ハリケーン
夏休みもそろそろ終わり、皆が帰省から戻ってくる頃である。大学の食堂、昼の混む時間も過ぎて人はまばらだった。
そんな中、大盛りラーメンをがっつきながら泣く、という周囲の注目を浴びている女がいた。
傍らには空の丼が二つある、つまり今三杯目なのだ。
女は時々箸を止め、反対側にいる男に声をかける。
その女の愚痴を聞かされている可哀想な男もまた、周囲の人間のご飯のお供であった。
「ねぇ、ちょっと聞いてよ。昭仁がねぇ、また女と遊びに行ってんの」
「はぁ……」
「それでその女に連絡先渡されてんのよ! しかも受け取ってんのよ! 信じられないでしょ!」
「はぁ……」
「連絡くださいって言われたから、メール送ったって。今は仲の良いメル友なんだとか言い出すし、もうカスでしょ! そんなの嘘ってすぐにわかるじゃん! 下心見え見えじゃん!」
「はぁ……」
「ちょっと一郎! ちゃんと聞きなさい!」
「……はい」
一郎は椅子に座り直し、満面の笑みを向ける。戦死する覚悟した、素晴らしい笑顔であった。
女は未だ一郎を疑いの目で見ているが、一郎の笑顔は崩れなかった。それに満足したのか、最後の麺をすすると汁を飲み干した。
「昭仁はどうなってんのよ! どういうつもりなのよ!」
どん、と丼を置く音が鳴った勢いの良さであった。
一郎はその笑顔を崩さぬまま、女に応えた。
「はい! 行動そのままの意味であると思います!」
「なん、だと? 詳しく話せ!」
「はい! その女の子と話している方が楽しいので、しのぶさんに構っている暇はないということであります!」
「なんだとこの野郎! なんてこと言いやがる!」
「自分は客観的事実を述べているだけであります! 求められた責は果たしましたので、これにて失礼します!」
一郎は素早くそう言って、一目散に逃げていった。
「こら一郎!」
しのぶが呼び止めるも、一郎は振り返りもせず逃げ続けた。
一人になったしのぶは溜息を吐き、小さく呟いた。
「こうなったらもう、あいつに頼むしか……」
丼を見て、何やら思案し席を立つ。
「あと三杯はいけるな」
そう言って丼を片付けると、食券を買いに向かった。
大学の食堂、夕食の時間で混む前で人はまばらだった。
大盛りラーメンをがっつきながら泣く、という周囲の注目を浴びている女がいた。
ひたすらに食べ続ける、しのぶであった。
傍らには空の丼が二つある、つまり今三杯目……いや六杯目なのだ。
しのぶは時々箸を止めては向かいにいる女に声をかける。
しのぶの愚痴を聞かされている可哀想な女もまた、周囲の人間のご飯のお供であった。
「ねぇ、ちょっと聞いてよ。昭仁がねぇ、また女と遊びに行ってんの」
「うん」
「それでその女に連絡先渡されてんのよ! しかも受け取ってんのよ! 信じられないでしょ!」
「うん」
「連絡くださいって言われたから、メール送ったって。今は仲の良いメル友なんだとか言い出すし、もうカスでしょ! そんなの嘘ってすぐにわかるじゃん! 下心見え見えじゃん!」
「うん」
「ちょっと尋! ちゃんと聞いてる!」
「聞いてますよ。てか、もう一郎から聞いてるし」
尋は椅子に座り直し、満面の笑みを向ける。戦死させる決意をした、素晴らしい笑顔であった。
その笑顔に慄き、しのぶは捨てられた子犬のような目で尋を見ているが、尋は優しくはなかった。
しのぶは汁を飲み干し、どんと勢い良く丼を置く。その仕草でなんとか平静を取り戻そうとしたのだ。
「一郎の言ったような、しのぶさんがうざったいとか、その女の子と仲良くなりたいとか、そんなつもりではないと思いますよ。今のしのぶさんは相当にうざいけど、うざいけどね。昭仁さんはただそういう流れに身を任せているだけでしょ」
尋は笑顔を崩さぬまま、しのぶに攻撃を放つ。
「いいじゃないの、もう嫌なんでしょ。昭仁さんとはもう別れなさいよ」
「そんな、でもあいつは……」
「女と遊んでるんでしょう? もういいじゃない捨ててやったら」
「……」
黙り込んで泣きそうなしのぶを見て、尋は静かに笑う。
「いつものことでしょう? あの人がふらふらしてるのは。それになんだかんだで、しのぶさんと昭仁さんは仲が良いし、いちゃいちゃしてるし、喧嘩もすぐに仲直り。こんなにもめても、なんで別れないのかが不思議だよ」
「別れるなんて……結婚するならこういう仲が良いねって、お互いに言ってるけど……でも尋の言う通り、今回はもう流石に」
「はいはい、それももう何度目かわかりませんよ。ちゃっちゃと結婚しちゃってください。そのほうが我々は平和であります」
尋は心底うんざりしている様子でしのぶに手を振った。
席を立つ尋に、しのぶはさみしそうな顔をした。
「もう行くの?」
尋は縋るような目付きのしのぶを一瞥し、その頭に優しくぽんと手を置いた。
「ええ、今日はデートなので」
全ての反論を寄せ付けぬ、輝いた笑顔であった。
しのぶは固まってしまっていて、去っていく尋を止める余裕もない。
「ちゃんと仲直りしてくださいね、一郎には仕事頼んでおきましたから。昭仁さんに連絡いってるはずですよ」
一人になったしのぶはつらつらと涙を流す。尋の姿が消え、しばらく経ってからしのぶはふと最後の一言を考え直した。
「……連絡、した? 昭仁に?」
「そうだよ?」
いきなり後ろから声をかけられたしのぶは、立ち上がろうとして膝をテーブルにぶつけた。ひどい慌て様である。
周りで様子を伺っていた人たちの息を呑む音が聞こえそうなほど、その場は凍りついていた。
昭仁はいつも通りだとでも言うように、しのぶのことを気にすることなく隣に坐った。
「昭仁……なんで来たのよ」
「まあ可愛い後輩から呼び出されたら来るでしょ? 普通。ほら、俺って良い先輩だから」
至極真面目な顔でそう言い放った。呆けた顔で聞いているしのぶを見て笑むと、優しく手を取った。
「心配しなくても、俺はお前と一緒にいるよ。今回の女の子はね、先輩の元カノなんだよ、その愚痴を聞いていただけ。その子とはまあまあ仲良いけど、お前ほどじゃねえよ」
優しく諭すその口振りに、しのぶの涙は流れを緩やかにした。
「本当に? ただ愚痴を聞いてただけなの? その子が昭仁のこと好きだったりして、その子と付き合っちゃったりするんじゃないの?」
「しないよ。お前の面倒を見れるのは俺だけだろ?」
その一言でしのぶは笑顔になる。
「そうよね、あんたの面倒見れるのもあたしだけだもんね?」
「ん、そうだよ」
昭仁の手を強く握り返し、二人は和解をしたようだった。しのぶの涙は止まり、二人の間には穏やかな雰囲気があった。
その様子に周りの人達の緊張の糸が緩んだ。
「ちなみに、先輩って誰なの?」
「さんです」
「あ、なるほど。それじゃあしょうがない」
その名前を聞いただけで、しのぶが安心するには充分なようだった。
「心配かけてごめん」
「ううん、私の方こそごめんね」
二人は肩を組んでお互いの頭を預けていた。すべてが丸く収まったようだった。
様子を伺っていた周りの人たちの止まっていた手が、ようやく動き始めた。
「あれぇ? 昭仁くんにしのぶちゃんじゃない。何してるの?」
その声を聞いて二人は息を呑む。背後にいるその人の姿は見えないが。彼らの顔も声の主からは見えていない。
「いつも仲がいいねえ、羨ましいよ」
とんと、二人の肩に手が置かれた。
昭仁は覚悟を決めて後ろを振り返る。しのぶは未だ固まっていた。
「あ、尊さん。どうも」
上手く全てを隠した、綺麗な笑顔だった。
「この前は楽しかったね、また遊びに行こうよ。連絡するから待っててね」
「はい」
尊は何も気にしてないようだった。昭仁も特別何も言わずに、その場を早く終わらせようとしていた。
「今度はしのぶちゃんも一緒にね。じゃあ人待たせてるから。ばいばい」
尊はすぐに行ってしまった。
嵐が去って、二人は大きく深呼吸した。
「さっきの聞いてたかな……」
しのぶが小さく言った。
昭仁はしのぶの頭を撫で、息を吐く。
「聞こえてても関係ないよ。今待たせてたの、女の子だったし。きっと新しい子でしょ」
「あっそ、またか」
「ああ」
二人は暗い顔をして、寄り添い合っている。二人に降りかかる事件の再来を覚悟しているようだった。
「……卒業したら結婚しよう」
「………………今ここで言うの、それ」
「これ以上あの人のせいでもめるのは嫌だ」
昭仁は心底そう言った。
しのぶは一息吐くと昭仁の方を睨んだ。
昭仁はただ笑顔で答えを待っている。
「いいよ」
睨んだまま言うしのぶに、昭仁は満足そうに頷いた。
「わかってる」
「あっそう」
笑い合い、昭仁は席を立つ。しのぶもそれについて立ち上がった。
二人は丼を片付け、仲良く食堂をあとにする。
暮れる空に、太陽がうっすらと輝いていた。