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 俺は妹を待っている。


 いつの日か、妹がまた俺に微笑みかけてくれる。

 その日のために、俺はただ生きている。

 俺は全てを投じている。なんだってやっている。


 俺の全てをかけて、妹を取り戻す。そのために生きているのだ。




 俺は、はっと目を覚ます。

 ひどく誤ったことが起きたかのように、不安な気配があった。心臓がきしみながら、胸の中で跳ねていた。

 何かおかしなことが起きていないか?

 頭は猛烈に痛んでいる。これは、いつも通りだ。

 俺は身を起こして、テニスコート六枚分の広さのリビングルームを見渡す。人気はない。俺が主催した乱痴気騒ぎに出席したのが誰であれ、とうの昔に退散したようで、影もなかった。

 記憶はいつにも増して、モザイクのようで、そこに信用できる情報はなかった。俺は舌打ちした。

 ヘロイン吸いながら、ビールをチェイサーにアブサンをやったためだろう。麻酔科医がいうところの健忘状態になっている。それ以前に、数々の化学物質が俺の脳細胞を傷害し、大脳を萎縮させていた。

 おかげで、記憶に連続性がない。痛みを忘れるために摂っているそういったものが、俺の体を痛めつけているのは知っている。だが、そういったものなしで生きることができるほど、俺は強くもなければ、賢くもなかった。

 誰が俺を非難できるだろう。俺の人生は欠落と虚無で一杯だ。それに、代償としてなにかを放棄しなければならないことに異存はない。生きると言うことは、失うことだ。

 余計な事を削ぎ落としていって、一つのものを掴む。それだけでいいのだ。

 あらゆる富、あらゆる健康、あらゆる名声、あらゆる技能……くそくらえだ。俺が欲しいのは、たった一つのものなのだから。

 立ち上がろう。俺は心に決める。腕で体を持ち上げ、パン生地のような感覚の足を叱咤する。よろめきながらも、どうにか歩行することができる。

 くそ、俺はひどい有様だな。胸は悪く、関節は硬く、体のいろいろな場所が痛いか痒い。手で顔を擦ったが、顔についたねばつくものが、自分の反吐なのか、マスタードなのかすらよく分からない。

 ソファにかかった二千ドル相当のジャケットを拾い、マリファナの吸い殻を払って、羽織った。床には電池の切れたセクサロイドが死体のように転がっている。それに蹴躓きながら、光に惹かれる蛾のように窓際へと寄る。

 窓から見えるのは、何の変哲もない夕暮れだ。太陽はインド洋の果てのどこかへ沈んだというのに、大気中にまき散らされた何かのせいで、空気は妙に黄色っぽかった。俺の屋敷は小高い丘の上に建っているため、ここからタンジュンピナン市の海上摩天楼がよく見えた。遙か彼方で、空に向かって伸びる光は、2052年完成予定のシンガポール軌道エレベーターだ。

 第三次大戦の傷跡なんか、どこへやら、だ。

 人類滅亡のシナリオがこれだけ叫ばれているのに、我々はちっとも滅びず、しぶとく生きている。地球に僅かに残る自然と資源を燃やして、その底なしの欲望を輝かせている。

 その恩恵に授かっていてなお、吐き気を感じた。自分の属する種族への、えもいえぬ嫌悪感ゆえか、はたまた二日酔いのせいなのか、判別できなかった。

 壁のパネルを叩いて、ブラインドを下ろした。美しいものは、ここにはない。

 無駄に広いリビングを延々と歩いて抜ける。

 応接間に入った。

 左手の壁には、ご先祖の使った骨董品の武具が並ぶ。マスケットにハークィバスにクロスボウ。ジャカルタがまだパタヴィアと呼ばれていた頃に、ご先祖が東インド会社にてあくどいことをやった名残だ。武器は血の味を覚えている。

 右手の壁には、首だけになったトラや水牛の剥製がうつろな視線を投げてよこしていた。

 俺は目を合わせず、応接間を通り過ぎ、目的の部屋に入った。




 目的の部屋に入ると、おおっ、と独りでに声が漏れた。重たいながら、清らかな空気に身が震えた。

 この部屋は、肖像の間。

 そこに妹がいた。

 気温、湿度、照明が完璧に調節された部屋で、その奥に妹の肖像画がかかっている。

 これを作らす際には、文化復興局の画家達に、ユトレヒト・カラヴァッジョ主義の画法に厳密に従わせ、十七世紀以降開発されたあらゆるテクノロジーの使用を禁じた。材料である和紙も、レンブラント・インクも、すべて当時のものだ。

 結果、画家は俺の頭の中から、妹の輝く姿をそのまま抽出して、描き出した。

 高さ3.2メートル、幅1.7メートルの絵の中で、俺の愛する彼女は穏やかな表情を浮かべている。

 目や鼻梁、豊かな頭髪は繊細な線で描かれ、その美しさは、言葉で表すことが出来ない。背景の闇に、彼女の白い肌が映えている。

 独特な肖像の表現法で、全体的な輪郭はぼやけていて、果たして完成しているのか不安になることもある。

 ……これが芸術なのだろう。

 本物の妹が帰ってくれば、この絵の見え方も変わるだろう、と俺は予測している。

 俺の大脳は傷害され、役に立っているとは言いがたいが、それでも妹に関する情愛の感情だけは、今でも磨いたように鮮やかだ。この感情は、不可侵なのだ。

 もう一度、妹の顔を見上げ、静かに息を吐いた。

 美しい。

 明るさと闇、明確さと曖昧さが共存した平面。

 だが、醜さはない。妹の形をしたものに、醜さの存在する余地は、全く存在しない。

 思わず手を伸ばしたくなるが、触れることは出来ない。それをすれば絵は傷み、妹が汚れる。

 間近に見えながら、あまりに遠い。触れることは出来ない。なんという歯痒さだろう。

 まもなく、この状況にも終止符が打たれる。

 妹が俺の所に帰ってくる。絵で心を紛らわす必要もなくなる。

 俺は絵を前に跪いた。

 俺は祈る。俺は妹のために祈る。

 時間が神聖なものとなり、濃密になった。

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