11
ギラリとした欲熱が康子の体の奥底に生まれる。体は冷たい水に浸されているというのに、それは渇望に似て熱い。
(あのくちびるに触れたい)
美空の唇は生命を感じさせる紅色で、そこに水滴が絡んで一層に瑞々しい。例えていうならば小さくて甘い果実――それもたっぷりと蜜を含んでは事件ばかりに売れた、ちょうど食べごろの。
あの果実に唇を寄せて、その甘さを存分に味わいたいと、そう思い始めたら、もう止まらない。
康子は深く頷いた。
「わかった、五十メートルね」
「そう、ちゃんと本気で泳いでね」
「本気、ね」
ぺろりと唇を湿して……康子は水中でトントンといくつか足踏みをする。その一踏みごとにスウ、ハアと呼吸のリズムを整えて――これは康子流のコンセントレーションなのだ。
水に顔をつける前、こうして呼吸を舐めるように楽しむ瞬間が、康子はこの上なく好きだ。これから呼吸のままならない水中に身を投じるのだという緊張感に、ピリピリと身が震える。それがひどく心地よい。
「よしっ」
一声をあげて、康子はザブリと泳ぎだした。
大きく水を掻き、ぐんぐん、ぐんぐんと、ただ前進する。呼吸は水中で小さな泡となって砕け散り。康子の鼻孔にわずかにまとわりついて消えてゆく。失った呼吸を補うために、康子は息継ぎをした。時間はわずか一秒にも満たない、顔を水から上げた隙に空気の塊を大きく呑み下して、さらに泳ぐ。
(ああ、水の音がする)
水圧に鼓膜が押され、ボーンと唸るような耳鳴りが聞こえる。そして陸の音は、輪郭を失ったように恍けて遠い。
ただひたすらに水を掻いて、康子はプールの壁を目指した。タッチはほんの一瞬で、あとはぐっと体を丸めてターンを決める。その刹那、まぶしい太陽が水面越しに見えた。それは美空の髪色と同じ金色のきらめきを辺りにまき散らして、まぶしかった。
(美空……)
不埒なやり方で彼女のくちびるに触れたいという渇望感は消えている。それでも康子は、泳ぐことをやめない。むしろ一層に力を込めて、水を掻く。
ぐんと体が伸びきって、スピードが上がる。ゴールが近づくにつれて、ボワンとした耳鳴りの中に美空の彼女のはしゃいだ声が混じった。
「すごい! 速い!」
当たり前だ、康子はこの速さを手に入れるためにいろんなものを犠牲にしてきた。
康子が水泳を習い始めたのは小学校に上がる前――母親にスイミングスクールの体験入学会に連れて行かれたのがきっかけだった。もともと康子が水の好きな子だったから、母親はその『好き』を伸ばしてやろうとしたのだろう。
母の思惑通り、本格的に水泳を習い始めた康子はみるみるうちに頭角を現した。一年もするとスクール内の子供たちのためのお楽しみ会的な『大会』ではあるが優勝して、表彰台の一番てっぺんに立ったのだ。
思えばあの日から人生を水泳に捧げて……いったいどれほどの『普通の子供としての経験』を失ったことだろうか。
小学校の頃も、友達が日曜朝のアニメを楽しんでいる時間に、康子は水泳教室のプールでひたすらに泳いでいた。そのころ一番仲の良かった友人が大のアニメ好きだったため、康子は友人を失くした。
勉強だって決して嫌いではない。だが、大会の日程によっては学校よりも水泳を優先することもあるのだから、トップをとるような成績ではなく、いつだって平均点どまり。
それでも水泳をやめようと思ったことが一度もないのは、水中をひたすら進む感覚が好きだから。ただ無心になる瞬間が、この上なく心地よいから――。
向こうに、ゴールとなる壁が見えた。フィニッシュを決めるべくラストスパートをかける。
(もっと速く、もっと!)
ここから先は呼吸も、そして余力も残しておく必要はない。すべてを出し尽くすかのように、ただがむしゃらにゴールを目指す。すべての邪念は消え、康子は、ただ一匹の魚であるかのように水圧を割いて泳いだ。体ごと飛び込むようにして壁に触れる。
プールの底を蹴ってざぶりと顔をあげれば、美空は陽光のように明るい金の髪を揺らして、プールに飛び込んでくる。
「すごい、康子、かっこいい!」
歓声をあげる美空を受け止めて、康子は笑った。
「そりゃあ、これだけが取り柄だもの」
「さて、勝者にはキスをあげなくちゃね」
なんの前置きもなく、美空は康子の唇にキスを落とす。それは女神が勝者に与える口づけなのだから、軽く唇が触れ合うだけのライトキスである。それでも、学校の更衣室で交わした恐る恐るのキスよりは深くて――甘い。
柔らかい唇の感触をもっと味わおうと、康子は美空に体を擦りつけた。両手を差し出して拙く美空を抱き、唇を彼女に差し出して。
刹那――美空が重ねた唇の中で囁いた。
「康子のエッチ」
するり、と……美空の腕が康子の腰骨を巻いて捉える。未発達で皮薄い腰骨を擦りつけあって、キスは深くなる。
そして康子は、生まれて初めて『欲情』というものを知った。