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 康子の初恋の相手は、女の子であった。

 これは特に珍しいことではなく、思春期にはありがちな一過性の性倒錯なのだと他人ひとは言う。少し心理学に詳しい友人などは『アニマの獲得』とかいう難しい言葉を使って、その感情が若さゆえの幻想であったことを説明してくれようとする。

 そうした煩わしいやり取りが嫌で、いつしか康子は、この大切な思い出を胸の奥深くに隠して他人に語ることをしなくなった。

 例えばそれは、確かに世間が言うように、思春期の少女にありがちな幻惑に見えるだろう。つまり、恋を知らぬがゆえに憧れと初恋を取り違えた、滑稽な勘違いに。

 しかし、康子はいまでも、あれが本当の恋だったのだと信じている……。



 当時、康子は中学二年生だった。

 本格的に進路指導が始まり、具体的な形をもって目前に迫り始めた『未来』への悩みを抱えていた時期である。

 康子の進路に対する悩みは、ほかの生徒とは少しだけ違っていた。水泳部に所属している康子は、選手としての実力もそこそこにあり、スポーツ推薦という選択肢が用意されていたのだ。顧問が言うにはすでにいくつかの高校からは打診があり、今夏の大会の成績次第ではさらに多くの学校から声がかかるだろうと。しかし、このままスポーツ推薦という特殊枠に甘んじていいのだろうかと、それを康子は悩んでいた。

 なにしろ康子は、水泳以外の楽しみを何も知らない。だからクラスの中でも少し異質な、『浮いた存在』として扱われがちなのだ。

 いじめられているわけではない。クラスメイト達は誰もが親切で、時には自分たちの仲間の輪の中に康子を入れてくれようとすることもある。しかし、そうしたクラスメイト達が話題にするドラマや歌番組が放送されている時間、康子は近所のスイミングスクールで大人たちに交じって泳いでいるのだから、話題についていけず取り残されてしまう。

 それに容姿も――同世代の子たちはみんな色白なのに、康子はいつでも日に焼けた肌の色をしている。体形だって、上背ばかりがひょろひょろと高いのに痩せっぽっちで、体のどこにも女性らしいところがない。同世代の子の中にはすでにふっくらと女性らしい肉がついたこも多く、みんなおしゃれを楽しんでいるというのに――小学生男子がそのまま大きくなったような自分の容姿を、康子はひそかに恥じていた。

 だから、薄っぺらで痩せっぽっちな体の線があらわになる水着を着るのが、最近は少しだけ苦痛である。こんな気持ちのまま水泳を続けていくくらいならば、すっぱりと引退して普通の勉強して、普通の高校に行き、普通の学生生活を送るという道もあるのではないかと……これが今、康子が抱えている悩みである。

 それでも康子は、泳ぐことが好きだ。授業が終われば真っ先に教室を飛び出し、プールに向かう。

 その年は空梅雨で、六月の半ばにはすでに、汗ばむほどの日差しさす夏日が訪れていた。これは水泳部員である康子にとってはうれしいことだ。先週清掃したばかりの青いプールには透き通った水が満たされて、その水面は撫で通る風が起こすさざ波の間に強い日差しを砕いてチラチラとまぶしく輝いていた。プールサイドは安っぽい白いコンクリートで固められていて、まだ誰もいない。

 本当は安全のために一人で水に入るのは禁じられているのだけれど……太陽に焼かれたコンクリートは足裏に熱く、頭上から降り注ぐ高い太陽は目が眩むほどまぶしかった。そんな暑さの中、冷たい水をたっぷりとたたえたプールの魅力は抗いがたく、康子は助走をつけて水面へと跳ぶ。大きな水しぶきが上がり、康子はプールの底すれすれまで沈んだ。

(冷たい……)

 日差しに暖められた体に水の冷たさが染み込む、その感覚が心地よい。

 水底から見上げると、青い青い、どこまでも抜けるような空のほうが深い水底に沈んでいるような錯覚を起こす。

 康子はプールの底を蹴って水面に上がり、一番遠い岸めがけて泳ぎ始めた。

 少しでも先へ、少しでも早くと、ただそれだけに意識を向けて水を掻く。この瞬間が、康子は好きだ――好きでなければ、ここまで水泳を続けているわけがない。

 体ごと飛び込むようにプールの壁に突き進み、その勢いを借りて水面より高くに飛び上がる。その時、視界の隅に『太陽』が飛び込んで、驚きに身がすくむ。

 水の中に突っ立ったまま、康子はプールサイドを見上げる。太陽だと思ったそれは、光を受けてキラキラと輝く金髪だった。


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