SALVATION
「やったぞ……怪物を倒した」
俺は肩で息をしながら、妹の棺に駆け寄った。
妹の棺は跳弾になぶられて、表面がぼこぼこになっていた。
「無事だよな!? 無事だと言ってくれ!」
パニックの波を感じながら、棺に問わずにいられない。棺の周囲のモニターを見て、パネルを叩いた。そこから何か意味ある情報を得ようとした。
何かに、足を掴まれた。そして引きずられて、床に叩きつけられる。
金属の手が俺の足首を掴んでいる。それが、俺の見ている前で、足首を握り潰した。
「ぐああっ!」
悲鳴を上げるしかない。
「足なんて飾りよ、お兄様」
上半身だけになった怪物が迫ってくる。俺は狂乱状態のまま、怪物の顔を殴りつけたが、何の効果もない。怪物にのしかかられる。
ほとんど骨組みしか残っていない見た目ながら、それでも数百キロの重みがある。動きを封じられた。
怪物の手が優しく俺の胸に置かれ、そしてあっさりと俺の胸郭を突き破った。中からどろどろした臓器がのぞく。
俺は、自分の敗北を理解しながらも、抵抗をやめることなど出来ない。殴りつけ、どうにか怪物をどけようとする。
怪物は一切構わなかった。笑いながら、かっと口を開く。
そして、俺は頚を噛みちぎられた。
ごっそりと肉をえぐられ、真っ赤な体液が吹き出る。
俺は、無念の怨嗟も、激痛の叫びも出せなかった。代わりに、穴の空いた気道から笛のような音が漏れるだけだ。
「あああ……お兄様の血がこんなに……私のために」
怪物がうっとりと呟く。そのひしゃげた頭を振って、俺の血を飲んでいる。
馬鹿なことを。薄れ行く意識の中で俺は思う。
もともと、俺の体に血など一滴も流れていない。戦地で重度の被爆を負った俺の血液は、全て人工物に交換されている。同様に、多臓器不全に陥っていた俺の臓器も取り替えられている。
俺の体は、重量にして七十パーセントがまがい物だ。
もちろん、ミンに作らせた妹のボディとは異なり、俺のはPKOのお下がり。いつ止まるとも分からないポンコツだ。
俺は妹に専念していたので、自分の体には構わなかった。
だが、こうやって内蔵まで見せられると、自分がいかに古びて、傷ついているのか理解させられる。ああ、そうだ。人間性の欠片も残っていない俺は、怪物に食われて死ぬのがお似合いだ。
「お兄様は私のもの……」
怪物は、怪物的な顔に恍惚とした表情を浮かべている。俺の胸の上で、びくんびくんと身を震わせている。
怪物は感情をさらけ出していた
俺にこれほど無防備に近づき、無償の愛を示していいのは妹だけだ。
断じて、こんな怪物ではない。
この点はゆずれない。
俺を八つ裂きにしたとて、俺の心の中、妹のためのスペースは不可侵なのだ。
俺は目もくらむような怒りに襲われる。あまりの怒りが、停止しようとしている心臓に活を入れた。血圧が上がり、傷口から疑似体液がほとばしり出る。
手に力が入る。俺はライフルの銃把を握った。肌が焼けるほど熱い。
俺は体に残る全ての力でもって、ライフルを怪物の体の孔にねじこんだ。
数千発の銃弾を撃った直後で、銃身は溶けかけるほど熱している。
銃身が怪物の体内で回転する。怪物の内面をかき混ぜる。PKOライフルが俺の代わりに雄叫びを上げている。
怪物は俺をはね飛ばすでもなく、叩き潰して止めをさすでもない。
代わりに、至福の呻きを上げるだけだった。
なぜ怪物が戦意を喪失しているのかは分からないが、俺は構わず力を込めた。引き金を引く。
ライフルに残った弾丸は、ほんの数発だ。だが、それは怪物の体内をえぐる。怪物の腕が吹き飛んだ。
ライフルが一瞬光った。
そして、PKOライフルは妹の体、その最も奥深くで爆発した。
自分が、どういう有様なのかは知りたくない。
自分自身の体から、生命徴候が減じていくのが分かる。
右腕を伸ばそうとしたが、PKOライフルは俺の前腕を道連れにしていた。腕の切断面から弱々しく疑似体液が滴っていた。
左手をどうにか伸ばして、頭上の、未だに白い棺へ伸ばす。
頼む、開いてくれ。念じて、その表面を叩く。命をとして守った妹を、死ぬ前に一目見たい。
棺は数回火花を散らしたが、俺がしつこく表面をひっかいていると、唸りを上げた。内側からロックを外す音がする。
ふわりと棺の蓋が開いた。震える左手を、棺の縁の向こうへやる。
だが、何も触れない。俺は、左手で、体を引っ張った。ずるりと、胸と腹の穴から臓物があふれる。おかげで体が軽くなる。
俺は棺をのぞき込めた。
中は空っぽだった。俺は瞬きする。
……妹はどこだ?
これが意味する可能性を考えようとする。脳が動くのに足るほどの体液も残っていない。
ミンが避難させたのだろうか?
俺は目に見えない妹を掴もうとするかのように、しゃにむに棺の内側を探った。
内面にはうっすら埃が被っていて、俺の指の後が残った。もう、随分前からこの棺が空であることを示している。
妹がいないなんて それは間違っている。妹はどこだ? 妹をよこせ!
理解するのに耐えきれない痛みを伴う。しかし、俺にはもう時間がない。
俺はその考えが浮かぶことを許した。
妹……それは、俺の妄想に過ぎないのか?
その思いが引き金となって、過去のビジョンが蘇る。
ボロボロの脳味噌に散らばった、モザイクのような記憶がまとまっていく。まるで、騙し絵の正体が浮かび上がるようだった。
………………………………
……戦時中……民間人に偽装したアンドロイド……。重要なプロジェクトだ。
破壊工作と要人暗殺。銃後の擾乱。戦時法違反だ……だから、PKOを隠れ蓑に使う……。
アンドロイドのアイデンティティには、難民のものがいい……難民はどこにでもいる。難民の子供をさらって、それと寸分違わない偽装をアンドロイドに施す。すり替える……。
そのAIはターゲットを消すまで、決して止まらない。
その戦闘能力は、旧来の軍隊の一個中隊に相当する。
重要なプロジェクト……極めて重要だ。戦争の帰趨を……決するだろう。
試作機は大成功……量産にかかる。俺は設計図の詰まったチップを握りしめる。
その俺の上に……爆弾が降ってきた。友軍の誤爆。
金属片が俺の頭を貫く……放射線が身を炙る。
暗転……痛い……痛くて堪らない。
大量の麻薬で体の痛みは消える……。
だが、心の痛みは? 記憶と人格が失われた。欠落は大きい。大きすぎる。
……どうやって、これを埋めれば?
にやにやと笑う男が近づいてくる。俺の手を取り、俺が握りしめていたチップをとった。
俺の声が男に問う。
「……それは?」
「君が半生費やして生み出した芸術。君の娘のようなものだ」
「俺は結婚していない」
「じゃあ、君の妹か? どうでもいいことだ」
歩み去ろうとする男に、俺は頼む。懇願する。
「妹を……俺の妹を返してくれ」
………………………………
俺の喉の奥で、ごぼっと音がした。
頭の中でミンが笑っている。俺は、奴にとって脳なしのカモ。利用されていたわけだ。
奴は俺のプロジェクトを我が物にして、しかも当の俺から金を吸い上げた。
いや、あんな下衆はどうでもいい。
妹が存在しない。その事実。
俺の自我が崩れていく。
棺に頭をもたせかけた。
神よ……。罰か。俺を地獄に落とすのを待てずに、全てを奪いたもうたか。
感じたものを言葉に翻訳するのは難しい。言うなれば、苛立ちだろうか。
よかれと思って、多くを投じたにもかかわらず、失うばかりだった。この不条理な世界構造に、言いようのない苛立ちを覚える。
妹がいないという事実、それが幻想であることを強く望む。
妹が帰ってくることを望んだ以上に、強く。
しかし、事実は変わらない。妹は棺の中にいない。
所詮は、俺の中で美化された幻。あの肖像画と同じだ。
人間としてゴミである俺が、最高の妹を得ることは出来なかった。不完全なものが、完全なものを作ることは出来ないのだ。
無から有は生まれないから、俺の頭の中、妹のモデルとなるデータは根付いていた。……俺がこの手で殺した難民の少女。
どう詫びることが出来るのだろう? 俺は無意識のうちに償おうとしてきた。だが、俺は許されなかった。
血塗られた記憶が俺を妹に導いてくれることはない。二度と手が届くこともない。
俺は妹に値しなかったのだ。
俺の目から透明の液体があふれた。
涙のはずがない。そんな機能は俺の体に残っていない。眼球を保湿するための液体が逆流しているのだろう。
「愛している……わ……泣かないで……お兄さ……」
俺の傍ら、スラグの小山のような物体が囁く。原型の残っていないアンドロイドだ。まだ機能しているのだ。
怪物が、一本残った腕を弱々しく差し伸べてくる。俺は、それをぼんやりと見ていた。
「愛……して」
愛。
どうして、殺すために作られたアンドロイドがそんな感情を持っているのやら。
俺は、流れる涙をどうにもできないまま、それを見つめた。
はっとする。彼女が俺を殺そうとしたのは、断じて報復のためではない。
愛なのだ。殺すために作られた彼女は、殺すことでしかそれを表現できない。
洞察を得た。
壊死を始めている脳細胞と、神経が、スパークを散らしただけなのかもしれない。
だが、妹の他に、誰が俺のような人間を愛するというのだ。
物事は明瞭になっていく。
もやもやとしていた輪郭は形をなしていく。
俺の中で、妹の肖像画は完成した。まがい物の肌色は剥がれて、下から歪な金属の顔が見えてくる。
機械の妹。
心の中でシーソーが揺れている。妹をベースに形成された俺の精神は、妹の不在に耐えられない。だから、妹を見つけると、それはやすやすと価値観を変えて、馴染んだ。
『オリジナル』の妹なんてモノが存在しないのなら、彼女こそが俺の妹だ。
このおぞましい機械は、俺を愛している。
これは妹なのだ。
まったく理論的ではない。俺は死にかけている故に、正常な判断機能を喪失したのだろう。
だが、失うことで、俺は得ていた。
そもそも感情を論理で割ったとき、何をもって正解とするのだ。
外傷と麻薬でボロボロの俺の脳。いや、それだけではない。人間は過去の経験や慣習をもとに、それを欲望でくるんで動く動物に過ぎない。現在のテクノロジーでは、意識の共有さえ出来ない。
なにが『正しい理性』なのか。それを探ること自体、まったく理性的ではあり得ない。
ただ一つ、理性的な行動とは、理性のあらゆる試金石を捨てることに他ならないだろう。
俺は感情に従うべきなのだ。
殺したがっているのなら、殺させてやればよかった。彼女なりの俺への愛の証明なのだから。それで愛されるのならば安いものだ。
俺の中で価値あるもの。それは妹への想いだけだ。どう落ちぶれようと、それは変わらない。
ありのままに愛する。愛されるために。それ以上のものを何も望まない。
俺を長年急き立て、内側から燃やし続けてきた炎は燃え尽きた。その灰の中から光があふれる。美しい光だった。
俺は充実感に満たされていく。人生で感じたことのない幸福感だった。
俺は棺から身を離し、左手を伸ばす。そして、妹の金属の手を握った。
「お……にい……さま」
「もう、離さないぞ」
俺は言った。言葉にはならないが、彼女は理解してくれたはずだ。
俺たちは兄妹だ。心で通じ合う。
さて、俺の人生は満たされた。俺は妹の手を握っている。妹は帰ってきたのだ。もう彼女なしでは生きられそうにもない。
ただ一つ、気がかりなことがあるとすれば、この後どうなるかだ。
俺が侵した道義的な問題ではなく、妹の尊厳だ。
妹の分身達、数々のプロトタイプがこのラボで眠っている。
その潜在的な価値は莫大だ。政府であれ、民間組織であれ、ここのデータを復旧して彼らの役に立てようとするだろう。
その際に、妹のデータは無限回に分解され、研究される。
そんな恥辱は耐え難い。俺は俺以外の手が妹に触れることは許容できないのだから。
幸い、その問題は、すでに解決されようとしていた。
白い棺の上、モニターに数字が表示されている。一秒ごとに、その数が減少していく。カウントダウンに違いない。
恐らく、ミンは自分の死後、研究所が自爆するように手を打っていたのだろう。
ミンのことだから、利己的な理由によるものに違いない。だが、その手際のよさに、奇妙な感謝の念を禁じ得ない。
核爆弾でもしかけてあるのか、この海上都市そのものが水没するのか、そんなことは知らないしどうでもいい。
だが、ここに存在した証拠は残らない。妹の純潔は守られる。そして俺は、彼女を失う恐怖と戦わずに済む。
カウントダウンの数字がゼロに近づいていく。
それから目をそらして、妹の手を強く握りしめた。
時間が濃密になる。あらゆるものが光り、神聖さを増していく。荘厳な音楽が響き渡る。
その中、俺たちは白い光に包まれた。