EMERGE
かすかに風が動き、衣擦れの音がした。
俺はゆっくりと目を開き、頭を上げる。
妹がいた。
俺は何度も瞬きして、それが見間違いでも、幻覚でもないことを確かめた。妹は、消えずにそこにいる。
「ああ……」
口からうめき声が漏れる。
記憶そのままの姿で、妹が立っている。俺のほんの一メートル前、絵からそのまま抜け出してきたかのように。
間違いなく、妹だ。俺の祈りは通じたのだ。
ヘロインの陶酔とも、性的興奮とも、まるで比べものにならない幸福感が、そして達成感が近づいてくる。それを満喫することに備えつつ、俺は両腕を広げる。妹を迎え入れるように。
いまや、俺を取り巻く世界がこの上なく素晴らしい。俺は全てのものに感謝した。何よりも、自分自身を誇りに感じた。俺は、一度失った妹を取り返したのだ。
妹は、空白な顔で虚空を見つめている。
上には赤い襟飾りのついた薄桃色のブラウスを着ている。下はパンツだけだ。スカートは履き忘れたらしい。かつて妹は、よくこのミスを犯した。
妹が首を傾げる。時計の針を思わせるように小刻みに頚を動かし、両目がそれぞれ左右に動いた。
ぴたっ、とその両目が俺を見据えた。
俺を捕捉したのだ。
「お兄様」
妹の声は平板で、初めて言葉を覚えたかのように、一つ一つの音節を強調して喋った。
妹の声だ。彼女が喋っている。
俺は跪いたまま、妹にすり寄る。
なんと言葉をかけたものだろうか。感謝? 祝福? 様々な感情が俺の中で渦巻き、言葉になろうとしない。
俺は、妹の顔から目をそらし、彼女の全身を見回した。
妹の肌に点々と赤いものが付いているのに、はっとする。血痕に他ならない。
「け、怪我をしているのか?」
俺は狼狽して尋ねた。
いや、違う。俺の内なる声が叫ぶ。この血痕は、妹の体から出たにしては分布密度が薄すぎる。これは他者の血。
返り血かもしれない。
妹の顔では、二十三個の筋肉が別々に動き、作るべき表情を探っている。
そして、妹は笑みを浮かべた。俺が思い描いてきた微笑みとは様相が異なる、口が耳まで裂けようかというくらいの笑みだ。
「お兄……様」
動きはひどくぎこちない。体を動かすのが不自由であるためというより、まったく別種の理由を思わせる。
その動きは、そう、まるで機械のようだ。
俺の本能が叫んでいる。何かがおかしいと。俺は、麻痺した頭でそれをゆっくりと吟味した。
くそ、知ったことか。俺の妹が帰ってきたんだ。俺は立ち上がろうと膝を突く。
どすん、と衝撃を足下に感じた。
俺の両足の間に、大ぶりな包丁が突き刺さっている。
妹は腰をかがめる。その視線を俺に固めたまま、包丁をひねって床から引き抜いた。
俺は凍り付いた。
まるで意味をなさない。妹に刃物? なんだこの組み合わせは?
「俺だよ……ヤンセンだ……おまえの兄だよ」
俺は妹に語りかける。自分の声だとは信じられないほど、声がうわずっていた。
「お兄様は私のために生きてくれるのよね?」
「当然だ。おまえのため、俺は全てを投じた」
「お兄様は私のために血を流してくれるのよね?」
「……当然じゃないか」
「お兄様は私の求めることのために、血を流してくれた。お兄様の血、大好きよ」
「それはありがたいが――」
妹がガチンと、歯を噛み合わせる。
「お兄様の血を飲ませて……全身に浴びさせて……私を溺れさせて!」
妹が包丁を振りかぶる。
「包丁をしまえ!」
俺は叫ぶ。同時に本能的に跳び退っていた。
硬い音とともに、包丁は根元まで床に刺さっていた。俺が寸前まで座っていた場所だ。妹の包丁に迷いは見られない。
「なぜ、私を拒むの? 私のために生きていると、あれほど言ってたのに」
表情を全く変えずに言う。その細い腕で包丁をねじると、床から抜いた。
彼女は一体どうしてしまったのだ。包丁を振り回しているのに、興奮している様子もない。機械が仕事をこなすように、その動きによどみがなかった。
俺は後ずさる。目の前にいる妹と、彼女の背後の肖像画を見比べた。俺の頭の中の妹と、眼前の妹。見た目は同一なのに、何かが決定的に違う。
妹は、俺の視線から、何を見ているのか察したのだろう。身を翻すと、肖像画へと歩み寄る。
「お兄様を惑わす女が……いるのね!」
肖像画を前に、彼女は身を震わす。
「それはおまえだよ!」
「私はここよ……お兄様!」
妹は逆手に握った包丁で、巨大な絵を十字に引き裂いた。和紙のみならず、オークの額縁まで細断される。
その怪力よりも、鬼気迫るものにぞっとするものを感じた。
俺は喉から声にならない悲鳴を上げながら、後ずさりながらどうにか立ち上がろうと床を転げた。
妹の首が百八十度回転して、逃げる俺を捉える。妹の背後で肖像画は崩れ、ものすごい音をたてた。
「どこへ行くのお兄様? 私はここよ」
俺は扉にすがりつく。震える手でドアノブをまさぐり、隣の応接間に転がり込む。足がそのまま遁走を続けようとするのを、叱りつけた。
逃げてはダメだ。ここまで積み上げたもの全てを失いかねない。
ぺたぺたという、湿った足音が近づいてくる。事情を確かめるためにも、妹を止めねばならない。
俺は素早く視線を彷徨わせ、壁にかけられたクロスボウを手に取った。一緒に展示してある太矢をつがえると、滑車を回して、弦を巻き上げる。
ぎいっ、と扉がきしんで開く。
銀色の包丁が現れ、次いで眼を光らす妹の顔が見えた。
妹の眼が素早くクロスボウを見て、そして俺の顔に視線を戻した。その眼は全く瞬きをしない。
「そんなものを構えて……お兄様……私を拒絶するのね」
「頼む、落ち着いてくれ! おまえはやっと帰ってこれて、混乱しているんだ! 落ち着くんだ、そしたら全てはうまくいく!」
「嘘つき!」
妹が叫ぶ。声は悲痛だが、顔が笑顔のままで不気味だ。
「そんなの嘘よ! お兄様は私の全てを受け入れてくれた。ありのままに愛してくれた。意味もない言葉で私をはぐらかしたりしない。本物のお兄様なら、私が何を願っても無条件にかなえてくれた!」
その声の大きさに、部屋がびりびりと震える。部屋の壁にかかった動物の首が落下して、ぐしゃりと音を立てた。
こんなの妹じゃねえ……。意識のどこかで自分の声が呟く。
「あなたなんか、お兄様じゃない!」
妹が叫んで、こちらへ来る。
クロスボウのストックを肩に当てる。これには何度か触ったことがあった。あまりに機構がシンプルなおかげで、作られて五百年を経た今でも、故障というものをしらない。威嚇で妹が止まり、話し合いになってくれることを念じる。
俺は妹の足にそれを向けて、叫んだ。
「止まれ! 止まれ! 止まってくれ!」
三度警告して止まらねば、これを撃て。
妹は止まらなかった。
身に染みついた呪われた習性そのままに、俺は引き金を引いていた。その事実に、俺はぎゃっと叫ぶ。太弓が妹のほっそりした足首を引きちぎり、床が真っ赤になる様を頭に浮かぶ。
はっとする。引き金は引いていない。妹は無傷で立っている。武器に染みついた血が、俺に呪わしい幻を見せたのだ。
俺が感じたのは、恐怖なのか、安堵なのか定かではない。が、いずれにせよ、俺の体から力が抜け、クロスボウが床に転がった。
予想外な状況に狼狽するあまり、妹を攻撃しようとした。引き金を引いてしまうことを頭に描いたその事実に、俺は打ちのめされる。
「どうしてこういうことするの? お兄様?」
立っているのが難しい。俺はアンティークのチェストにもたれかかって、荒い呼吸を続ける。
「おまえを傷つけるつもりはないんだ」
「嘘つき」
妹が言って、包丁を放り捨てた。そして、唐突に明るい声を出す。
「そうだわ。ずっとお兄様から離れていたから、お兄様は私のこと忘れちゃったんだ。誰か、他の女を思うのに忙しくて、私のことなんか忘れちゃったんだ!」
「そうなのかもしれない……おまえは……俺の記憶にあるおまえと、あまりに違う……。昔のおまえは――」
「記憶の私なんて忘れて、今の私を見て」
妹は身をのけぞらせしながら、
「お兄様、こういうの好きでしょ?」
胸の膨らみを強調する。俺の記憶にある幼女体型の彼女には似合わない、実に立派な魅惑の渓谷を形作っている。
大人になったのか。
「おお……こんなに発達しているとは」
俺は、喜びとも悔やみともつかない声を漏らした。
カップに例えるなら、E……いや、F? もしやG? なおも膨らみを続けている。現在進行形で発展している。
「……いや、ちょっと拡張しすぎでは?」
俺は焦った。
そして、限界点に来た。妹のブラウスが破けて、内容物が飛び出てくる。
しかし、肉まんや餡まんといったものを想像していた、俺の甘美な幻想は打ち砕かれた。
孔の一杯空いた円柱形が二つ。レンコンではない。金属輝くそれは、バルカン砲だった。それが妹の胸から生えてきているのだ。
「これが、お兄様のずっと望んできた、私の愛……お兄様が決して避けられない愛!」
受け入れられない光景を前に、俺の頭はフリーズしていた。だが、俺の足は勝手に駆け出す。バルカン砲が回る。そして、火を吹いた。
俺は身を伏せる。光箭と、連続した銃声。
俺のすぐ背後で、ソファや調度品はもちろん、壁が一面消滅した。強力無比なバルカン砲の一斉射だった。俺は床に肩をぶつけて、回転する。直後、暴風と木っ端が俺を打った。
妹の腰が砲塔のように旋回して、胸が俺を追う。
俺の眼前で小さな扉が開いていた。そこへ身を投げ込む。俺が飛び込むや、頑丈なチタン合金の扉がぴしゃりと閉まる。
俺の屋敷には十九の部屋があるが、俺が飛び込んだのは、今この瞬間、最も役に立つ部屋。パニックルームだ。
俺は外のあらゆる危害から保護された。
霰がトタンの板を叩くような音が続いた。妹がパニックルームの扉に銃撃を加えているのだ。
分厚い扉に凹みが生ずるが、それは持ちこたえた。