活の準備中だった生徒たちが驚いて声をあげる。それがまるでプールサイドから聞こえる歓声のようにも聞こえた。
悩んでいる暇なんかない――ゴールは目の前を走る太陽のかけらみたいな彼女の背中、足を止めたら二度と追い付けない逃げるゴール。
康子は少し大きく息を吸って、体を軽く前に倒した。そのまま、少しでも早く、少しでも遠く――。
転がるように下足箱に転がり込む。聞こえたのは通りかかった教師の声。
「こら、お前ら、何て格好してるんだ!」
彼女がそれに言い返す。
「ごめん、先生、お説教なら後で聞くから!」
黄金の髪が揺れて一瞬だけ覗いた彼女の表情は、本当に心の底から楽しそうに笑っていた。
「早く、こっちこっち!」
せかされて再び走り出した康子は、背後で教師が何かを叫んでいるのを聞いた。だが、それも遠くに聞こえる歓声の一つに過ぎない。ただただ、目の前を走る彼女を追って。
康子は気づいていただろうか、自分が笑っていることに。
二人、転がるように駆け込んだ先は、美術室だった。
「ねえ、これ、絶対に後で怒られるってば!」
康子は弾む呼吸を整えながら怒鳴るが、その声も笑いに彩られてどこか楽しそうだ。
彼女の方はそんな康子に向かって、軽く肩をすくめてみせただけだった。
「そうかもね、だって、掃除が大変だもの」
彼女のスカートはたっぷりと水を含んでぽたりぽたりとしずくを垂らしている。その足元には当然大きな水たまりができていて、確かに掃除が大変そうだ。もちろん康子の方も、ジャージが吸いきれなかった水が水滴となって床に垂れている。
「ど、どうしよう……モップ借りてきた方がいいかな」
うろたえる康子とは対照的に、彼女は少しも揺らぎなかった。
「ほっときなさいよ、そのうち乾くって」
「でも……」
「それより、これ、見てよ、これ!」
彼女に手を引かれて、康子は一枚のキャンバスの前に立った。それは康子の背丈ほどのある大きなものだった。
「あ」
思わず声がこぼれる。そこに描かれていた一人の少女に、とても見覚えがあったからだ。
それは水着を着た少女の立ち絵だった。胸は膨らみすらなく、ひょろりと背ばかりが高い貧相な体を臆することなくピンと立てて、何かをにらみつけている――おそらく描きこまれていないだけで、これから自分が向かうプールの水面を見つめているのだろう。
「これ……私?」
戸惑う康子に微笑みかけて、彼女は静かにつぶやいた。
「いい絵でしょ?」
「うん、すごく良い絵だけど……でも、私はこんなにきれいじゃない」
「そうね、最近のあなたは、こんなにきれいじゃないかも」
そう言いながら窓辺に歩み寄った彼女の型の向こう、窓越しに康子がいつも泳ぐプールが見えた。
「去年、ここで初めて見たあなたは、確かにこの絵みたいにきれいだったの」
「あの頃は……胸が小さいのとか、気にならなかったから……」
最近の康子は、自分の体形を気にして背中を丸めがちだ。薄い胸も、くびれの乏しい腰も、そしてそれを露わにしてしまう水着も、すべてが恥ずかしくてつい体を隠すようにうつむいてしまう。
「こんなふうに胸を張っていられたのなんて……」
なんだか、とても遠い昔のことのように思える。それほどに今の康子は悩み深い。
彼女は、立ち尽くす康子に向かって、実に気さくに声をかけた。
「で? 悩みは胸だけじゃないんでしょ?」
窓辺から差し込む陽光にきらめく髪をかき上げて、彼女が笑った。
「聞くよ、悩み。で、解決してあげちゃう。ね、話してみて?」
その笑顔は本物の太陽のように暖かくて、そして優しくい。康子は少し目を細めて、そのまぶしい笑顔をぼんやりと眺めて立ち尽くす。
これが康子と太陽のような少女――美空との短い夏の始まりだった。