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UP


 あっという間に水に包まれる。低音のみが支配する周囲は驚くほど暗い。海水が汚染されていて、透過性が低いのだ。

 俺はもがいたが、それは形ばかりの弱々しいものだった。俺の体は、外も中もボロボロだ。

 ライフルケースから漂いでた勲章が鈍く光りながら俺の眼前を踊る。過去の苦しみが、告解を求めていた。俺にはそれに応じることも出来ない。

 ゴボゴボと音を立てているのは、俺の肺の中で自由になろうとしている空気があることを示している。だが、それもすぐになくなるだろう。マラッカ海峡の底、誰にも顧みられることもなく、朽ち果てるのが俺の末路だ。

 遙か頭上、闇の中に白いインクを垂らしたかのように、不明瞭な灯りが存在する。それが海面だが、どんどん遠ざかっていく。

 ランボルギーニは惑いもせず、一直線に沈んでいく。地獄への片道ドライブだった。車は、棺となって俺を埋葬しようとしている。

 棺……!

 俺は水中で悪態をついた。棺から出なければならない。俺の中で消えかけていた炎が、勢いを取り戻す。

 惜しい命ではない。だが、死ねないのだ。

 自由な体で生きるためだ。

 妹。妹のために。

 妹の他に誰にも省みられる必要はない。だが、妹だけには……妹だけには!

 海面の白い明かりが、白いかいなへと形を変える。妹の腕だ。それを掴もうと腕を伸ばす。腕は届かなかったが、代わりに車の窓枠を掴んだ。

 俺は窓をくぐって、車を脱する。ボロボロになったジャケットがウツボのように身にまといつくのを振り払った。

 気力だけで水を掻く。海面はあまりに遠い。食いしばった歯の間からは、もう泡も出てこない。視野が暗くなっていく。

 俺を海底に引き込もうとする力は余りに強い。もとより、泳げる体ではない。

 その時、がんっ、と体が何かに叩きつけられた。

 海の真ん中に、なぜか鉄柱のようなものが立っている。それをよじ登っていける。

 光への道しるべだった。その柱を腕の力だけで上がっていく。行動の一つ一つにありったけの苦痛が伴った。

 でも、どれほど苦しくても、道があれば這っていける。重たい体を引っ張り上げていく。

 光へ近づいていく。一歩ずつ。一歩ずつ。




 泥と油の味が強い水を突き破って、海面に顔が出た。

 痛みをこらえ、呼吸しようとする。息が出来る。これはよい兆候だ。

 必死になって酸素を肺に送りながら、自分の命を救った柱に目をやった。それは古くて痛んだ物体だった。

 おそらくは、海中に違法投棄された廃棄物だろう。俺が掴んでいるのは大昔の海底ケーブルなのかもしれない。あるいは、帆船のマストなのかも。自分の周りで、同様の大型のゴミが、あるものは浮かび、あるものは何かにしがみつく形で波に洗われているのを知る。自然を穢すゴミに救われるとは皮肉だった。いや俺には、お似合いと言うべきか。

 ゆっくりと顔を上げる。目の前で、宝石のように光り輝く都市があった。タンジュンピナンの海上高層ビル群。海の上のゴミの上に建てられた煌びやかな摩天楼。遠くから見えれば美しいそれも、近づけば汚いものが眼に入る。

 第三次大戦の特需景気が、静かな漁港都市にはやした、豪華な腫瘍……病んだハリボテ。その、あまりの絢爛さに、眼を焼かれそうだった。それでも、ゆっくりとゴミの間を進んで、岸にたどり着く。

 鉛のように重い体をテトラポッドにもたせかけ、ぬるい海水が体にかかるのを感じた。死に損なったか。いや、まだ仕事が残っているのだ。

 コンクリートに爪を立てて、体を引きずり上げる。やがて、立ち上がることができた。人間の体は、驚くほどの酷使に耐える。

 その後、出来ることと、しなければならないことについて思考を巡らせた。

 ミン……。

 奴だ。奴に会わねば。

 手が痛いほど何かを握りしめている。目の焦点を苦労して合わすと、PKOアサルト・ライフルだった。この段階で武器を離していない自分に驚いた。

 まだ動くのだろうか。グリップを握ると、銃は頼もしげに銃身を回転させた。

 やれる。こいつは、とびきりタフな武器だ。

 妹を怪物から守るのに、使うことが出来る。

 怪物が俺に与えた恐怖は忘れがたい。戦地で俺が覚えた恐怖よりも、ずっと色濃く、身近だった。逃げることが出来たら、どれほどいいだろう。誰も知らない所に隠れて恐怖が色あせてくれるのを待つことができれば。

 だが、妹を守るためとあれば、話は別だ。どんな拷問でも、責め苦でも引き受ける気持ちになる。

 妹のために、為すべき事をする。必要とあれば、どのような落とし前だってつけてやる。俺は死にそうな体を引きずって進んでいく。

 ライフルを杖にした、亡霊のような風体の俺を見た人間がいたとしても、騒ぎは起きなかった。ここは平和だった。

 あまりの高さのため、頂の見えない高層ビル群を見上げる。

 その中でも特に高くて立派なものが目的地だ。百八十階だてスカイ・スクレーパー『ムルニ・タワー』。

 これの百階にミンはこもっているはずだ。

 あるいは、俺が奴をものすごい金持ちにしてやったので、奴がこのタワーを丸々所有していても不思議ではない。

 裏口に入ると、警備システムが俺をスキャンした。俺をミンのクライアントと知ると、扉はあっさり開いた。

 エレベーターに乗る。命じるまでもなく、俺は百階に運ばれた。

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