測る人
短編小説です。
読みやすくさらっと読めると思いますので、気になった方は読んでみて下さい。
*水槽
雲梯の幅一二五センチ。ジャングルジムの高さ二四◯センチ。砂場の面積は六二五平方センチメートル。
校庭では、直径二一センチのドッヂボールが、あっちに行ったりこっちに来たりを繰り返している。僕はそれらを教室の窓からただ見ていた。
僕は「もの」を見ただけで、その長さや面積、もっと言えば体積なんかもわかる。さすがに質量なんかまではわからないけれど、それらは見ただけで、なんとなく頭の中に思い浮かぶ。
なんでかはわからないけれど、気がついた時には僕の頭はそうなっていた。それから他人よりもほんの少しだけ体の弱い僕は、病院の先生から激しい運動を止められている。
ドッヂボールくらいなら大丈夫だって先生は言ってたけれど、元々運動嫌いな僕は、せっかく貰った権利なのだからとそれを目一杯利用していた。
「田山君。昼休みなんだし、みんなと一緒に校庭で遊んで来たらどうかな」
急にかけられた声にびっくりして僕は振り向く。そこには担任の紗和先生がいた。紗和というのは苗字じゃない。先生の苗字は間宮って言うんだけれど、みんな下の名前で呼んでる。なんで下の名前で呼んでいるのか理由は忘れたけれど、面倒臭いから僕もそれに倣ってる。
「先生。僕今日体調良くないんです」
「そう。昨日もそう言ってたけど?」
「今週はずっと体調悪そうです。それに病院の先生から運動はするなって止められてるし」
紗和先生は僕の目をたっぷり十秒くらいは見つめてから、「そう。わかった」って言って教室を出て行った。
顔が火照って熱い。紗和先生は目がおっきくて、髪が黒くて綺麗で、いわゆる美人ってやつだ。だけど紗和先生に見つめられたから顔が火照ったんじゃない。僕からして見れば、顔なんて数字の寄せ集めでしかないし、他人と見つめ合うなんてことはそうないから、誰が相手だって顔くらい赤くなるというものだ。
それに生徒のみんなからは人気があるけれど、僕は紗和先生がちょっと苦手だ。妙に鋭いというか、たまに心の中が見えてるんじゃないかってくらい、どきっとすることを言う。
前にこんなことがあった。うちのクラスでは金魚を飼っていたんだけれど、半年くらい前の冬ごろに、その金魚の水槽がいたずらされて全滅したことがあった。その時目撃者はいなかった。僕を除いては。
その日僕は、放課後の校庭の端っこからぼんやりと校庭を眺めていた。いたずらがばれて紗和先生に呼び出された、幼馴染でクラスメイトの俊ちゃんを待っていたんだ。
校庭の真ん中では、スポーツ少年団の子達がサッカーのミニゲームをやっていた。始めはボールやその子達をなんとなく測っていたんだけれど、そのうち学校のシンボルマークでもある、トンガリ屋根の時計塔の高さがどうしても気になり始めて、それを測り始めていたところだった。
僕の教室は時計塔のすぐ隣にあるから、自然と教室も視界に入ってくる。その時教室は明かりもついていなかったし、辺りも暗くなってきていたから、中は真っ暗だった。でもその時、真っ暗な教室の中で何かが動いた気がして、僕は教室に視線を移した。
僕は体が丈夫じゃない代わりに、かどうかは知らないけれど、目だけは良い。視力検査ではいつも二・◯だ。でも、実際にはもっとあったんじゃないかな。
教室の中では、確かに誰かが動いていて、窓際で何かをゴソゴソやっていた。暗くて顔はわからなかったけれど、測った身長からその子がクラスでも特に目立たない、山田君だってのがわかった。まあ、目立たない勝負なら僕も負けていないんだけれど。
教室を出たのは僕が最後だった。だから山田君は忘れ物でもしたのかなくらいに僕は思ってた。実際山田君の席は窓際だったし、ちょっとした忘れ物なら明かりがなくても大丈夫だ。
そんなことを考えながらぼんやりと教室を眺めていると、遠くから俊ちゃんの声が聞こえてきた。だから僕はそのまま俊ちゃんと一緒に学校を出た。時計塔の針は五時半を回っていた。
翌日教室に入ると何やら人集りができていて、教室全体がざわついていた。僕は他人と関わるのが嫌いだ。だから人集りに近づかなかったし、声もかけなかった。
「ちょっと田山君!」
僕はその時、鞄からその日使う教科書を机の中に移しているところだった。急に名前を呼ばれて、算数の教科書を床に落としてしまった。教科書を拾い上げると、面積を求める公式のページが折れ曲がっていた。
教科書に落としていた視線を上げると、そこにはクラスで一番身長が高くて、最強の力を持つと呼び声の高い、通称「メスゴリライモ」と男子の間で呼ばれている大村さんという女子がいた。ちなみに僕は、そのあだ名で大村さんを呼んだことはない。
「何? 大村さん」
大村さんがさっき僕を呼んだ声は、あきらかに敵意のこもったものだったけれど、僕は大村さんの怒りを買うことをした覚えはない。
「何? じゃないでしょ。あんたでしょあれやったの」
大村さんは教室の窓際を指した。窓からは、朝の陽光が眩しく差し込んでいて、目が慣れるのに少しだけ時間がかかる。
「なんとか言ったらどうなのよ」
大村さんがヒステリックな声を上げた頃、ようやく目が慣れた僕は、大村さんが何を言っているのかがわかった。
太陽の光を一際大きく反射させて、周りに歪でうすぼやけた光の円を投げかけているそれの中には、時折光を拒むような鈍い塊が、いくつも浮かんでいた。
それは死の雰囲気にあてられて少し淀んだ水槽だった。昨日見た時の活気はどこにもない。水の中には多くの死と、僅かな苔などの生があるだけだ。
僕は水槽に近づく。それによって僕の体にも薄ぼやけた光の円がぶつかる。僕にぶつかった円の直径は十五センチ。でも、水槽に近づくにつれて円の大きさは縮こまり、水槽を覗き込む時には、直径は八ミリになっていた。
水槽の中では、いつも人が近づくと餌がもらえると勘違いした金魚が暴れることもなかったし、規則正しく下から上へと昇り続けていたポンプの泡もなかった。ほんのりと、水槽の生臭さが鼻をつく。
山田君がこれをやったんだってことはすぐにわかった。山田君の忘れ物は、水槽のポンプを止めることだったんだ。でも僕は少し不思議に思った。ポンプを止めて一晩経ったくらいで、そんなに簡単に生き物が死んでしまうだろうか。もう一度水槽の周りを観察する。
おや? これはなんだろうか。一辺が◯・五ミリの角張った白い粒々。白い粒々はよく見なければわからないけれど、水槽の蓋や水槽のすぐ下などにいっぱい散らばっていた。
「ちょっと、田山君!」
大村さんの声が聞こえたのと、その泣声が聞こえ始めたのは、ほぼ同じタイミングだった。泣き声は人集りの中心から聞こえてくる。
僕が振り向くと人集りが割れて、泣き声の主が顔をのぞかせる。それは飼育委員の園山さんだった。園山さんはいつも物静かで、目の前でいきり立っている大村さんとは正反対の、ザッ女子っていう感じの女の子だ。顔の数字のバランスや、身長なんかのバランスもいい。よって男子達からの覚えもいい。僕が知っているだけでも、園山さんのことを好きな男子は、このクラスに三人はいる。
そう言えば、金魚を殺した山田君もその中の一人だ。ならなぜ山田君は好きな子が悲しむようなことをしたのだろう。もし気を惹きたいのが理由だとしたら、これはやり過ぎだ。
園山さんの泣き声を聞いて、大村さんだけではなく、人集りも僕に非難の声と視線を投げつけ始めた。
「僕がやったんじゃないよ」
言いながら僕は、目だけで山田君を探した。でも山田君はいなかった。
「じゃあ誰がやったって言うのよ。昨日最後に教室を出たのは田山君だっての知ってるんだからね。ねっ? 酒井君」
大村さんはそう言って、人集りの中にいた男子を振り返った。酒井君は、アメリカ人みたいに首を少しかしげて肩をすくめた。
アメリカ人がやると少しも嫌味じゃないのに、酒井君がそのジェスチャーをすると、喉の奥に毛虫を放り込まれたみたいなむず痒さと吐き気を感じる。もちろん僕は毛虫なんて詰め込まれたことはないけれど、要するにそれくらい胸が悪いってことだ。
「確かに僕が教室を出たのは最後だったけれど、でも、これをやったのは僕じゃない。それに……」
僕は犯人の名前を言いかけてやめた。僕が犯人を特定できたのは、山田君の身長を測ることのできたこのヘンテコな目と頭があったからだ。それをこのクラスのみんなは知らないし、僕だって言うのはごめんだ。
「それになんだよ。言いかけてやめるなよ。園山さん泣いてんじゃん。言い訳する前にまず謝れよ」
自分の正義を誇張するような得意げな声。僕は酒井君と園山さんとの距離を測る。
二人の距離は二二センチ。僕の経験上人と人は、よっぽどのことがない限り三◯センチ以上は近づかない。例えばそれは喧嘩だったり、体育の授業でどうしてもひっつかなきゃいけなかったり、父さんや母さんみたいに相手に対して親愛な気持ちを抱いていたり。その時頭の中で、「チン」と電子レンジみたいな音が鳴った気がした。それに伴って、三だった数字が一つ増えて四になる。このクラスに園山さんを好いている男子は、三人から四人になった。
「間に合ったー!」
バタバタと廊下を走る音が聞こえたかと思ったら、教室内に素っ頓狂な声が響いた。俊ちゃんの声だ。俊ちゃんが来たということは、もうすぐ始業のベルが鳴るってことだ。
「あれ、幸雄何やってんの?」
俊ちゃんは人集りに近づいてくる。
「うわ、金魚死んでるじゃん! これ、誰がやったんだ?」
「田山君よ」
大村さんは、もうそのことは絶対なんだって感じの声で言うと、僕を睨んだ。
「嘘だろ。幸雄がこんなことするはずねえし」
「でも俺、昨日最後に田山が教室を出て来るところ見たんだ」
俊ちゃんの声に酒井君が応える。
「でも、幸雄にはアリバイがあるぜ。昨日俺、紗和先生に呼び出されてて、それを幸雄は校庭で待っててくれたんだ。だからやったのは幸雄じゃねえよ」
俊ちゃんの口からアリバイなんて言葉が出て来るとは思っていなかったから、僕は少し笑いそうになった。口元なんかは少し緩んでいたかも知れない。でも、みんな俊ちゃんと酒井君を見ていたから、僕が笑いそうになっていたことには気づかなかったみたいだ。
「そんなのアリバイでもなんでもねえよ。エアーポンプなんてコンセント抜いたら止まるし、三秒もあったら十分だろ」
エアーポンプ。さっき思い浮かんだ疑問が不意に湧き上がる。僕はよく家の玄関なんかで見かける、小さな金魚鉢を思い出した。金魚鉢にエアーポンプが付いているのなんて見たことがない。金魚鉢の金魚はどうやって酸素を取り入れているんだろうか。
金魚鉢の中にあるものはなんだろう。底に沈んだ玉砂利、ミニチュアの灯籠、水草、水、金魚。……そうか水草だ。理科の授業で習った内容には、植物は太陽の光を浴びて光合成を行なう。そして光合成を行った植物は酸素を吐き出す。とあった。酸素は水の中に溶け込んで、金魚はそれをエラから取り込む。
僕はもう一度水槽を見た。水槽の中には水草もあるし、ガラスの内側には苔だって生えている。水草も苔も植物だ。もしポンプが止まったとしても、一晩で水中の酸素がなくなるなんてことがあるだろうか。僕は金魚じゃないからわからないけれど、なんとなく酸素はなくならない気がする。
後ろでは、疑いの中心人物の僕を差し置いて、俊ちゃんと酒井君がやったのやっていないだのと、言い合いをしていた。
酸素はあると仮定して、次に金魚が死ぬ理由はなんだろう。金魚の死体は相変わらず水面に浮かんでいて、ぬらぬらと太陽の光を鈍く反射していた。
僕はさっき見つけた白い粒々に指の腹を押し付け、くっ付いたそれを間近で観察する。白い粒々は色々な形をしていて、すべてが均一な形をしているわけではなかった。
何かの結晶かな? 僕は鼻を近づけ匂いを嗅いでみる。でも水槽の生臭さが邪魔をして、よくわからない。水槽の蓋、水槽を置いてある台の上、よく見ると床にも少し散らばっている。山田君はこの白い粒々を水槽に入れたに違いない。じゃあこれは毒? そう考えて、小学生が簡単に毒物を手に入れられるはずはないと、自分で自分の考えを打ち消した。でも僕にこれを舐める勇気はない。
金魚はこの白い粒を食べて死んでしまったのだろうか。金魚をもう一度見ると、黒い出目金と目が合った。白く濁った膜が張った、もう二度と光ることのない直径八ミリの目玉。水の底からこちらをじっと見ている。狭く限られた世界の中で、自分がなんでこんな処にいるのかもわからないまま死んでしまった、黒くて小っちゃな出目金。——あれ? 僕は今なんで水の底からなんて思ったのだろう。今目の前にいる出目金は、水槽の表面にプカプカ浮かんでいるというのに。
思い出した。あれは三社祭の縁日で見た金魚すくいの出目金だ。あの時の出目金は、給食のソフト麺みたいな色をした水深十五センチの水槽の中で、水の底から僕のことを恨めしそうに見ていた。あの出目金はお腹を仰向けにして死んでいた。死んだ金魚は水の底に沈むんだ。もしかしたらこの白い粒々は。僕は恐る恐る白い粒々を舐めてみる。やっぱり。
水槽をもう一度よく観察してみる。水槽の底には、溶けきれなかった白い粒々が砂利の隙間に入り込むようにして沈んでいた。
でも問題は、山田君がどこでこれを手に入れたかだ。水槽の水は三三・七五リットル。これだけの水に溶けきれないほどの白い粒々を入れるとなると、それは相当の量だ。そんなものを持って登校したら、必ず目を引くはず。なら、学校にあるものを使うしかない。でも教室にそんなものはない。
僕は昨日の最後の授業を思い出した。そうか、山田君はあそこにあったのを使ったんだ。
「ねえ酒井君。本当に昨日教室を最後に出たのは僕だった?」
相変わらず言い争いをしていた俊ちゃんと酒井君は、急に僕が声を出したことに驚いたのか、びっくりしたようにこっちを向いた。
「間違いねえよ。俺が教室を出て二、三分後にお前が出て来るの見たんだ。電気も消えてたし、他に誰もいなかった」
酒井君は興奮しているのか、口調が少し荒っぽい。
「じゃあその後は見ていないんだよね。じゃあ僕以外の人がこの教室に戻って来たってことは考えられないかな?」
「いや、それはねえよ。俺、少年団でサッカークラブのキーパーやってんだ。俺が守ってるゴールからこの教室丸見えだけど、電気一回もつかなかったもんな」
僕が山田君を見たのは五時半ごろ。確かにあれだけ周りが暗くなっていたら、普通の人間では教室の中なんて見えないだろう。やっぱり校庭から山田君を見たことは言えないな。
「じゃあさ、金魚はなんで死んだのかわかる?」
僕の言葉を聞いて、シクシク泣いていた園山さんが、声を上げて机に突っ伏した。
「おい田山! お前なんてこと言うんだよ。園山さんが可哀想じゃねえか! お前がポンプ止めたからに決まってるだろ。お前は猟奇殺人者か!」
酒井君はどこで覚えたのかそんな言葉を使った。でも殺されたのは人じゃなくて金魚だ。だから猟奇殺人者じゃなくて正しくは猟奇殺魚者だ。というか僕は金魚なんか殺していない。殺したのは山田君だ。僕の中で山田君が、目立たないやつから猟奇殺魚者に成り下がる。
「違うよ。金魚が死んだのはポンプが止まったからじゃない。これのせいだよ」
僕はそう言って散らばった白い粒々を集めると、それを指の腹にくっ付けて酒井君の目の前に突き出した。僕の指と酒井君の目の間の距離は十五センチ。僕はどうやら酒井君に対して少しばかり怒っているらしい。
「なんだよこれ」
「塩だよ。金魚を殺した犯人は、水槽の中に大量の塩を入れたんだ。金魚は淡水魚だから、そんなことをしたら死んじゃうんだ」
「なんでそんなことがわかるんだよ」
酒井君は少し腰が引けていた。
「死んだ金魚は普通水に浮かばない。でもこの金魚は浮いてる。昨日習っただろ? 塩で浮力が増すって」
僕は昨日最後の授業でやった理科の実験を思い出していた。水を張ったビーカーの中で始め沈んでいた卵は、塩を加えていくことで発泡スチロールのように、プカプカと浮かび始めた。紗和先生が言うには、なんでも塩を入れると浮力ってのが増して、卵が浮くのだそうだ。
「プールより海の方が体が浮きやすいでしょ? それと同じ原理よ」
実験の終わりに言った紗和先生の言葉。僕はあんまり泳ぎが得意じゃないからわからないけれど、俊ちゃんは「なるほどー」と感心したように言っていた。
「そうかそれで金魚の死体が浮かんでんのか」
俊ちゃんが水槽に駆け寄りながら声を上げ、それにつられたように人集りにいた連中も水槽を囲む。
「本当だ、しょっぱいぞ」
俊ちゃんを見ると、白い粒々を舐めているところだった。もし毒だったら死んでいる。他のみんなも白い粒々を舐めては、口々に「本当だ塩だ」などと言っていた。
「だからなんなのよ。それが塩だったからなんだって言うのよ。結局田山君が入れたからそれが塩だって知ってるんじゃないの? そんなのなんの証拠にもならないわよ」
酒井君が出しゃばってきてから、ずっと黙っていた大村さんがここにきて急に声を上げる。その声にみんなが静まり返り、少ししてから「そうだそうだ」と僕をまた攻め始めた。僕は溜息をつくと水槽に向き直る。
「あのね、ここ見てもらえるかな? この砂利の所。ここに溶けきれなかった塩が溜まってるんだ」
大村さんを始め、そこにいたみんなが水槽を覗き込む。
「こんなにいっぱいの水なのに、塩が溶けきれていないんだよ。これって、この水槽の中にものすごい量の塩が入っているんだって、そう思わない? 少なくともちょっとポケットに忍ばせるってわけにはいかないくらい。もし僕がそんなものを持っていたら、誰だって気がつくと思うんだ。昨日僕が、そんなに大量の塩を持っていたのを見た人いるかな?」
大村さんも誰も口を開かないから、僕は続けた。
「昨日の最後の授業、さっきも言ったけど理科の実験だったよね。塩を使う実験。授業は理科室であったから、この教室に塩はない。だから帰りのホームルームの後、誰かが理科室の塩を持ってこの教室に戻って来たんだ」
僕はこっそり目の端で山田君を探した。山田君はまだ来ていないみたいだ。というよりなんで紗和先生は来ないんだろう。
「誰かって誰だよ。田山じゃねえのかよ。それに昨日この教室の電気は……」
「金魚を殺すのに電気なんかつけない」
僕は酒井君の言葉を遮った。
「それに僕は酒井君達がサッカーをしていたのをずっと校庭の隅っこで見ていたんだ。酒井君はキーパーで僕に背中を向けていたから気づかなかったかも知れないけれど、僕が校庭の隅っこにいたことを、誰かはきっと見ていたはずだよ。だから金魚を殺したのは僕じゃない」
少しイラついた僕の声にみんなは黙り込む。
「俺、田山が校庭にいたの見たかも。いや、見たよ。酒井が校舎から出て来てからすぐに田山は出て来た。それから俊が来るまでずっと校庭にいたよ」
遠慮がちに言ったのは、ちょっと遠巻きに見ていた片山君だった。片山君とはあんまり話したことはないから、味方してくれたのはちょっとびっくりしたけれど、嬉しかった。
「じゃあ、じゃあ結局誰が金魚を殺したのよ」
大村さんの声は、始めの怒りに満ちた声じゃなく、今は戸惑っているように聞こえた。
「知らないよそんなこと。とにかくこれで僕がやったんじゃないってこと、わかってくれた?」
僕はさっきからずっとイライラしていた。いつもならとっくに紗和先生が来て、ホームルームが始まってる時間なのに、今日に限ってはなぜかやたらと遅い。
僕の不機嫌な声に、みんなはまた黙り込んでしまった。もしかしたらみんなは僕のことを犯人呼ばわりしていたことを、今更ながらに後悔しているのかも知れない。園山さんもいつの間にか泣き止んでいて、みんなの中心でオロオロしていた。
「ごめんみんな。遅くなったね! 会議が長引いちゃって」
教室の扉が勢いよく開く音がして、紗和先生が息を切らせて飛び込んで来る。紗和先生が来たことで、みんなは静かに、そう本当に静かに席に戻って行った。そのことで紗和先生もおかしいと思ったのか、教室内をぐるりと見渡して、水槽を見た途端に眉間にシワを寄せた。紗和先生は目が良いのか、一目見ただけで水槽の状態がわかったみたいだ。紗和先生の表情は怒っているというよりも、悲しいものだった。
僕は紗和先生の視線を辿るふりをして、山田君の席を見る。今日山田君は休むのだろうか、そこは空席のままだった。ふと視線を感じて教室の前を見ると、紗和先生は僕の方をじっと見ていた。僕は思わず視線をそらしてしまい机の上を見た。机の上にはさっき拾った算数の教科書がそのままにあった。
「金魚。どうしたのかな?」
紗和先生は淋しそうな声で言った。でも、誰もそれに応えなかった。肌を刺すみたいに痛い沈黙が教室の中に満たされていく。皮膚がチリチリして、まるで風邪をひいた時みたいだ。
「先生。誰かが昨日金魚の水槽にいたずらしたみたいで、園山さんが朝来て餌をやろうとしたら、金魚が死んじゃってたみたいで……」
沈黙を破ったのは大村さんだった。
大村さんの声は、尻切れとんぼみたいに小さくなって消えた。その後、僕に申し訳なさそうな視線を送ってくる。大村さんは僕に許してと目で訴えていたけれど、このタイミングで僕を見たら、紗和先生は僕が犯人だと勘違いしてしまうじゃないか。そうでなくとも昔あんなことがあったのに……。
「そう。わかった」
紗和先生は水槽に近寄ると、そのまましばらく水槽を見下ろしてからまた、教卓に戻った。
「あの水槽にいた金魚の名前知ってるかな?」
僕には紗和先生が何を言いたいのかわからなかった。金魚の名前がわからないんじゃなく、なぜそんなことを急に言うのかがわからなかった。当然みんなもわからなかったに違いない。だから誰も口を開かなかった。
「水槽の中にいるのは、和金と出目金っていう種類なんだけど、三社祭の縁日なんかでもよく見るよね。この金魚達の先祖は、大昔に中国から渡って来たの。千五百年前に鮒が突然変異して生まれて、その五百年後に日本にやって来たのね。それから日本で繁殖して増えて、祭りの縁日やペットショップを経てこの教室に来たの……」
紗和先生は、突然金魚のルーツを話し始めた。なんでそんな話をし始めたのか、僕には全くわからなかった。こんな時普通先生という生き物は、やれ命を大切にしなさいだの、どんなに小さくても命は自分達のものと同じものなのよだの、小学一年生にだってわかるようなことを言う生き物のはずなのに、その時の紗和先生は只々ずっとそのことだけを話し続けた。
ホームルームの終わりを報せるチャイムが鳴って、本当なら一時限目が始まる時間になった頃、突然園山さんが泣きながら謝り始めた。そして紗和先生の話は終わった。なぜ園山さんが謝るんだろう。犯人を知っている僕からしたら、まるで意味がわからなかった。
「私、昨日の理科の実験の時、明日の金魚の世話面倒だなって言っちゃったの。いなくなったらいいなって言っちゃったの。そしたら、朝来たら金魚死んじゃってて……。でも、でも私、死んだらいいなんて言ってないし、殺してなんかいないよ」
その時僕の中で、今の今まであやふやだったもやもやが、まるで綿菓子の棒に絡まっていくみたいに一つの塊になっていくのがわかった。なんで園山さんのことを好きな山田君が、金魚を殺したのかその理由がわかった。その瞬間山田君は、猟奇殺魚者じゃなくて、憐れで可哀想なだけの存在になった。
「そうなのね。わかったわ園山さん。よく話してくれたね。あなたが悪くないとは言えないけれど、ちゃんと話してくれた勇気はすごいことなのよ。その気持ちと勇気を忘れては駄目よ。えっと、一時限目は国語の授業だったけれど自習にします」
今までの重い雰囲気なんかなかったみたいに俊ちゃんが「やったー!」と歓声を上げた。俊ちゃんにとって自習は遊びと同じ意味だ。
「狭川君。自習は遊びではないのよ。国語の教科書の四五ページから六◯ページまで読んで、それの感想文を書いて次の授業で提出してください。それから田山君。ちょっと先生と来てくれるかな?」
僕はその時第三者的に成り行きを見守っていた。だから急に名前を呼ばれても自分のことだとは思えず、ものすごく驚いた。そして大村さんを睨む。
大村さんは僕の目を見て、何かに気づいたような顔をすると、「先生! 田山君は違うんです」と慌てて声を上げた。
「いいから大村さんは座って自習を始めて。さあ田山君。行きましょう」
紗和先生は教室の入り口に立って、僕が席を立つのを待っている。僕はもう一度大村さんを睨むと、席を立った。その時僕は初めて大村さんに、「メスゴリライモめ」と心の中で罵った。
少しだけざわついている教室を出ると、紗和先生の歩く少し後ろを黙ってついて行く。僕は犯人にされてしまうのだろうか。先生なんて面倒事を避けて歩くだけのずるい大人だ。僕の話なんて聞いてくれないに違いない。どうしよう。親とか呼ばれるのかな。
そんなことを考えながら歩いていると、紗和先生は生徒指導室に入って行った。僕は紗和先生について部屋の扉をくぐる。部屋の中には職員室にあるような事務机と、それを挟むようにして、キャスター付きの椅子が向かい合わせに置いてあった。この部屋に入るのは始めてだ。
「座ってくれるかな。田山君はコーヒー飲める?」
質問の意味がわからず、いや言っていることはわかるのだけれど、学校では給食以外の飲食は禁止だ。だから僕は意味がわからずただ椅子に座って黙っていた。
紗和先生は黙っている僕を無視してコーヒーを二人分淹れ始める。部屋の中にインスタントコーヒーの匂いが充満する。
「砂糖とクリームここに置いておくから好きに入れてね。あっ、ここでコーヒー飲んだことはみんなに言っちゃ駄目よ」
紗和先生は僕の前と自分の前にコーヒーカップを置くと、砂糖を一つと粉末状のクリームをスプーンに二杯入れる。コーヒーカップとスプーンの触れる音がカチャカチャと部屋の中に鳴り響く。それから紗和先生は、黙ってコーヒーに口をつけた。
「どうしたの? コーヒー嫌い?」
ぼくは黙って首を振ると、砂糖とクリームを適当に入れてスプーンでかき混ぜる。それから慌てて口をつけて舌を火傷してしまった。なんでその時そんなことを思ったのかわからないのだけれど、このコーヒーを飲み終わったらここから出られるって気がしてた。
「そんなに慌てたらまだ熱いわよ」
紗和先生は笑っていた。胸が少し苦しい気がするのは、学校で飲んではいけないはずのコーヒーを飲んでいるからだろう。
「あの、僕金魚殺していないです」
紗和先生の目を見ながら、僕は消え入りそうな声で言った。どうせ言っても信じてもらえないと思ったからだ。
「わかってるわよ。田山君がやったんじゃないってことくらい」
思っても見なかった言葉に、僕は間抜けな声を上げた。でもその後紗和先生が言った言葉には、もっとびっくりした。
「田山君は殺していないけれど、誰がやったかは知っているわよね?」
「なんでそれを?」
しまったと思った。そしてその気持ちを顔に出してしまった。
「田山君は正直だなあ」
紗和先生はケラケラと笑って、コーヒーを一口啜る。僕は馬鹿にされた気がしてそっぽを向いた。
「でも、誰がやったかなんて言わなくてもいいからね。先生わかってるから」
また間抜けな声を僕は上げてしまった。
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
「女の勘よ。……って嘘。先生が水槽見てた時、田山君あれやった子の席見てたでしょ。教卓の前に立つとね、みんなが何を見てて何を考えているかなんて、先生にはすぐにわかっちゃうんだから」
僕には何も言えなかった。ただ胸がどきどきして苦しかったから、なんとかそれをごまかしたくて、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。コーヒーはびっくりするくらい甘くて、喉の奥がちりちりした。カップの底では、溶け残った砂糖が黄土色になって光ってた。少しだけ金魚の気持ちがわかった気がしたけど、多分それは勘違いだ。
その後僕は、なんのお咎めも注意も受けることはなく(何もしていないのだから当然なのだけれど)、取り留めもない話を少しだけして生徒指導室を後にした。結局僕はなんで呼ばれたんだろう。
山田君はそれから三日間学校に来なかった。でも始めから目立たないやつだったから、みんなはなんとも思わなかったみたいだ。金魚殺しの犯人探しも、園山さんが泣いたことでなんとなくうやむやになってしまった。死んだのがもし人間だったら躍起になって犯人を探すのに、金魚だとそうはならないのが、僕はなんか嫌だった。
それからあの塩の入れられた水槽はどうなったかというと、次の日俊ちゃんがどこかからかミドリガメを連れて来て、今はそのミドリガメの棲家になっている。飼育委員は相変わらず園山さんだ。
園山さんは始め、そのミドリガメのことを可愛くないとぼやいていた。だから今度はミドリガメのルーツを紗和先生にお願いしようと思ったけれど、少ししたら金魚の時より一生懸命世話をするようになったから、僕は少し様子を見ようと思った。
教室では、みんなが思い思いに朝のホームルームが始まるまでの時間を過ごしていた。プリントを丸めたボールで野球をしたり、友達と昨日のテレビの話をしたり、とにかくいつもと同じ朝だった。
僕は席に座って水槽を眺めていた山田君の後ろに立つ。山田君は僕が後ろに立っていることに気づいていない。机の上には算数のノートが置いてある。ミドリガメは日光浴でもしているのか、石の頂上に立って首を太陽の方に伸ばしていた。伸びたミドリガメの首は二八ミリ。
「ねえ。なんであんなことしたの?」
山田君はわかりやすいくらいに驚いて腰を浮かせた。その拍子に算数のノートが机から落ちた。落ちて開いたページには、僕の知らない公式が書かれている。山田君はノートを拾うと、伺うようにそっと僕の方を振り向く。山田君は、笑っているような泣きそうになっているような不思議な顔をした。山田君には僕が言った言葉の意味がわかっている。その顔を見てそう思った。教室は騒がしく、僕達の様子に気づいている子はいない。
「なんのこと?」
山田君は絞り出すように声を出した。僕と山田君との間の距離は、今十二センチ。
「もし次同じことしたら、僕が山田君のこと殺すから」
山田君の頭越しにミドリガメが見える。ミドリガメは太陽が眩しいのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。ミドリガメの目は直径三ミリ。
「それなんだよ。なんのことだよ」
消え入りそうな声の山田君を放って、僕は教室の扉に向かった。教室を出ると紗和先生がいて、「それが田山君の答えなんだね」って言ってた。僕はそれを聞いて、答えなんかなんにもないって思ったけれど、「体調悪いから保健室に行って来ます」って返した。廊下の端っこから俊ちゃんが走ってくるのが見える。教室までの距離は五八メートル。俊ちゃんは今日も遅刻だな。僕はそう思った。
*稼業
学級委員長の西田君が号令をかけて、みんなは紗和先生に深々とお辞儀をした後、一斉に校庭に駆け出した。
「みんなー。まっすぐ帰るんだよー。隣の小学校で変な事件があったからねー」
紗和先生の声なんか誰も聞いていない。なんて言ったって今日は金曜日。待ちに待った休み前だ。みんな明日の遊ぶ約束をして教室を出て行く。僕も本当なら今日と明日は俊ちゃんと遊ぶ予定だった。でも遊べない。金曜日は放課後から、土曜日は午後から塾なのだそうだ。だから明日遊べたとしても、午前中のわずかな時間だけだ。
十八番ミシンの革を叩きつける力強い音が、家の外にまで響いている。青森産と書かれた白菜の段ボール箱には、たった今縫い上がったばかりの甲革が、綺麗に重ねられて小さな山を作っている。
僕の家は靴を作る仕事だ。その仕事をたまにだけれど、僕も手伝う事がある。と言っても、大した仕事をするわけじゃない。僕のヘンテコな目と頭を使って、父さんの仕事にいちゃもんをつけるだけの仕事。
白菜の箱から縫い上がった甲革を摘み上げると、僕はその仕上がり具合を見ていく。父さんの調子は今日少し悪いみたいだ。縫い幅が◯・二ミリ深い。それにこれはミシンの調子だろうか、少しだけ糸のピッチが粗い。いつもならば一センチの間に五目入るはずのステッチが、今日は四・八目になっている。カジュアルな靴ならこれでいいかも知れないけれど、これはどう見てもエレガンスの靴だ。このステッチの乱れはちょっと目をつぶることはできないな。
「父さん。これなんだけど……」
「おう幸雄おかえり。今日は早かったな」
父さんの調子の悪い理由。それはすぐにわかった。父さんの左耳からは、黒くて細いケーブルが生えていて、縫製台の上には、赤ペンの入った新聞紙が広げられている。競馬だ。
「うん。俊ちゃん算数の成績が悪くて塾に入れられちゃったんだ。それより、ミシンのピッチ狂ってるよ。それからコンマ二ミリ深い」
「おっまじかあ……っちゃあ。でもまあなんとかいけんだろう」
そう言いながら父さんは、ミシンのピッチを調整し始めた。
なんとかいけるだろう。そりゃあいける。靴にしてしまえば、多少のミシンの狂いなんかお客さんにはわからない。「あらミシンのここ、コンマ二ミリ深いわね」なんてことを言うお客さんはいない。お客さんからして見れば、商品として店先に並んだ物が全てだ。だから、ステッチの粗さや狂いなんかは全部作り手のこだわりなんだ。そしてこのこだわりを教えたくれたのは父さんだ。
「僕、上で宿題してくるよ」
父さんはミシンの調整が終わったのか、もう次の甲革を縫い始めていて、僕の声に短かく応えた。
宿題を終えた僕は、部屋の窓を開ける。窓から見える景色の中に、下半分が欠けた東京スカイツリーが見える。完成するにはまだ後一年ほどかかるらしい。
あれが完成した時僕は、中学生になっている。先週から塾に入れられた俊ちゃんは、母さんから私立の中学に行けって言われているんだって言ってた。僕は間違いなく公立だ。スカイツリーが完成した頃、もしかしたら僕達はバラバラになっているのかも知れない。そうなったらあんまり遊べなくなるのかな。
「いてっ」
突然頭に何か硬い物が当たって、思わず僕は声を上げた。算数のプリントの上に転がっているその何かを摘み上げると、小さな石ころだった。石ころの体積は、六・三立方センチメートル。
「ごめん幸雄ー。窓開いてたー」
窓から顔を覗かせると、俊ちゃんが顔の前で手を合わせていた。危ないよって言いかけたけれど、少し考えてやめた。なぜなら、俊ちゃんと離れることを考えていたところに俊ちゃんが現れて、少し嬉しくなったからだ。
「塾はどうしたの?」
「教室ん中で暴れたら追い出された。それより遊びに行こうぜ幸雄」
僕は笑って「わかった」と応えた。
一階の作業場では、父さんがまだミシンを踏んでいた。縫い上がりの甲革を適当に摘まんでミシンの具合を調べる。父さんの「こだわり」は元に戻ったらしい。父さんを見ると、さっきまで耳から生えていた黒いケーブルはなく、縫製台の新聞もなくなっていた。
「父さん。俊ちゃんと遊んで来る」
「んあ? 俊は塾じゃないのか?」
「追い出されたんだって」
「あいつらしいな」
父さんはそう言うと笑った。僕は全然俊ちゃんらしくないって思ったけれど、それは言わずに「じゃあ行ってくるね」と言った。
「あんま遅くなるなよ」
僕は父さんに曖昧に返事をして、家を出た。
俊ちゃんが落とした小石は、隅田川の中に音もなく吸い込まれていく。大きな流れの前には、水飛沫一つだって上がらない。
川下の方から屋形船が上がって来るのが見える。桜の季節でもないのに客がいるのは、隅田川から未完成の東京スカイツリーを見るためだろう。完成していないものを見て面白いのかはわからない。
「塾さぼって平気なの?」
隅田川下流から、ゆっくりと上って来る屋形船を見ながら僕は言った。
「さぼったんじゃねえよ。追い出されたんだ」
俊ちゃんはまた小石を落とす。小石は風に煽られて、まっすぐには落ちていかない。
「母さんに怒られないの?」
「わかんね。多分怒られる」
俊ちゃんはこの話題に触れたくないみたいだ。なぜなら俊ちゃんの母さんはとても恐い。
「……なあ幸雄。それよりこっから水面までの距離って測れる?」
俊ちゃんは僕の目のことを知る数少ない人間の一人。病院の先生を除くと後知っているのは父さんと母さんだけだ。僕は言問橋の欄干から頭を乗り出して、川面を覗き込んだ。
絶え間なく流れ続ける川面をじっと見ていると、川が流れているのか自分が動いているのか、感覚があやふやになってくる。加えて水面には常に波が立っていて、いくつもの数字が僕の頭に現れては消える。形があやふやに変わり続けるものを測るのは眩暈がする。焦点をどこに合わせればいいのかわからない。
「ごめんわかんない。数字がコロコロ変わって読み取れないや」
「そっか幸雄でも読み取れないもんあんだな」
「読み取れないものばかりだよ」
僕はなんとなく東京スカイツリーを見た。ここからだとはっきり高さがわかる。今の高さは五七八メートルだ。
「例えば、……空気とか?」
「空気とか」
俊ちゃんが言った空気が、雰囲気だとかそういったものを指すのか、今僕達が吸い込んでいる大気を指すのかわからないけれど、僕はおうむ返しのように応えた。どちらにしろ僕には読み取れない。
そう言えば、なんで俊ちゃんは塾で暴れたりしたのだろう。俊ちゃんは理由もなく暴れたりはしない。小ちゃな頃から一緒にいた僕にはわかる。
「あのさ……」
「おい幸雄! あれなんだ?」
僕の声は、俊ちゃんの大声にかき消された。俊ちゃんを見ると、欄干からから腕を突き出して隅田川の端っこを指していた。そこにはガムテープでぐるぐる巻になった段ボール箱が、半分以上水の中に沈みながら流れていた。
「エロ本かな?」
俊ちゃんの声は好奇心と興奮で弾んでいた。そして僕が何かを言う前に、「拾いに行こうぜ」と言って駆け出してしまう。
「待ってよ俊ちゃん」
僕は俊ちゃんの背中に声をかけたけれど、俊ちゃんはあっという間に橋の脇のスロープを駆け下りて、隅田公園に入って行く。
俊ちゃんに追いつくと、どこから引っ張り出したのか長さ一三五センチの木の棒で、段ボール箱と岸の間をバシャバシャやっていた。
段ボール箱の向こうに、川面から生えた言問橋の橋脚が見える。ここからだと距離は測れる。水面から欄干までの距離は六・七メートルだ。
僕はふと視線を感じて後ろを振り返る。そこには、俊ちゃんの行動を迷惑そうな顔で見ている釣り糸を垂らしたおじさんがいた。よく見ると恐そうなおじさんだ。
僕は怒られないかヒヤヒヤしながら俊ちゃんに近づくと、棒と段ボール箱までの距離を測る。俊ちゃんの持つ棒では、あと三◯センチ足りない。俊ちゃんよりも少し身長の低い僕なら、三二センチ足りない。どちらにしろ段ボール箱を拾い上げることは無理そうだ。
「こら! 魚が逃げるだろう!」
おじさんの声にびっくりして、僕は背中の筋肉がつるんじゃないかと思うほど仰け反った。俊ちゃんに至っては、木の棒を川に落としてしまっていた。
「なんだよ。びっくりして落としたじゃんか」
俊ちゃんは恐そうなおじさんを見て、弱々しく避難の声を上げた。突然大人に怒鳴られて萎縮しない子供はいない。それに悪いのはどう考えても僕達の方だ。
「何をやっているんだまったく」
おじさんは折りたたみの椅子から腰を上げると、僕達の方へやって来る。身長は一七一センチ。僕と比べると、頭一個半も大きい。
俊ちゃんはあえて段ボール箱に目をやらずに「なんでもないよ」と応えた。「エロ本」かもと目を光らせていた俊ちゃんだ。大人にそんな心の中を見透かされるなんて小学六年生の僕達からしてみれば、死刑になる罪を暴かれることも同じだ。でも大人はそんなに馬鹿じゃないし、ましてやおじさんは男だ。俊ちゃんの思惑なんてすぐに読み取れる。
おじさんは隅田川に浮かぶ段ボール箱を見るとニヤリと笑い、「手伝ってやろうか」と言った。
「いいよっ! ていうか、俺達魚獲ってたんだ。あれは関係ないよ」
俊ちゃんが慌てれば慌てるほど、おじさんの顔のニヤニヤは大きくなる。
「子供が遠慮するもんじゃないよ。どうせ釣れないんだ。いっちょ段ボールでも釣って、今日の帳尻を合わせるとしようじゃないか」
遠慮という言葉はこの場合当てはまらないと思うけれど、おじさんは勝手に納得したのか、釣竿を持って来て竿を振り始める。
おじさんはシーバスを狙っていたのだろう。釣糸の先はきらきら光る魚を模したルアーで、段ボール箱目がけて投げるにはちょうどいい代物だった。
始めは「遠慮」していた俊ちゃんも、ルアーが段ボール箱に引っかかったりぶつかったりするうちに、まるで野球観戦でもするように「もうちょい」だとか「惜しい」だとか言い始めてた。僕はというと、おじさんのルアー捌きを見ながら、魚が釣れないのも無理はないかな。なんて思っていた。
何度目かにおじさんが竿を振った時、段ボール箱の端っこに上手くルアーが引っかかった。俊ちゃんと僕、そしておじさんが歓声を上げる。おじさんは川の水で濡れて今にも沈みそうな段ボール箱を、そっと引き寄せた。
「どうだおじさんの腕は?」
正直な感想を言おうか迷ったけれど、肩で息をしているおじさんを見て、僕は「プロのアングラーだね」と称えた。おじさんは満更でもない顔をした。
「ちょっと待ってろよ」
おじさんはそう言うと、絶対にそんな大きさは必要ないって断言できるほど大きな網を持って来て、段ボールの下に差し込んだ。
「大は小を兼ねるんだよ」
僕が網を見ているのに気がついたのか、おじさんは苦笑いを浮かべて言った。
「おっ、重いなこりゃあ。相当水吸ってるぞ。坊主達の目当てのもんは駄目かも知れんな」
おじさんは、僕と俊ちゃんにニヤニヤ笑いを向けながら、段ボール箱を川から引きずり上げる。中身はなんなのかわからないけれど、大量の濁った水が箱から流れ出して川に流れ込んだ。
おじさんの持つ網のしなり具合から、箱には相当な重さがあることがわかる。段ボール箱は下半分が濡れて黒ずみ、今にも底が抜けそうになっていた。大きさは縦三◯センチ横四◯センチ奥行二五センチ。結構大きい。
段ボール箱は、どちゃりと不快な音を立てて、コンクリートの地面に落ち着いた。地面に濁った染みが広がっていく。この辺りは汽水域で海水が混じっているからか、生臭い匂いが濃くなった気がする。
おじさんは段ボール箱を軽く蹴飛ばした。すると川に棲息していた虫が段ボール箱に巣食ったのか、黒い虫がどこからか転がり出て、地面の上でうねうねと気味悪く蠢いた。
「こりゃあひどいなあ。目当てのもん腐ってんじゃないの。開けない方がいいんじゃない?」
おじさんは裸足でナメクジでも踏んづけたような顔をして言った。この箱の状態を見れば、そんな顔になるのも無理はない。それに俊ちゃんはどうだか知らないけれど、僕は箱の中身が初め想像していたような物ではないかもと思い始めていた。
「でもこのままにして置くのもちょっと……」
俊ちゃんは尻切れとんぼみたいに言うと、やはりおじさんと同じような顔をして段ボール箱を見下ろした。
どうやら俊ちゃんも、箱の中身に向けた淡い気持ちは捨てたらしい。でも、ゴミでもなんでもそうだけど、拾った瞬間からその物をどうするかという責任は、拾った人の責任になる。だからこのまま川に蹴り落とすことは出来ない。そんなことをしたら始めにこれを捨てた人と同じになってしまう。
「じゃあとりあえず、開けて見る?」
おじさんはあくまで、自分は第三者なんだといった口調で僕達に促す。僕は正直開けたくなかった。中身がもし宝石やお金だったとしても嫌だった。そんな嫌な雰囲気が、この段ボール箱にはあった。
おじさんに促されて、とりあえず俊ちゃんは爪先で段ボール箱を突っついた。くずくずと箱の形が崩れ、また得体の知れない黒い虫が転がり落ちる。
「駄目だ。何か棒持って来る」
そう言って俊ちゃんは後ろの茂みに入った。そしてすぐに出て来ると、その手には骨だけになった傘だった物が握られていた。僕達はまた一つ責任を背負ってしまった。
俊ちゃんは金属製の傘の先で、器用にガムテープを剥がしていく。濡れている段ボールは表面ごと剥がれていった。それに併せて黒い虫がポロポロと零れ落ちる。それを見て僕は吐きそうになった。
ようやくガムテープを剥がし終えた俊ちゃんは、段ボール箱の蓋を傘の先で押し広げる。おじさんも僕も、もちろん俊ちゃんも、無意識に鼻を手で摘んでいた。僕はできることなら、身体中の穴という穴を塞ぎたかった。箱から立ち上る言いようのない空気を、体の中に少しでも入れたくなかった。僕達は箱の中身を覗き込んだ。
「何してんの?」
突然かけられた声に、僕と俊ちゃんおじさんでさえも、情けない悲鳴を上げた。
「なんだ君は!」
おじさんが怒ったように声を上げる(人はびっくりさせられると反射的に不機嫌になる。なんでだろう)。
そこには、昔コマーシャルで流行った、小っちゃくてふるふる震える犬を連れた園山さんが立っていた。
僕は咄嗟に思った。これはまずいと。箱の中身がもし「エロ本」ならば、月曜日から僕と俊ちゃんは、女子達から毛虫のように扱われてしまう。僕は俊ちゃんを見る。俊ちゃんもまずいと思ったのか、段ボール箱と園山さんとの間に立ってなんとか箱を隠そうとする。
「なんだ君はって、この子達のクラスメイトですけど? それよりなあにそれ?」
園山さんの言うそれとは、やはり段ボール箱のことだろう。前に人がちょっと立ったからといって隠しきれるものじゃない。
「なんでもないよ」と僕は言う。
見つめ合う四人をよそに、小ちゃなふるふる犬は僕達の足下をするするとくぐり抜け、段ボール箱に鼻を近づける。
「駄目だよ、——チビ犬」
僕は犬の名前がわからなかったから適当な名前を付けて呼んだ。
「チビ犬じゃないよ」
「じゃあなんて名前なんだ?」
園山さんの抗議の声に俊ちゃんが訊いた。
「何だっていいじゃない。それよりその箱なんなのよ」
園山さんはなぜか少し顔を赤くして、怒ったように言った。僕と俊ちゃんは言葉に詰まる。中身を知らないから答えようもないけれど、それでも「エロ本」だと思って拾ったなんて口が裂けても言えない。
「この子達はね。川にゴミが落ちているのを放っておけないと言って、この段ボール箱を川から引き揚げたんだよ」
おじさんは言いながら、僕達に目配せを送る。僕は心の中でおじさんに拍手喝采を贈った。さすが大人。さすがプロアングラー。さすが僕より頭一個半大きいおじさん。
おじさんのおかげで僕達は、「エロ本」漁りのゲス野郎達から、隅田川をこよなく愛する小学生の鑑となった。
「そうなんだよ。なあ幸雄」
「うんそうだよ。僕達の隅田川が汚れるのは良くないからね。ねえ俊ちゃん」
その時なぜか、園山さんの犬が一声吠えて、僕の足下に駆け寄ってきた。一体どうしたというのだろうか。
「駄目だよ……こっちにおいで」
園山さんは犬の名前だろう。小さな声でぼそぼそと呼んで、リードを引っ張った。犬は引きずられるようにして手繰り寄せられると、園山さんの足下に座り込む。そんなに犬の名前を知られるのが嫌なのだろうか。
「で、中には何が入っていたの?」
園山さんは僕達の隙間から、箱の中を覗こうとする。
「いやね、おじさん達もまだ見ていないんだよ。今から開けるところだったのさ」
「ふうん。私も見ていい?」
「え? いやそれはどうかな。虫とかいっぱいついてるし、園山さんは女の子だから見ない方がいいよ」
僕が言うと、俊ちゃんもウンウンと頷いている。
「なんで女の子はだめなの? 私だって隅田川好きだもん」
僕と俊ちゃんは顔を見合わせる。おじさんは我関せずといった具合に、園山さんの犬に「お手」だとか「お座り」だとか言っていた。
しかたがない。万が一「エロ本」だったらおじさんに処分を任せよう。その時の微妙な雰囲気を考えると胃が痛いけれど、それもしかたがない。
「じゃあ、中に何が入ってても知らないぜ?」
俊ちゃんはそう言うと、さっきよりも乱暴に段ボール箱の蓋を広げた。
僕達は箱の中を覗き込む。おじさんも犬の横に座りながら、首だけで覗き込んでいる。そしてその場にいた誰もが、箱の中身が「エロ本」だったら、自分達の日常が平和なままだったのに。って思ったはずだ。
「なんだよ……なんなんだよこれ!」
俊ちゃんが悲鳴に近い叫び声を上げて、骨だけの傘をその場に放り投げた。金属の触れ合う耳障りな音が鳴る。園山さんの犬が吠える。園山さんは泣き始めてしまった。僕はどうしたらいいかわからなかった。ただ数字だけが冷静に頭の中に流れ込んでくる。箱のサイズや箱の周りで身をくねらせている虫の大きさ。そして箱の中にうずくまるようにして収まっている白い毛の生えた何か。
何かのサイズは全長四三センチ。頭に見えるそれから伸びた一八センチの耳が、その生き物の特徴を全て表している。何かは、白くて丸々と太ったうさぎだった。
うさぎは東京都で定められた半透明のビニール袋の中に押し込められていて、ほんの少しだけれどまだ動いていた。
「どきなさい」
おじさんは少し大きめの声を出して僕達を押し退けると、乱暴に袋を破る。おじさんの腕には変な虫がひっついていたけれど、おじさんはそれに構わず中のうさぎを助け出した。
うさぎの足は、怪我でもしているのか赤黒く変色していた。うさぎは自分の身を守ろうとするように、おじさんの腕の中できーきーと鳴いて身をよじっていた。
うさぎの持つ直径一八ミリの目は、悲しくてそうなったのか元からそうだったのかそれはわからないけれど、この世の全てを憎むような、深く悲しい赤い色だった。
僕はその目を見た途端、悲しいと思う暇もなく涙が溢れ出していた。園山さんの犬は、何かに怯えるようにいつまでもきゃんきゃんと鳴いていた。
銀色の診察台に横たわったうさぎの目は、どこか虚ろで諦めたようなくすんだ色を浮かべていた。俊ちゃんも園山さんももう泣いてはいなかったけれど、二人とも疲れきった顔をしていた。
僕達は、園山さんの犬のかかりつけだという街の小さな動物病院に、釣りのおじさんと一緒にうさぎを運んだ。
園山さんの犬は、さっきから僕達の座る折り畳み椅子の下でふるふると震えている。この病院によほど嫌な思い出があるらしい。
「ひどいことをするもんだね」
血が滲んで黒ずんだ脱脂綿なんかを片づけながら、僕の父さんより少し年のいった獣医さんは言った。急場の保護者となった釣りのおじさんも、そうだそうだと頷く。
「昔はこんなことはなかったがなあ。最近の子供は、やって良いことと悪いことの判断がつかないのかね」
獣医さんは、犯人を子供だと決めつけているようだけれども、僕もそう思う。こんなに幼稚で残酷なことを大人がやったのなら、僕は大人になんかなりたくない。
「すみません! うちの生徒がご迷惑おかけいたしました」
病院のドアが鈴の音を立てた後、診察室に紗和先生の声が聞こえてきた。次いで診察室の扉が開く。
診察台のうさぎを見て、紗和先生はこの世の終わりを見たみたいに、絶望的で悲しい表情を浮かべた。そして僕達三人に、今まで見たことのないような優しい目を向けた。その目を見て俊ちゃんも園山さんも声を上げて泣き始めた。僕も泣きそうになったけれど、紗和先生になぜか涙は見られたくなくて、太腿の裏側をつねって我慢した。
「一体何があったのでしょう」
釣りのおじさんと獣医さんは、お互いの顔を見合わせる。そしてまず釣りのおじさんが、段ボール箱発見からうさぎ救出までの顛末を紗和先生に話して聞かせた。その後僕達は獣医さんから診察室を追い出され、病院の待合室で待たされた。獣医さんは、うさぎに何があったのかを僕達の耳に入れたくなかったのだろう。
僕達は待合室の長椅子に並んで腰かけた。園山さんは犬を優しく撫でていて、俊ちゃんはそれをなんとなく見ていた。
時間を持て余した僕は待合室の中をなんとなく眺める。待合室には受付があって、その横の壁にはコルクボードがかけてあった。そこには、幸せそうな表情で犬や猫を抱いた人のインスタント写真が何枚も貼ってある。この病院の患者なのだろう。よく見ると、園山さんの写真も貼ってあった。写真には園山シュンくんと書かれてある。園山……シュン?
僕は立ち上がって写真の前に立つと、俊ちゃんの隣に座っている園山さんと犬を見比べる。それは間違いなく同じ犬だし、抱いているのも園山さんだ。普通に考えれば写真に書いてある園山シュンというのは、犬の名前だ。
ふと隅田公園での光景が脳裏に蘇る。呼び辛そうに小さな声で犬を呼んだ園山さん。狭い椅子にも関わらず、俊ちゃんとの距離を不自然なほどに空けて座る園山さん。
人は親愛な感情を距離で示す。でも、好きなら近くて嫌いなら遠いっていう単純な話でもない。好き過ぎて距離を空けるというパターンもあるんだ。山田君みたいに。
「シュン!」
俊ちゃんが、驚いたように僕を見て、「何だよ急に」と言った。そして園山さんに抱かれている「シュン」も、何? っていう風に僕の方を向く。園山さんは顔を真っ赤にして僕を睨んでいた。
僕は「なんでもない」と言って長椅子に座り直した。可愛くないと言いながらも、俊ちゃんの連れて来たミドリガメを一生懸命世話する園山さん。それを思い出して思わず顔がにやけてしまう僕は、性格が悪いのだろうか。
「なあ幸雄」
俊ちゃんが不意に声を上げて僕はそれに「何?」と応える。
「俺。あんなことしたやつぜってえに許せねえ」
ただならぬ俊ちゃんの雰囲気に押されて、僕は唾を飲み込むことしかできなかった。
「だからよ。犯人を捕まえねえか? 俺達で」
俊ちゃんの目は、瞳孔が八ミリに開いていて、絶対に譲らないという怒りの色を宿していた。もし僕が断ったとしても、一人ででも犯人探しをするといいかねない、そんな色。
「私も、私も探す。シュンだって何かの役に立つかも知れないし」
園山さんは犬の名前を隠すことを諦めたらしい。
「なんだよ馴れ馴れしいなあ。それに何かの役に立つってなんだよ?」
「狭川君のことじゃないわよ。この子の名前よ。言っとくけど、狭川君とはなんの関係もないんだからね」
僕は二人の会話をニヤニヤしながら眺めていた。
「何笑ってんのよ。田山君はどうするのよ?」
もちろん僕だって怒っている。うさぎにあんなことをしたやつは絶対に許せないし、絶対に放っておけない。園山さんに言われるまでもなく、僕の答えは決まっていた。
「駄目よ」
頭から冷や水をかけるという表現は、おそらく正しい。紗和先生の声は、そう僕達に思わさせる絶対的な冷たさがあった。振り返ると紗和先生を先頭に、獣医さんと釣りのおじさんが立っていた。大人達の顔はとても厳しいものだった。
「なんでだよ先生!」
俊ちゃんが怒りに任せた声を上げる。
「危ないからよ。最近この辺りの小学校で、うさぎ小屋や鳥小屋が荒らされる事件が多発しているの。あのうさぎも事件の被害者に違いないの。いい? これはね、犯罪なの。子供には危険なの。わかってくれるよね」
俊ちゃんは、ちっともわかっていない顔をして、紗和先生の目を睨み返した。
「わかんねえよ先生! あのうさぎは俺達が拾ったんだ! だから俺達がかたきを打たなきゃ駄目なんだ!」
「このことは警察に任せるから。わかって。ね? 狭川君」
怒りで震える俊ちゃんに、なだめるような優しい声をかける紗和先生。この話はどこまで行っても平行線を辿る気がした。
俊ちゃんと紗和先生がどれくらい見つめ合っていたかわからないけれど、その静かな攻防は、警察の人が病院の扉を叩いたことで終わった。僕達は、警察と紗和先生達から追い立てられるようにして、動物病院を後にした。
「なあ幸雄。俺、やめねえからな。犯人探し」
俊ちゃんが静かに言うと、園山さんも「私もやめない」と応えた。
「さすが飼育委員だな」
俊ちゃんが園山さんを茶化して、園山さんが満更でもない顔をして怒る。それを見たシュンが俊ちゃんに吠える。二人の距離は今、三◯センチプラスマイナス一◯センチを行ったり来たり。この先二人の距離がどう変わるのか、それを測りたいと思ってしまった僕は、やっぱり性格が悪いのだろうか。
〈なんで狭川君来れないのよ?〉
電話口で園山さんは大きな声を上げた。
「しかたがないよ。俊ちゃん塾サボったのが母さんにばれて、今日一日外出禁止になったんだから」
僕はそう言いながら、俊ちゃんの母さんの顔を思い出していた。美人と言っても全然嫌味じゃない俊ちゃんのお母さんは、怒ると恐ろしく怖い。綺麗な顔が能面みたいになって、ぞっとするほど怖い。
「ごめん。こんなこと言うと怒るかもだけど、さっきから何か園山さんキャラ違うくない? 学校と」
〈悪い? これが本当の私なの! この際だから言っておくけど、うちのシュンと狭川君の名前は本当に偶然なんだから〉
園山さんは学校だからあんなキャラじゃないんだ。俊ちゃんの前だからあんなキャラなんだ。僕はその時そう思った。
「もういいよ偶然でもなんでも」
〈全然良くないよ!〉
「もうその怒鳴るのやめてよ。耳が痛いよ。それに園山さんが俊ちゃんのこと好きなのは十分にわかったから」
僕が言った途端園山さんは驚いたのか、息を呑むのがわかった。
〈……いつから知ってたのよ〉
しばらくの沈黙の後、園山さんは小さな声で呟く。
「昨日だよ。昨日園山さんを見てそう思ったんだ。というか、今の園山さん見てたら誰でも気づくと思けど」
園山さんは何も言わない。ちょっと意地悪だったかな。
「ああでも、俊ちゃんは気づいてないんじゃないかな? 空気読めるようでその辺は鈍いから」
〈そうなんだ……〉
ほっとしたような残念なような、そんな声だった。
「それより事件のことなんだけど、園山さんの母さんってPTAの役員だったよね。被害の遭った学校と日にちとか調べられたりするかな」
〈多分できると思う〉
園山さんは少し考えるように黙り込んだ後、気を取り直したのか抑揚のない声で応えた。
「じゃあ僕はこの辺一帯の地図を用意するから、明日学校で作戦会議をしよう」
〈わかった。じゃあ明日ね〉
「うんまた明日」
僕は園山さんにお別れを告げて電話を切った。そう言えば女の子の家に電話をかけたのって初めてだな。
「幸雄。彼女か?」
声にびっくりして振り返ると、父さんがニヤニヤしながら立っていた。
「違うよ。園山さんは俊ちゃんのことが好きなんだ」
僕はニヤニヤのままの父さんを置いて、自分の部屋に駆け込んだ。その後で、父さんに園山さんの気持ちを言ってしまったけどそれって良かったのかなと思った。
教室の扉を開けた瞬間、急に人がいなくなったみたいだと僕は思った。それくらい教室は静まり返っていた。クラスメイトはみんな僕のことを見ている。俊ちゃんはまだ来ていない。目だけで園山さんのことを探す。このクラスにいる数少ない友達。そう言えば、園山さんは友達なのかな。
園山さんは自分の席にいた。そして悲しそうな顔で黒板に顔を向ける。僕もそれにつられて黒板を見た。僕の目に飛び込んで来たのは、黒板に白いチョークで大きく書かれた『田山幸雄は動物殺し』の文字だった。
足下から力が抜けていく気がする。これを書いたのは誰だろうだとか、そんなことを考える余裕はなかった。黒板の文字を消さなきゃ、とかを思う余裕もなかった。ただ、教室の中にあるものの数字だけが頭の中に溢れかえっていく。そのうち数字を処理しきれなくなって、僕は立っていることすら辛くなった。
「何こんな所で突っ立ってんだよ幸雄」
後ろから聞こえた俊ちゃんの声に、僕の口から出せた言葉は、「俊ちゃん」それだけだった。俊ちゃんは僕を入り口の脇に押しやると教室に入る。そして黒板を見た途端、大きな足音を立てて一直線にある席へと近づいた。
「山田! お前が書いたんだろ!」
それは山田君の席だった。僕は金魚殺しの犯人のことを誰にも言った覚えはない。ならなぜ俊ちゃんは、黒板の犯人を山田君だと思ったのか。
「違うよ! 僕じゃない!」
「なら誰なんだよ!」
「知らないよ! 僕が来た時にはもう黒板にはあれが書いてあったんだよ」
教室内がざわつき始める。僕はそれをただ見ていた。なんにもする気が起きない。
「ちょっとみんな何やってんの。ほら、田山君狭川君席に……」
紗和先生が言葉を失ったのがわかる。黒板の文字を見たのだろう。紗和先生の顔を見るのが怖い。
「田山君。席について」
紗和先生は無言で黒板の文字を消した後、僕に声をかけた。僕は誰の顔も見ることなく、席に座って机の天板に印刷された木目の幅を測り始めた。
「誰がこれを書いたのかな?」
紗和先生の声が、教室内に冷たく響く。こんな時、紗和先生はものすごく怒っている。
「あの……私一番に教室に来たんですけど、私が来た時にはもう書いてありました」
大村さんが控え目に声を上げた。
「そう。じゃあ、このクラスの誰かが書いたわけじゃないのね」
紗和先生は大村さんの言葉を信じたみたいだ。紗和先生は勘が鋭いから大村さんに嘘はないと思う。でも、そうじゃないんだ。それだけじゃクラスの誰かが書いていないことにはならないんだ。誰かが大村さんより早く来て黒板にあの文字を書いた後、何処かに隠れているだけで大村さんの言葉にはなんの意味もなくなるんだ。
紗和先生は大人だし先生なんだから、きっと僕達よりも頭がいいはずなのに、そのことに気づかないのだろうか。それとも気づいていないふりをしているだけなのだろうか。でも、問題なのはそんなことじゃない。本当の問題は、黒板に書かれていた文字『田山幸雄は動物殺し』なんだ。
「一時限目は自習にします」
半年ぶりの自習なのに、俊ちゃんは声を上げなかった。他のみんなも声は上げない。でも、無言の何かを僕にぶつけてきていた。無言だから勘違いかも知れないけれど、僕は勘違いではないと思う。
半年ぶりに入った生徒指導室は、前見た時とどこも何も変わっていなかった。少し違ったのは、僕がコーヒーに砂糖を入れ過ぎなかったことと、黒板に書いてあったことが本当のことで、死刑判決者の気持ちを僕が今味わっていることくらいだろうか。
紗和先生は前と同じようにコーヒーを一口啜って、僕の目を見た。僕は紗和先生から目をそらせる。
「あんなの、気にすることないわよ。田山君はうさぎを殺したんじゃなくて、助けたんだから」
僕は何も応えない。応えることができない。
「ねえ、田山君? 聞いてる?」
長い長い沈黙。視界に入るものを、ただただ意味もなく測り続ける。でも、今自分がこうしていることはなんの意味もないとわかっている。紗和先生の時間を奪い、僕もただ時間を浪費しているだけ。言ってしまおう。そう思った時には、自分でも気がつかないほど自然に口が開いていた。
「先生。あの黒板に書いてあったこと、本当なんです」
紗和先生が息を呑む音が聞こえる。僕のコーヒーカップからは、もう湯気は立っていなかった。
「先生は、僕の家の仕事知っていますよね」
僕の家の仕事は靴を作る仕事。それも本革の靴。本革ということは、動物の革を使うということだ。
「でもそれは、しかたのないことじゃない。昨日のうさぎのこととは違うわ」
「違わないですよ。ううん。もしかしたらもっとひどいのかも知れない。だって、牛や馬、豚に羊に山羊にトカゲに、それに、それにうさぎだって使うんだ。そんなの昨日のうさぎとなんにも変わらないよ? 毛のついたふわふわのうさぎの革を、僕の家では靴にして売ってるんだ。でも僕は、それを可哀想だなんて思わない。思えないんだ。ふわふわして柔らかくて気持ちいいなんて思っちゃうんだ。だから僕は、動物殺しなんだよ」
気がつくと、僕の目からは涙が流れていた。紗和先生に見せたくなかった涙が、勝手に流れてくる。そのことが悔しくて、また涙が流れてくる。涙を止めたくて無理矢理目に手を押し当てていると、頭に重さを感じた。
顔を上げると紗和先生が僕の頭に手を乗せていて、口元を少し綻ばせながら涙を流していた。
なんで紗和先生が泣いているんだろう。そう思った時、紗和先生は席から立ち上がり、僕のことを抱きすくめた。僕と紗和先生の距離、測らなくてもわかる。今ゼロだ。そのことに何を思えばいいのかわからないけれど、なぜか気持ちが落ち着くのを感じて、僕はそのままじっとしていた。
その後紗和先生は、今日は帰ってもいいと言ったけれど、僕はそれを断った。僕にはやらなきゃいけないことがある。
教室の扉を開け僕が中に入ると、今朝と同じように教室内は静まり返った。でもすぐに俊ちゃんと園山さんがやって来て、僕に大丈夫かと声をかけてくれた。僕はそれに対して、「大丈夫だから昼休みに図書室で話しをしよう」と、小声で伝えた。二人は神妙な顔で頷き、自分達の席に戻って行った。
クラスの雰囲気は、相変わらず僕にとって居心地のいいものではなかったけれど、紗和先生のことや、俊ちゃんと園山さんのことを考えると、それほど気にもならなかった。
給食を食べ終わると、僕は一人教室を出て図書室に向かう。俊ちゃん達と一緒に行っても良かったのだけれど、なんとなく一人で歩きたかったんだ。
そう言えば給食のメニューは、豚の生姜焼きだった。黒板の犯人が誰かは知らないけれど、僕達はみんな動物殺しだ。
誰もいない図書室で二人を待っていると、俊ちゃんを先頭に園山さんが不機嫌そうな顔をして入って来る。
「なんで先に行っちゃうのよ」
園山さんは、僕の顔を見るなり怒ったように言った。どうやら俊ちゃんと二人きりにされたことを怒っているみたいだ。好きな人と二人になれることは嬉しくはないのかな? 女の子は不思議だ。
僕は園山さんに「ごめん」と謝った。俊ちゃんは僕と園山さんのことを不思議そうに見ていた。
「あのさ俊ちゃん。どうして今朝、黒板を見た後すぐに山田君の席に行ったの?」
俊ちゃんは園山さんをちらちらと見ながら、言い辛そうに「あれは」だとか、「その」だとかを繰り返した。
「じゃあ質問変えるね。なんで塾追い出されたの? 塾でもめた相手って山田君?」
山田君。クラスでは目立たない存在だけれど頭はいい。成績もいつも上位で、たまに僕が知らない公式で算数を解いている。習っていないはずの公式を知る方法。それは多分塾だ。
「なんでそれ知ってんだよ」
「塾で山田君が僕のこと何か言ってたんじゃない? 人殺しだとか、動物殺しだとか」
僕は、俊ちゃんの質問には答えずに言った。俊ちゃんの顔を見れば、僕の言ったことが正しいのだということがわかる。
「やっぱりそうなんだ」
「幸雄に隠し事はできねえな。実はさ、塾でも小学校の飼育小屋荒らし事件、結構話題になってんだ。そんでさ、犯人は誰だみたいな話になって、そしたら山田がさ、幸雄のこと犯人じゃねえかって言い出して……」
「前の事件の時もいたしね。山田君」
俊ちゃんが言い淀んだ先を、僕は継いだ。園山さんがここにいることを俊ちゃんが気にした理由はこれだろう。
「前の事件て何よ?」
園山さんは当然の疑問を口にした。俊ちゃんが小さな声で「いいのかよ?」と僕に訊く。
「いいんだ。どうせ隠してたっていつかはわかることだし、それに園山さんはもう仲間なんだ」
園山さんは何か言いかけたけれど口をつぐんだ。もう仲間。その言葉を僕は少し卑怯だなと思った。そんなことを言ってしまったら、園山さんは僕の話を聞いても反論できなくなる。言った後でそのことに気がついたけれど、言ってしまったものはしかたがない。口から出た言葉は、すぐに空気に消えるけれど、それを聞いた人の心には、いつまでも残るんだ。それが大事な言葉ならなおさらだ。
「園山さんはその時違うクラスだったから知らないだろうけれど、僕の家は革靴を作ってるんだ。革っていうのはもちろん動物の革。前の事件ってのはね、三年前のことなんだけれど、クラスで僕の家が動物殺しの家だって騒ぎになったことがあったんだ。僕も聞き流してれば良かったんだけれど、どうしても聞き流せなくて、それを言い出した子のこと、傷つけちゃったんだ」
目の前に、頭から血を流しながら僕を睨みつける、小太りの男の子の顔がちらつく。
「でもあれはしかたねえじゃん」
「しかたなくないよ。僕があの子のこと突き飛ばしちゃったのは事実なんだし、あの子がよその学校に転校しちゃったのも事実なんだ」
僕が突き飛ばしたあの子。名前はなんだったかな。都合の悪いことはすぐに忘れてしまう僕の頭はずるい。
「でも、あっちが転校したんだからこっちは間違ってねえってことだろ?」
僕はあの子のこと傷つけた日の夜、両親と一緒に謝りに行った。でも僕達家族は、家の玄関を開けてさえもらえなかった。後日その子の母さんが、暴力的な子供がいる学校に、うちの子供を通わせることはできませんと学校に言ったのだと、父さんから聞いた。何が正しくて何が間違っているのかなんて僕にはわからない。ただ、そこにある現実を受け止めるしかないんだ。
「とにかく、そういうことなんだよ。だから、黒板に書いてあったことは本当のことなんだ」
「でも、そんなのみんな同じじゃない。お肉だって食べるし、ランドセルだって……」
「いいんだ園山さん。そのことは僕達が今ここで議論しなくても、世界中で色んな人達が毎日のように議論しているよ。例えばビートルズのポールの娘とかね。それよりも、僕達が今やらなきゃいけないのは、うさぎに怪我させた犯人を捕まえることなんだ」
消えてしまいそうだった園山さんの言葉尻を、僕の声で塗り替える。
「でもよ、俺が言い出したのにこんなこと言うのはあれだけど、どうやって捕まえる?」
「うん。そこなんだ。園山さん、昨日言ってたあれ調べてくれた?」
園山さんは何も言わずに破ったノートの一ページを、僕と俊ちゃんの前に広げる。そこには、被害に遭った小学校の名前とその横に日にちが書いてあった。
僕はその横に用意した地図を広げる。そして園山さんが調べてくれた小学校のリストを、みんなで地図に書き込んでいった。
被害のあった小学校の数は全部で六校あって、そのどれもが隅田川沿いにあった。事件は二週間前から始まって、金曜日か土曜日のどちらかで起こっていた。
「全部川沿いの小学校だな」
「うん。でも、川沿いの小学校で被害に遭っていない学校がある」
「私達の学校だね」
川沿いの小学校ばかりが狙われた理由。それは隅田川で僕達があのうさぎを見つけたことからも、捕まえたうさぎを川に流すためだろう。でも、小学校に忍び込むのも、川にうさぎを流すのも、きっと夜だ。ならなんであんな時間に。
僕は地図を改めて見る。日にちと曜日から、僕達が拾ったうさぎのいた小学校は、一番川上にある汐出小学校だ。
「ねえ、今日学校終わったら、汐出小学校に行ってみない? ちょっと確かめたいことがあるんだ」
地図を睨んでいる二人に向かって僕は言う。
「俺は大丈夫だ。園山はどうする?」
園山さんは少し考えるように首を傾げると、「一旦家に帰ってから合流するよ。シュンの散歩って言えば出られると思う」と言った。
「そのシュンって名前なんとかならねえのかよ。なんか母ちゃんに呼ばれてるみたいで、一瞬ビクってなるんだよ」
「しかたないじゃない。そういう名前なんだから」
俊ちゃんは少し納得いかないような顔をしていたけれど、どちらにしろしかたがないと思ったのか、うーんと低く唸っただけだった。
「ごめーん。待ったー?」
園山さんの声に振り返ると、園山さんがシュンを連れて走って来ていた。
「大丈夫。待ってないよ。行こう」
僕はそう言うと、目の前の校門に背を向けて歩き始める。
「おい幸雄、どこに行くんだよ。学校に行くんじゃねえのかよ」
「違うよ。隅田川に行くんだ。僕の確かめたいことは川にあるんだよ」
二人は肩をすくめて僕の後をついて来る。
僕達の通う小学校から汐出小学校までは約三キロメートル。子供の足で歩いても一時間程度の距離だ。隅田川の距離もほぼ同じくらい。川上から川下へうさぎが流れて来るのに、僕達の歩く速度より遅いなんてことがあるだろうか。僕達が拾ったうさぎは、金曜日に襲われて、土曜の午後に、言問橋に流れ着いた。金曜日の夜に流したとしたら、半日以上も時間がかかったことになる。それはおかしい。
隅田川に着くと僕はポケットからゴムボールを取り出して、岸からほど近い所に落とす。
「さっきから何やってんだよ幸雄」
「川の流れを見てるんだ。後で説明するから、ボールを追っかけよう」
僕は不思議そうな表情の二人を置いて、ボールを追いかけ始める。二人はしばらく立ち止まっていたけれど、結局僕に従った。
ボールは結構なスピードで川を下って行く。少し小走りに歩かないと置いていかれそうになる。でもしばらく行くと、石濱神社の辺りで急に現れた浅瀬に、ボールは乗り上げそうになった。
ボールは常に水に浮いているから乗り上げはしないけれど、これがうさぎの入った段ボール箱だとしたらどうだろう。乗り上げてしまわないだろうか。
僕はうさぎの入った段ボール箱を見つけた時のことを思い出す。おじさんは釣りをしていた。釣りをする時間帯。それは潮の動く干潮か満潮の前後だ。あの時の潮はどうだったか。俊ちゃんに言われて欄干から水面の距離を測った時、橋にかかる水の線の上に濡れた跡はなかった。あの時の潮は満潮だ。
「園山さん。さっきの地図持ってる?」
園山さんが無言で差し出す地図を僕は広げた。汐出小学校の他に被害のあった小学校の中で、今いる石濱神社より川上の学校はない。
「やっぱりそうだ。犯人は夜にうさぎを川に流したんだ」
僕は二人に自分の考えを説明する。
「でもそうなると、犯人は小学生じゃなくなるな。そんな遅くに家出てたら、うちの母ちゃんだったら怒られるなんてもんじゃ済まないぜ?」
果たしてそうだろうか。小学生が夜外出しても問題ない場合。夜、俊ちゃん、怒られる。
「そうか塾だ。俊ちゃん塾だよ! 塾なら夜の帰りが遅くても怒られないし、しかも事件のあった日は決まって金曜日か土曜日。これは俊ちゃんが塾に行く日と同じだよ」
「ということは……」
「犯人は狭川君と同じ塾に通っている人?」
俊ちゃんの呟きに園山さんが声を被せる。
「俊ちゃん。次の塾の日来ていない子がいたら、もしかしたらその子が犯人かも知れないよ? そして次に荒らされるのは多分うちの学校だ」
川沿いの学校でまだ被害にあっていないのはうちの学校だけだ。もし荒らすとしたら、次はうちの学校に違いない。
「でも犯人捕まえんなら塾さぼんないと……」
俊ちゃんの顔に影が射す。俊ちゃんは故意でないにしろ、一度塾をさぼっている。俊ちゃんの母さんにきっと次はない。
「大丈夫だよ俊ちゃん。犯人さえ特定できたらいいんだ。俊ちゃんにはむしろ塾に行って欲しい。そこでいつもは来ていてその日来ていない子のことを教えてよ。園山さん携帯電話持ってる?」
「え? 持ってるけど。何?」
「僕は持っていないんだ。だから、俊ちゃんからメールを受け取って、僕に電話で教えて欲しいんだ」
「なんでよ。電話で直接田山君にかければいいじゃない」
園山さんは不自然なくらい慌てている。
「犯人が犯行に及ぶのは、授業中かも知れない。そんな時に電話なんかしたら、また俊ちゃん追い出されちゃうよ」
「それは駄目だ。次追い出されたら、俺、母ちゃんに殺されちまう。頼む園山。嫌かもしんないけど、俺とメアド交換してくれ」
「別に……嫌じゃないけど」
僕は二人のやり取りを見て、心の中で笑ってた。それが顔に出ていたのだろう、園山さんが僕を睨む。僕は目をそらして隅田川に流したボールを見た。ボールはいつのまにかどこかに流れてしまっていた。
僕は学校に向かって走っていた。息が乱れて胸が苦しい。
「なんでこんな時に限って父さんは競馬を当てちゃうんだ」
僕は思わずぼやいてしまう。いざとなったら、僕は父さんを使って犯人を捕まえようとしていたのだ。父さんは今頃電気ブランでもやっているに違いない。
俊ちゃんからのメールは突然だった。山田君と他校の子が一人塾に来ていないという。やっぱり犯人は山田君なのか? 僕が半年前に刺した釘はもう抜けてしまったのか。抜けてしまったのかも知れない。それは塾で僕のことを悪く言ったことからもわかる。
学校の校門が見えると、誰かが立っているのが見える。園山さんだ。足下にはシュンもいる。
「なんで来たの?」
「なんでって、田山君一人に任せておけないじゃない」
「家の人には?」
「散歩って言ってある」
僕は少し考えたけれど、考えている暇はない。園山さんを連れて学校の裏に回り込む。正面からだと誰かに見られるかも知れない。
「ちょっと待ってよ。ここからじゃシュンを連れてけない」
高さ二メートル三○センチのフェンスを前にして、園山さんは言った。
「しかたがないよ。ここにつないでおこう。帰りに拾って帰ればいいよ。それより携帯電話は持ってる?」
園山さんは携帯電話を取り出しながら「シュンが盗まれたら?」と言った。
「もし飼育小屋に犯人がいたら警察に連絡しよう。それからすぐにここに戻ればきっと大丈夫だよ。それにシュンだって誰かが来たら吠えるだろうし、とにかく急ごう時間がない」
僕はフェンスによじ登り始める。園山さんも「ごめんねすぐに戻るからね」とシュンに声をかけ、渋々僕に従った。
足音を忍ばせて校舎を回り込み、飼育小屋を目指す。夜の校舎は真っ暗で、昼間僕達が通っている建物とは違うものじゃないかと錯覚してしまう。次第に飼育小屋が見え始めたけれど、そこに人影はなかった。
「誰もいないね。犯人、山田君じゃないんじゃないの?」
「そうかも知れない」
所詮小学生の浅知恵だ。そんなに簡単に犯人が見つかるなら、世の中はもうとっくに平和だ。そう考えていた時だった。僕達がやって来た方向から、シュンの吠える声が聞こえてくる。
「ちょっと田山君、シュンが吠えてる」
「聞こえてるよ。誰か来たの……」
僕の言葉はシュンの悲しそうな甲高い鳴き声に遮られた。
「田山君! シュンが!」
園山さんが泣きそうな顔で僕を見る。
僕はなんて馬鹿なんだ。人目を避けて僕達は校舎の裏に回った。となると犯人だってそうするはずだ。シュンは犯人に……。
「田山君シュンを助けに行かないと」
「駄目だ。今行ったら犯人と鉢合わせる。何処かに隠れてやり過ごしてから助けに行こう。犯人の目的は飼育小屋だから、きっとシュンは大丈夫だよ」
園山さんを安心させようと言ったのはいいものの、言いながら僕は不安な気持ちがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。
遠くから、ガシャガシャとフェンスの軋む音が聞こえてくる。もし犯人が先に来ていたら。そう考えると僕はぞっとした。早く隠れなくては。
飼育小屋の横に掃除用具を入れる倉庫を見つけると、僕はそこに園山さんを連れて隠れる。ほどなくして遠くの方からボソボソと人の話す声が聞こえてきた。どうやら声をひそめているらしい。
「なんだよあの犬。きゃんきゃんうるせえから蹴っちまったよ。帰りにあいつも連れて帰るか」
なんとなく聞き覚えのある声だ。でも山田君の声ではない。
「ねえ、もうこんなことやめない?」
この声は山田君の声だ。
「馬鹿野郎ここまで来てやめられるかよ。今日で最後なんだ。逃げたらお前が何やったか紙に書いて色んな処に貼り付けてやるからな」
もう一人の陰湿な声に、山田君は声を失う。相手の声がここまで聞こえるということは、警察に電話をすると、ここに僕達がいることがばれてしまう。後で警察に言う時のために、声の主を見極めなくては。
僕は倉庫の扉を細く開けた。
扉の隙間から外の光が射し込んで、倉庫の中をうっすらと照らした。掃除用具や園芸工具が乱暴に詰め込まれているのがわかる。山田君達の足音が近づいて来る。僕は扉の隙間に顔を押し付けた。
山田君だ。それともう一人は、細身で身長は一五六センチ。誰だろう。二人は手に何かを持っている。山田君はニッパーとナイロン製の大きなトートバッグ。もう一人は小振りな金槌。山田君の持つニッパーは、飼育小屋の網を切るのに使うのだろう。トートバッグは捕まえた動物を入れるため。もう一人の持つ金槌は……。
僕は金槌の用途を想像して吐き気を覚えた。視線を金槌から上に移動して、それを持つ主の顔を見る。口元は少し笑っている。目は、目は何かに挑むような、睨みつけるような、そんな目だった。僕はその目を見たことがある。そして開くことのなかった玄関の表札が、記憶に蘇った。
「梶山君……」
「えっ? 田山君あの子知ってるの?」
「僕を動物殺し呼ばわりした子だよ。昔は太っていたのに……」
俊ちゃんが気づかないのも無理はない。
そのまま見ていると山田君が飼育小屋の金網をニッパーで切り始める。静かに眠っていた動物達がにわかに暴れ鳴き声を上げ始めた。
「お前らに恨みはないんだよー。恨むんなら田山を恨んどくれー」
梶山君は妙な節をつけて歌うように言った。
なんてことだ。梶山君は僕のことをずっと恨んでいた。僕のせいで、動物達は、殺されたり、傷つけられたり、したんだ。
「ちょっと田山君どうするの?」
「僕はやっぱり、動物殺しだ……」
山田君と梶山君が口をぽかんと開けて僕を見ている。僕はいつの間にか、手に長さ八八センチのスコップを持って倉庫の外に立っていた。
「なんだよ。なんでお前がここにいんだよ」
梶山君の声は震えていた。
「山田君。僕言ったよね。今度同じことしたら殺すって。あれ、嘘だと思った?」
僕は山田君と梶山君に一歩ずつ近づく。スコップは、僕が持つには少し重たくて、校庭に金属が引きずられる耳ざわりな音が響いた。
「違うよ。僕は梶山君に無理矢理……」
スコップが空気を割く音で山田君の声は途切れた。金属が硬い地面に当たって、砂利の弾ける音がする。
測った距離通りにはいかないものだな。腰を抜かしてへたり込んでいる山田君から、一五センチも離れたスコップを見て思う。
「お前頭おかしいんじゃねえのか!」
梶山君は目に涙を浮かべていた。僕は頭がおかしい。そうだおかしいんだ。動物殺しだからこんなやつら殺したっていいんだ。
僕はスコップを振り上げる。今度は外さない。
「もうやめてよ!」
急にスコップを持つ手が重いと感じた。見ると園山さんがスコップを掴んでいた。
「あなた達何やってるの!」
校庭に女の人の声が響く。紗和先生の声だ。僕以外のみんなは泣き出してしまった。僕は泣かなかった。泣けなかった。きっと動物殺しだから涙は出ないんだ。
耳に触る甲高い声。さっきからうるさい太っちょのおばさんは、梶山君のお母さんだ。
「またあなたなの? どれだけうちのひろむの人生を狂わせたら気が済むの?」
顔を見るのが嫌でおばさんの足下を見る。僕はそこに父さんの「こだわり」を見つけた。
「ちょっと待ってください! 田山君は……」
「あなた担任? 生徒にどんな指導しているの。こんな時間までうちのひろむを引っ張り回して。大体ね、こんな動物殺しさっさと少年院にでも入れてしまえばいいのよ。今回の小学校荒らしの犯人だってこの子だって言うじゃない? それをうちの子になすりつけようとして」
「お母さん田山君は犯人じゃ……」
「ステッチの深さ一・五ミリ。ピッチは一センチの中に綺麗に五つ。毎度お買い上げありがとうございます」
みんながキョトンとした顔で僕を見ている。
「おばさんが履いている靴のことだよ。その靴は僕の父さんが作ったんだ。それは仔山羊を殺して鞣した革を使ってる。動物殺しが作った靴を履いているおばさんも動物殺しだね」
「何を一体……」
引きつった顔のおばさんを僕は遮った。
「先生僕帰ります。あと、先生が警察呼ばないなら僕が呼びますから」
応接室では、おばさんがヒステリックな声を上げ続けていた。
「待ってよ田山君!」
園山さんが追いかけて来るけれど、僕は足を止めなかった。
『名犬チワワのシュンちゃんお手柄! 連続小学校荒らし事件解決! 犯人は小学生だった!』
その文字が地方紙に踊ったのは、あの夜から三日後のことだった。紗和先生がなぜあの夜学校にいたのか。先生はたまたまシュンの鳴き声が聞こえたからとか言っていたけれど、きっと勘の鋭い先生のことだから、犯人が来るって予想していたんだと思う。
それから黒板の文字は梶山君に言われて山田君が書いたらしい。学校荒らしを僕になすりつけようとしていたんだって。あれから山田君は学校に来ていない。噂だと、どこか違う学校に転校するらしい。未成年だから罪には問われないらしいけれど、それが正しいのか間違っているのかは、僕にはわからない。
「園山さあ。びっくりしただろ。幸雄って怒ると恐いんだよ。うちの母ちゃんより」
俊ちゃんは新聞記事から目を離して園山さんを見る。事件以来、図書室は僕達の会議室みたいになっていた。
「ううん。そんなことないよ。びっくりしたけど、ちょっとかっこいいなって思ったもん」
園山さんの瞳孔は六ミリに開く。ちょっと嘘だなって僕は思った。
「だってよ幸雄。良かったな」
俊ちゃんは僕に、いしししって感じで笑いかけてくる。そして小声で「園山、幸雄のこと好きなんじゃね?」と言った。俊ちゃんそれは違うよ。僕は心の中で呟いた。
新聞記事の写真では、ピッタリと寄り添うように園山さんがシュンを抱いている。こっちの「俊」とは大違いだ。
昼休みの終わりを報せるチャイムが鳴る。僕たちは、歪な距離の三角を描きながら教室に戻った。ちっとも綺麗じゃない歪な三角。その歪な数字が僕にはなぜかとても心地よかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続編もと考えていましたが、未だ続きが書けないでいます。
そのうち頑張ります。