無反応な彼女は意外と敏感
「次はなにに乗ろうか?」
お化け屋敷を出た後で桃華に問い掛ける。どうせ訊いても答えは分かっていたが、万が一の可能性も期待していた。
案の定、桃華の奥二重でくりくりと大きな目に変化はない。そしてぷっくりとした唇を開き、並びのいい歯を見せて分かりきった答えを述べる。
「祥吾くんの好きなやつでいいよ」
愛想笑いのお手本のような表情だった。
「よし。じゃあ」
笑顔で園内マップを見ながら、予想通りの答えに心の中で溜め息をついた。
僕の彼女、三浦桃華は無反応で無感動で物静かだ。その愛らしい美しさと相俟って血の通わないアンドロイドを想像させる。
お化け屋敷に連れて行けば怖がるかと期待したが、その思惑は見事に外れてしまった。
もっともこのテーマパークのライド式のお化け屋敷はコミカルなお化けがイタズラをしてくるというもので、怖がらせる気はまるでなさそうだったから仕方ない。
僕が地図を見てどこをどう回るか考えていると、桃華はお化け屋敷のアトラクションの壁に寄り掛かり俯いていた。
黒くて長い髪がすとんと落ち、微かに揺れている。退屈そうとか、面倒くさそうとか、そういう感情すらなく、パソコンの待機モードのようだった。
桃華はいつも無表情で無感動で反応が薄いが、もちろん笑ったり、怒ったり、喜んだりはする。しかしそれらは全て『ほんのり』としている。ほんのり笑い、ほんのり怒り、ほんのり喜ぶ。
僕と一緒にいて楽しいのか、自信がなくなる。もっと言えば本当に好きで僕と付き合っているのかも疑わしく感じる時もある。
僕も感情を表に出さないように生きてきた人間だから人のことは言えないが、デートの時はもっと感情を豊かにしてもいいんじゃないだろうかと思う。
「よし! じゃあ次はこのアトラクションにしよう!」
無理矢理テンションを上げて次に向かったのはライド式のシューティングゲームアトラクションだ。
襲い来るモンスターをショットガンで倒して得点を競うというものだった。
ゲームで興奮すればいつもより感情を露わにするかもしれない。
さほど人気もないこのテーマパークは来場者は少なく、十分そこそこで僕たちの番がやって来る。
ライドに乗った桃華は特殊ゴーグルを着用し、ショットガンを手にして動きを確認していた。僕はわざとらしいほどはしゃいでショットガンを構える。
ライドが動き出すとあちらこちらからモンスターが現れた。僕はそれらに向けて無闇に乱射していたが、桃華は一体づつ狙いを定めて次々と倒していく。その冷静さや正確さが以前観た『スターリングラード』という映画の主人公のように俊敏で鮮やかだった。
ゴールする頃には桃華は僕に倍近くの差をつけていた。
「凄いね……桃華ってこういうゲーム得意だったんだ?」
「どうかな? 夢中で出鱈目にやっていたらたまたま当たっただけだよ」
桃華はほんの少しだけ恥ずかしそうに笑った。それだけでも僕の心に光りが灯る。
「その割には上手だったよね!」
どう見ても出鱈目になんて撃っていなかった。確実に一つひとつに狙いを定め、的確に打ち抜いては次の獲物を狙っていた。普段の落ち着き払った態度も相俟って、もしかしたら桃華は某国の女スパイとかなんじゃないかと、ほんの少しだけ疑ってしまう。
結局このあとメリーゴーランドに乗っても感情を昂ぶらせる桃華を見ることは出来ずに昼食となった。
午前中、桃華はほとんど笑うことがなかった。
僕の隣を歩くとき、桃華は大抵いつも俯きがちだ。その顔を見せないような歩き方もまた、僕の不安を煽ってくる。
やっぱり桃華は僕のことなんて好きではないのだろうか。僕の心は切なく締め付けられ、同時に何とかしなくてはと焦ってしまう。
そんなことを考えていると、桃華は急に立ち止まる。
「どうしたの?」
僕の顔より少し上の辺りに視線を向けて暗い表情になった。
「ごめんね、祥吾君」
「え? どういう意味?」
突然謝られ、色んなことが頭を過ぎった。しかし桃華は「ううん。なんでもない」と無理に笑って僕の隣にやって来た。そして不自然すぎる動きで手に触れてくる。
手を繋いでいいという合図なのだろうと解釈し、僕もぎこちない動きでその手を握った。
手を繋いでいるのに、離れていくような、そんな錯覚に見舞われる。
桃華は普段から大人しく、存在を消すようにクラスの隅の方にいる。とにかく目立ちたくないというのが、傍から見ていても分かった。しかし皮肉なことにその美しさのため、それが逆に目立つ要因となってしまっていた。
何人もの男子が桃華に告白してフラれたという話を聞いた。
そんな桃華に僕ごときが告白したのは、成功を期待したからではない。ただ気持ちを伝えたかったからだ。
僕が友だちに裏切られ落ち込んでいたとき、普段話したこともなかった桃華が声を掛けてくれた。
その時の彼女はそれまで見たこともないくらい、悲しそうに顔を歪ませていた。まるで僕と同じだけ傷付いたような、悲しい表情だった。
桃華にかけてもらった言葉は「大丈夫だよ」とか「怖がることないんだよ」とか、僅かな言葉だった。しかしその言葉で、僕は立ち直ることが出来た。
それ以来、僕は桃華のことを好きになってしまった。身の程をわきまえないことは百も承知だった。でも僕は分相応を弁えるために恋をするわけではない。
そして気持ちだけ伝えて散るつもりだった僕の告白は、「ありがとう。こちらこそ、よろしくお願いします」という桃華の意外な返答をもらった。
それ以来二ヶ月。僕は付き合う前よりも確実に悩みや苦しみが増えていた。想いが叶い、恋が成就するというのは、僕が想像していたものとはまるで違っていた。
そんなことを振り返りながら、売店で買ったチーズドックを囓る。桃華はイタリアンピザという、わざわざイタリアを名乗った割にはサラミやウインナーなどが乗ったアメリカ風のピザを食べていた。
なぜ桃華はあの時あんなに優しい言葉をかけたの?
そしてどうして僕なんかの恋を受け容れてくれたの?
そんなことをしなければ、僕は今、桃華の気持ちを考えながら苦しまなくて済んだのに。
そんないわれなき恨みを桃華にぶつけながら、炭酸の抜けかけたコーラでいつまでも飲み込めないパンを流し込んでいた。
午後一番に行った『アイスエイジハウス』というアトラクションは、意外にもこれまでで一番桃華のリアクションを得ることが出来た。
ただ氷点下マイナス三十度の世界を体験できるというだけの、冷凍倉庫勤務を体験できる程度のものだったが、その冷たさに桃華がはしゃいでくれたのだからなにが功を奏するのかわからないものだ。
「冷たかったねー」
アトラクションから出た瞬間、人生ではじめて暴力的な夏の陽射しがありがたく感じた。
「うん。氷河期に色んな生き物が絶滅したのも納得した」
桃華は陽射しを受けながら伸びをして笑った。
この調子なら午後はもっと桃華と心の距離を縮められる。そんな期待で心が躍った。
しかしそれはあまりに希望的観測過ぎたことを思い知らされる。
アイスエイジハウスを出た後の桃華は午前中と同じようにまた無口で無反応に戻ってしまっていた。まるで先ほどはしゃいでしまったのを後悔しているかのように。
コーヒーカップも、ジェットコースターも、フリーフォールでさえも、桃華に劇的な変化を与えることは出来なかった。
もっと過激な何かに乗って桃華の無感動の殻を破りたかったが、元々絶叫系に弱い僕は情けないことに乗り物酔いでダウンしてしまっていた。
「大丈夫?」
お弁当ゾーンの芝生の上で寝転んでいると、桃華は心配そうに顔を覗き込んでくる。
顔の距離が近すぎて、鼓動が高まってしまう。
長い睫毛の緩やかなカーブや少し低いけど形のいい鼻を見て、改めて桃華の可愛さを実感した。
「ごめんね。なんか格好悪いよな。遊園地の乗り物で酔ってダウンとか」
「格好悪くなんてない。無理しないで寝てて。飲み物を買ってくる」
桃華は立ち上がり、膝についた芝生を払った。
「なあ、桃華……」
僕の呼び掛けに桃華は振り向き、声に出さず目の見開きや首の角度だけで返事をした。
「僕とデートしても……つまらない?」
一番訊いてはいけないことを訊いてしまった。桃華が素直に答えても、誤魔化して答えてもなんの解決にもならない質問だ。
それでも自信をなくした僕は、全てを失うことを覚悟して訊いてしまった。
立ち上がりかけた桃華は困った表情を浮かべ、もう一度僕のそばに腰掛ける。
「私……嫌いな人と出掛けたりしないよ?」
声は小さいけれど、強い意志を孕んだ目でそう断言してくれた。
僕の質問の答えになっているようでなっていない答えだった。けれど少なくても否定的な言葉ではない。
もうその言葉だけを胸にしまい、満足することも出来た。それなのに更に訊いたのは、もっと得たかったからなのか、それとも全て失ってしまいたかったからなのか、僕にも分からない。
「嫌いな人ではないというだけで、好きな人ではないんだね」
桃華の目を見る。しかし桃華は僕の目を見ず、彼女がよくするように僕の頭の少し上を見ていた。視線を逸らしているのではない。なにかを見ている視線だった。
「なんで僕の告白を断らなかったの?」
責めるような口調で問い質した。告白を受け容れてもらったときはあんなに嬉しかったのに、今はそれが苦しくてならなかった。
「濁ってなかったから」
桃華はなにかを観念したように、そう呟いた。
「え?」
「あの時の祥吾君の『色』は、澄んでいて、眩しいほど輝いていたから」
あまりにも理解の範疇を超えた言葉に、僕は苦しみやら迷いやら微かな怒りなどの感情が一気に消えた。
何かの比喩だとは分かったが、その意味までは汲むことが出来なかった。
「私は、人の心が色として見えるの」
「人の心が……色として?」
言葉通りの意味ではないのだろう。瞬間に色んなことが頭に浮かんだけれど、その全てがネガティブなことだった。
「ごめん。訳わからないよね……」
桃華は悲しそうに笑って首を横に振った。そして寝転がったままの僕の頭の上辺りを指で円を描くように差した。
「この辺りにね、色が見えるの赤だったり青だったり緑だったり、ピンクだったり」
「色が……?」
「はっきりと特別なものだって分かったのは小学校三年生の頃。もう少し前から見えていたんだけど、他の人も見えているのかと思ってた。自分だけに見えてると気付いてもそれが何を意味するのかは分からなかった」
色が見えるというのは抽象的な話ではなく、具体的な話だったようだ。にわかには信じられないが。
「でもそのうちなんとなく分かってきた。赤いオーラが出ている人は、怒っていた。黄色い人は喜んでいた。黒い人は落ち込んでいたり恨んでいたりしてて、ピンクの人は……」
それは答えずに恥ずかしそうに俯いてしまった。何だか僕も気まずくなり、のっそりと身を起こす。
「オーラは大きくて色が強いほどその気持ちも大きいことも分かったの。はじめは人の気持ちが見ただけで分かるなんて便利だなくらいに考えていたんだけど……」
桃華の声はどんどん弱々しく、か細くなっていった。
「その頃は私も人並みに明るかったの。ある友達が少し太った友達にちょっと失礼な冗談を言った。みんな笑ったし、その太めの子も笑った。でもその太った子は悲しそうな青いオーラを纏っていた。冗談を言った子は黒と赤が混ざり合ったおぞましい色を放っていたの」
なるべく感情を出さないようにするためか、桃華は淡々と語っていた。それが余計に不気味な話に聞こえさせた。
「街を行く人は大抵真っ黒か、真っ赤のオーラを纏っていた。帰りが遅いお父さんは時おりピンクの残滓を纏って帰宅した。そのお父さんがお風呂に行った隙に、お母さんは真っ黒なオーラをもくもくと膨らませながらお父さんの携帯電話のロックを解除しようと必死だった」
「桃華……」
「人の心なんて見たくない。怖くなった私は、なるべく人と関わらないようにして、自分も感情を露わにしないように必死に心掛けたの」
見たくもないものを見せられ、桃華は笑わなくなって、感情を殺すようになっていったのだと知り胸が痛んだ。無反応で無感動な彼女は、本当はとても人の心に敏感だった。
忌み深い思い出を掘り起こした桃華は、小さく震えていた。その姿を見て、桃華が噓や妄言を吐いているとは思えなかった。
すぐに抱き締めてあげたかったが、自分が何色のオーラを放っているのか怖くて出来なかった。
「祥吾君は、いつもほとんどオーラを出していなかった。あまり話したこともなかったけど、この人も私と同じように感情を殺して生きているんだと思うと、何故だかとても安心したの」
「そうだったんだ……」
僕が意識するよりも前から、桃華は僕のことを気にかけてくれていた。それが意外で、嬉しかった。
「そんな祥吾君が黒い煙のオーラの筋をいくつか立ち上らせているのを見たの。必死で堪えようとして、それでも塞ぎきれないように、ゆらゆらと。思わず声を掛けたら、大切な友達に裏切られたと知って……」
「あっ……そういうことだったのか……」
あの時桃華が声を掛けてくれたのは、偶然なんかじゃなかった。
壊れかけた僕の心を見て、慌てて助けに来てくれたのだ。
「ありがとう。あの時、桃華が助けてくれなければ、僕は人を恨み憎むような人間になっていたのかも知れないね」
「ううん。立ち直れたのは祥吾君自身の力だよ。それを見て、やっぱりこの人は凄いなぁって感動したもん」
今さらながらに恋人に照れかけたとき、自分が犯してしまった過ちに気付いた。心臓がどくんっと大きく跳ね、後悔で身体が強張っていく。
その焦りがきっと僕の表情にも出てしまったのだろう。桃華は申し訳なさそうに俯いた。
いや、僕の感情のオーラが見たくなくて視線を地面に下げたのかもしれない。
今まで桃華とデートする度に不安で苦しかった心の色も全て見られていたということに、ようやく気付いた。
そんな事情は知らなかったにせよ、僕は桃華を傷付けてしまっていたことになる。
だから桃華は僕とデートするとき、いつも俯き気味だったのだ。
桃華は申し訳なさそうに、伏し目がちで言った。
「そんな強い、素敵な意志を持った祥吾君が私とデートするとき不安で青ざめたり、寂しくてくすんだりしていくのを見るのが辛かった。私のせいで、祥吾君が傷付いていると思うと、胸が張り裂けそうだった」
「違うっ! それは……桃華のことが好きだからであって」
「うん。分かってる……分かっているけど、怖かったの。私が祥吾君を苦しめ、迷わせていると思うと、関わるべきじゃないって思ってしまって」
桃華は消えてしまいそうに弱々しい声で呟いていた。
「楽しく明るく普通の女の子みたいに祥吾君と接したかった。でも私はずっと人に心を見せないように生きてきたから、どうやればいいのか分からなくて」
「そんなの、気にするなよ。だいたい『普通の女の子』ってなんだよ。誰だよ、それ? 桃華は、桃華だ。僕は桃華に『普通の女の子』とやらなんかになって欲しくない」
桃華は顔を上げた。視線は頭上じゃなく、僕の目に向けられていた。
「ごめん。僕は桃華に愛されているか、不安だった。でもきっと、もう大丈夫だから」
「……うん」
見詰めあったまま、地面に置いた手を握り合う。
桃華の指は細く、滑らかだった。
ただ身体の一部が繋がっているだけなのに、もっと深いところで繫がれた気分になれた。
「ゆっくりでもいい。僕には隠さない心を見せて欲しい」
「うん。分かった。ありがとう」
繋いだ手をそのままに立ち上がる。芝生があちこちについて鬱陶しかったけれど、それを払うために握った手を離すのは惜しかった。
夏の陽はまだ傾いておらず、無駄に力強く僕たちを照らしていた。夜には花火が打ち上がる予定だが、それまではまだずいぶん時間がありそうだ。
目の前にはこの遊園地のランドマーク的な大観覧車が聳えていた。
一周十五分の文字が見える。
あの観覧車に乗れば、誰にも邪魔されることのない十五分を得られることになる。
「も、桃華……あの観覧車、乗ろうか?」
少し緊張で上擦ってしまった声で訊く。
桃華は僕の頭の少し上をチラッと見て、顔を真っ赤に染めて首を竦めた。
「えっち……一回だけなら、いいよ」
僕たちはいかがわしいホテルにチェックインするかのようにかちこちになりながら、でも手はしっかり繋いで観覧車に向かう。
係のおじさんは笑みを噛み殺して、僕たちをゴンドラへと誘導してくれた。




