罪とは
老紳士の名前は宮内陽介というらしい。そして宮内はこの世のすべてが美しく、そして面白いと語った。
訳が分からない。その言葉の意味も、なぜその言葉をわざわざ僕に向けたのかも。この男は気でも触れたのだろうか。でも、その目は本当に楽しそうに輝いている。こんなに楽しそうな目をしている人間は、僕は子供以外知らない。
なんだか、この世界をそんな目で見る男が、少し気になった。
だから僕は宮内に促されるままに同じテーブルに着いた。別に帰りが遅くなってもくだらない小言を聞かされるだけだ。今日という一日に今のこの時ほどの大きな変化が生まれるわけじゃない。
それよりも、この男の話を聞きたかった。
聞いてみて、よくわからなかった。それはた、宮内の話がつまらなかったわけではないだろう。
きっと、僕にはまだそれを理解するだけの準備が整っていないだけだ。実感が伴っていないだけだ。
「人は皆、罪深い生き物です。誰しもが罪を犯している」
出だしがこうだった。だから、宗教の勧誘なのかと思った。だけどそうじゃなかった。男は、宮内は、その罪こそが美しいのだと語った。
人を殺した、物を盗んだ、人をだました、そうした人の罪が美しいのだという。
世間一般では、罪は醜い物だと教える。罪を犯す人間は醜いと。だが、宮内は違った。
「罪を犯すことが真に醜いものならば、誰も罪を犯しはしないでしょう。罪を犯すには理由がある。理性を惑わせ、そこから先の人生が狂うことをいとわなくなるほどの魅力がそこには存在するのです。だからこそ、人々は罪を犯す。罪を重ねる、罪を数える」
狂っているのではないか。
「人は皆、闇を恐れている。それは同時に闇に惹かれているのです。欲望、妬み、嫉み、憎しみ、様々な感情が混ざり、一つの闇を作る。皆それぞれ闇を抱えている。内面に巣食う闇が行動を伴い、現実世界に顔を出す。罪という形を得て、闇は具現化されるのです」
闇。宗教の勧誘なんかでもよく使う話だ。そんな話、普通だったらくだらないと一蹴するのだけれど、宮内は本気でそれを語っている。本気でそう思っている。とても、とても楽しそうだ。
罪とは、人の闇というものは、そんなにも魅力的なのだろうか。そんなにも、楽しいものなのだろうか。
興味があるのなら、また声をかけるようにと言って宮内は名刺を手渡してきた。僕が望むのなら、彼が集めた罪の記録、蒐集物を見せてくれるのだという。
屋敷に戻り、小言を聞かされる。そこから執筆作業に移る。でも、頭の中には宮内の言葉がぐるぐるとまわっている。宮内の言葉が理解できないのは、僕が劣っているからなのだろうか。
僕が知らないだけで、この世界は、人の闇というものは、美しいのだろうか。
昔、誰かが言っていた気がする。もしかしたら小説かもしれない。どこから得た言葉なのかは思い出せないけど、確かにその言葉は覚えていた。
『悪は人を魅了する』
そういうことなのだろうか。
ドアがノックされて、美也子が入ってきた。
美也子は大先生の一人娘だ。そして、僕がゴーストとなるきっかけを作った人物でもある。大学時代から、僕の後ろを追いかけ、何かと世話を焼いてくる人だった。
僕が書いた小説を見つけ、くだらないはずの僕の小説を凄いと持ち上げて、そのまま父親に見せたのだそうだ。そして、数週間後に全く同じ作品が大先生の名前で雑誌に載った。
美也子は怒っていたが、僕はどうでもよかった。それより、あんなくだらない文章でも金になるのかと思った程度だ。
そして大先生からお呼びがかかり、ゴーストをすることになった。僕が書いた文章を先生が買い取る。買い取ってくれるならだれでもいいのだけれど、大先生は馬鹿みたいな金を積んでくれる。だから、先生に優先して文章を売っている。
美也子はそれが気に入らないのだという。今日もまた独りよがりな正義感溢れるお言葉を賜った。
僕の作品は、僕の名前で世に出るべきだという。それが僕にとって一番の幸せなのだという。父親の名前なんて関係ない、内容が良ければ小説は売れる。だからゴーストを止めてその作品を出版社に持ち込むべきだという。
鬱陶しい。僕はそんなことを望んでいない。
文章にした時点で、文字になった時点で、僕の考えた話は僕の手から離れている。もう僕の者でもなくなる。僕から離れた時点で、その先がどうなっても、どうでもいい。僕の名前で売れても、先生の名前で売れても、どうでもいい。だってそれは、もう僕じゃない。くだらない言葉の塊だ。
罪は、どうなのだろう。
僕のこの行為は、きっと罪じゃない。だって、面白くもないし、美しくもない。
あの男の蒐集物はどんなものなのだろう。それは、本当に面白いのだろうか。美しいのだろうか。人の闇とは、こんなくだらない僕でも魅了するほどのものなのだろうか。
なんだか、男に会いたくなった。




