妹に招待状を奪われましたが、彼が待っていたのは私でした
「こちらには、メリザを行かせます」
母は私の手から招待状を取り、妹の前に置いた。
私は返事を書こうとしていたペンを、机に下ろした。
「お母様。それは私宛てです」
「分かっています。だから、お前から妹に譲りなさいと言っているの」
メリザが封筒を引き寄せた。
表には、私の名前が書いてある。ナディーヌ様。アガート伯爵夫人が、ご自身で書いてくださった文字だった。
「晩餐会ですって。お姉様、どなたがいらっしゃるか、ご存じ?」
「少人数の集まりとしか、伺っていないわ」
「それなら、なおさらよ」
母が言った。
「あなたは大勢の前では、あまりお話ししないでしょう。メリザなら、お客様を楽しませられるわ」
少人数なのか、大勢なのか。
尋ねても、意味はない。どちらであっても、私ではなく妹を行かせる理由になる。
「夫人とは、手紙を交わしています。先日のお話の続きをと、書いてくださいました」
「何のお話?」
「庭の植物のことです」
妹が、招待状から顔を上げた。
「ああ。それなら、お姉様から聞いておけば大丈夫ね」
「私が行って、お話ししたいの」
母の指が、机を二度叩いた。
「妹に譲るだけでしょう。あなたには、また機会があります」
また。
私は、妹の手元の封筒を見た。
十七の誕生日に選んだ飾り櫛も、そう言われて譲った。
妹が鏡の前で着けてみて、欲しいとねだったからだ。私の髪より似合うと母が言い、私はまた選べばいいことになった。
買い直してもらえる日は、来なかった。
友人と菓子店へ行く約束も、妹の買い物に付き添うために断った。
次に誘われた日にも、家の用事が入った。三度目には、友人は先に予定を尋ねるようになった。
その気遣いまで、申し訳なかった。
今、妹が持っている招待状には、もう一枚、便箋が添えてある。
私はその最後の一行を、今朝、何度も読んだ。
『息子も、あなたにまたお会いできるのを楽しみにしております』
「行くのなら、お姉様の薄緑のドレスを直していただこうかしら」
妹の声がした。
母は、伯爵家へ伺うのだから新しいものを作りましょうと答えた。
「ナディーヌ。あなたは、メリザに庭のお話を教えてあげて。当日は支度も手伝うのよ」
私は二人を見た。
「代理を頼むつもりはありません。出席のお返事は、私から出します」
母の眉が上がった。
妹は封筒を押さえ、私に返さなかった。
◇
ガスパール様と会ったのは、ひと月前の園遊会だった。
我が家も招かれたが、母は妹を連れて客の輪を回り、私は少し離れて歩いていた。
母に何か尋ねられた人が私へ顔を向けても、すぐ妹が答える。私は笑って、一歩下がる。
家でも外でも、その方が話は早く進んだ。
温室の入口で、アガート伯爵夫人に声を掛けられた。
以前、母に付き添った茶会でお会いした方だ。そのとき、私が実家の庭で育てている草花について話し、後日、夫人から苗の様子を尋ねる手紙を頂いた。
それ以来、何通かやり取りをしている。
「鉢は、あちらでいいのかしら。あなたに教わったものを、庭師に用意してもらったの」
夫人の指した先には、大きな鉢が並んでいた。
私が頷くと、隣の青年が先に歩き出した。
「こちらですね」
「それは、別の鉢です」
青年の足が止まる。
夫人が笑った。
「紹介する前に、間違えましたね。息子のガスパールです」
彼は私に挨拶をしてから、鉢を見比べた。
「どこで、見分ければ?」
私は隣の鉢を示した。葉の形と、触れたときの香りが違う。
彼は私に教えられた通り、一枚の葉を指先でそっと擦った。
「本当だ。こちらは、よく知っている香りです」
「ご存じなくても、不思議ではありません。庭師は見分けられますから」
夫人が言うと、彼は首を振った。
「でも、間違えたままだと、次も同じ鉢へ行きます」
私は笑ってしまった。
彼も少し笑い、今度は正しい鉢の前へ移った。
夫人が客に呼ばれ、私たちは温室の外を歩いた。すぐ後ろには侍女がついていた。
私が話す間、彼は途中で別の人を呼ばなかった。知らないことは尋ね、分かったところで頷いた。
説明ばかりしていると気づき、私は言葉を切った。
「お好きなものでもないのに、長くお話ししてしまって」
「香りの違いを知るのは、面白かったです」
「ガスパール様は、何をなさるのがお好きですか」
彼は、町を歩くのが好きだと言った。
伯爵家の仕事を覚えるため、父親と商人に会う機会が増えた。帰りに少し遠回りをして、知らない店を見つけるのが楽しみなのだという。
「同じ通りでも、時間を変えると、ずいぶん違います。朝だけ窓を開けるパン屋があって」
「朝だけ?」
「昼には売り切れるそうです。私も、まだ一度しか買えていません」
今度は、私が尋ねる番だった。
パン屋の場所を聞き、川沿いの道について聞いた。地図でしか知らない町が、少し近くなった気がした。
「ナディーヌ」
母の声がした。
温室の向こうで、妹が手を振っている。知り合いの家を訪ねるので、出発するという。
「失礼します。母が呼んでおりますので」
彼は引き止めなかった。
ただ、別れ際に言った。
「次にお会いしたら、続きを聞かせてください」
「私も、川沿いのお話を伺いたいです」
そう答えると、彼の顔が明るくなった。
馬車に戻ると、母は誰と話していたのか尋ねた。
アガート伯爵夫人のご子息だと答えると、妹が私を見た。
「そういう方なら、私も呼んでくださればよかったのに」
その後は、妹が誰と会ったかという話になった。
私は窓の外を見ながら、次に何を尋ねようかと考えていた。
◇
招待状を取り上げられた晩、私は夫人へ手紙を書いた。
母と妹のことを、どこまで書けばよいか迷った。
怒っていることを全部書いたら、便箋は足りなくなる。けれど、代わりに妹をお願いしますと書く気はなかった。
『私は、晩餐会への出席を希望しております』
まず、その一文を書いた。
家族が妹を代理に出すつもりでいるが、私が承諾した交代ではないことを続けた。
礼を欠く連絡になることを詫び、招待してくださったことへの感謝を書いた。
手紙は、自分で使いを頼んだ。
手元の小遣いから代金を払うと、残りは少なくなった。けれど、返事を書かないまま終わるよりはよかった。
二日後、伯爵家から使いが来た。
私への手紙と、父への書状だった。
父は私を呼び、机の上に書状を置いた。
「伯爵夫人は、お前を招いたのだと書いておられる」
「はい」
「庭の見学にも来てほしいそうだ。晩餐会より早い時刻の迎えを出す、と」
母が夫人の返事を覗き込み、口を挟んだ。
「それなら、妹も一緒に伺わせればよろしいでしょう。姉妹でお話しした方が、楽しいわ」
「メリザへの招待は、ありません」
私は言った。
母の顔が険しくなる。
「まだお願いしていないからでしょう」
父は考えてから、私へ顔を向けた。
「お前は、先方の迎えで行きなさい。伯爵家のご厚意を断ることはない」
母は頷いた。
私は胸の奥で、ようやく息をつけた。
ところが、その日の夕方、母は妹の同行を知らせる手紙を書いた。
「返事が来てから、支度をなさるのですか」
尋ねると、母は封をしながら答えた。
「もう知らせたのだから、よいでしょう。メリザに会えば、夫人も喜ばれます。お父様も、ご一緒することになりました」
父は以前から、伯爵家の親しい商会主に紹介を頼みたがっていた。
家同士の集まりでは何度か顔を合わせていたが、仕事の話をするほど親しくはない。
母は今回、妹の顔を覚えてもらい、父も夫人と話す機会を得られると考えていた。
「私への招待なので、お父様たちもお席があるとは限りません」
「大きなお屋敷よ。一人二人増えても、困らないでしょう」
三人です、と言おうとして、やめた。
私は父に、追加の出席を認められたわけではないと伝えた。父は、着いたら自分からお願いすると答えた。
仕立屋からは、妹の新しい衣装が届いた。
私には新調するよう言われなかった。
持っている中で、いちばん気に入っている紺色のドレスを出した。
袖口を確かめ、ほつれた糸を切った。
当日は、母に借りるつもりだった飾りをやめた。借りれば、妹の分も整えるよう言われるかもしれない。
細い銀の鎖を着けて、鏡を見た。
これで行こうと思った。
◇
迎えの馬車には、伯爵家の侍女が同乗していた。
私の侍女も一緒に行く。
母は玄関で妹の髪を整え、私には、先に行って妹も来ると伝えておきなさいと言った。
「私から、招待をお願いすることはありません」
そう答え、馬車に乗った。
母の返事は聞かなかった。
伯爵家では、夫人が玄関まで出てきてくださった。
「よくいらっしゃいました」
私はお礼を言い、深く頭を下げた。
夫人は私を客間へ案内してから、母の手紙を受け取ったと伝えた。
「お母様には、追加の招待はできないとお返事しました。昨日の使いが、受領の控えを持ち帰っています」
私には、母から何も伝えられていなかった。
「それでも、伺うおつもりのようです。申し訳ありません」
「あなたからは、変更を頼まれていません。別のお話として扱います」
夫人は卓上の花瓶を少し動かした。
「まずは、庭へ参りましょう。あの鉢は、まだ元気ですよ」
庭にはガスパール様がいた。
私たちが近づくと、手に持っていた紙を畳んだ。
「お待ちしていました」
顔を見ると、私も笑ってしまった。
「今日は、続きを聞けますか」
「はい。私も、川沿いのお話を伺いたくて」
彼は手の紙を、また開いた。
小さな地図だった。
「説明しようとして、私も道の名前を間違えそうになったので。書いてきました」
川と橋、それからパン屋の印がある。
夫人が横から覗き、いつ描いたのですかと尋ねた。
彼は今朝ですと答えた。
私は地図を両手で受け取った。
植物を見に来たはずなのに、先に町の話になった。
夫人も、この橋は馬車で通ったことがあると話に加わった。
庭の鉢を見るときには、ガスパール様が前と違うものを指した。
「こちらですね」
「正解です」
彼はほっとした顔をした。
覚えていてくださったことが、嬉しかった。
家族が来ることを、忘れたわけではない。
それでも、その時刻まで、私は自分の話をした。
夫人の話を聞き、彼に尋ね、笑った。
◇
晩餐の支度を知らせる侍女が、夫人に何か耳打ちした。
夫人は私を見て、応接室で待っていてよいと言った。
「ご家族がお着きになりました」
私は膝の上で指を握った。
「私も、伺います」
夫人は少し考え、頷いた。
ガスパール様も一緒に、玄関脇の応接室へ入った。
母は妹の肩に手を置き、父は扉のそばに立っていた。
私の顔を見ると、母は一瞬黙った。
「まあ、ナディーヌ。もう庭を見せていただいたの?」
「はい。夫人に、ご案内いただきました」
妹は私の隣にいるガスパール様へ目を向けた。
母が夫人に挨拶をし、娘たちを改めて紹介する。
「妹のメリザです。この子も、庭の話を伺うのを楽しみにしておりまして」
「お出かけ前に、お返事はお読みになりましたか」
夫人が尋ねた。
母の笑みが、少し固くなる。
「拝読しました。ただ、家族で伺えば、事情をご説明できるかと」
「追加の招待はできないと、お伝えしました」
父が、一歩前へ出た。
「追加のお席は無理でも、娘同士の交代ならお願いできませんか」
母が返事を隠していたことよりも、今、妹を残す方法を考えているらしかった。
「一度だけ、娘をお引き合わせ願えませんか。ナディーヌは既に庭を拝見したのですから、晩餐はメリザに」
妹が、私を見た。
「そうしていただければ、お席も足りますわね」
私は母と父の間を見た。
帰りの馬車に、私を乗せれば済むと思っている。
庭を見るところまでは許しても、食卓には妹を座らせる。
「私は、晩餐会にも出席したいです」
母が小さく息を吸った。
「ナディーヌ、ここでそんな――」
「ナディーヌさんは、私の客です」
夫人の声は、大きくなかった。
「ご本人が帰るとおっしゃったわけでもないのに、お席を別の方へ渡すことはありません」
母は妹の肩に置いた手を引いた。
「この子は、大勢の前では話が続かないこともありまして。メリザの方が」
「先ほどまで、私たちは楽しくお話ししていましたよ」
夫人が言った。
ガスパール様も、頷いた。
「まだ、伺いたいことが残っています」
妹は彼へ、笑顔を向けた。
「私も、お姉様に教えていただいたんです。何でも聞いてくださいませ」
私は教えていない。訂正しようと口を開く前に、彼が答えた。
「ありがとうございます。ただ、今日はお姉様にお話の続きをお願いしています」
妹の笑顔が、止まった。
彼は試すような質問をしなかった。妹が答えられるかどうかは、問題ではなかった。
夫人は父へ向き直った。
「皆様のお席は、ご用意しておりません。ナディーヌさんは、会の後、こちらの馬車でお送りします」
父は口を開きかけた。
母も何か言おうとしたが、夫人は侍女に、玄関まで案内するよう頼んだ。
妹が、私のそばへ来た。
「お姉様だけ残るの?」
家でも聞いた声だった。
私が自分の約束を守ろうとするたび、妹は置いていかれる側になる。
「ええ。招いていただいたから」
私は、彼女の手を取らなかった。
扉が閉まると、息が一度に出た。
父と母の顔が、頭から離れない。帰ったら、何と言われるだろう。
「少し、お休みになりますか」
夫人に聞かれ、私は頷いた。
ガスパール様は侍女へ水を頼み、私から少し離れた椅子に座った。
「申し訳ありません。せっかくの会なのに」
「あなたは、お願いされた時刻に来てくださいました」
夫人が言った。
「お帰りになって、今日のことを別の話にされるようなら、こちらへ知らせてください。私からも、お父様へ経緯をお送りします」
私はお礼を言った。
ガスパール様が、卓上に地図を置いた。
「続きは、お水を飲んでからにしましょう」
私は頷き、カップを受け取った。
食卓には、私の名前を書いた札があった。
席に着くと、夫人が隣の客を紹介してくれた。
何度も話題を振られ、途中で分からない話になれば、尋ねた。
ガスパール様がパン屋の話をすると、一人の客が、その店は妹夫婦がよく買いに行くと言った。
私もその話に加わった。
皿が下げられるまで、一度も席を譲るように言われなかった。
◇
帰りの馬車には、伯爵家の侍女がついてくれた。
父は玄関で待っていた。
「遅かったな」
「晩餐会の終わる時刻は、書状にありました」
父は侍女を見て、口を閉じた。
彼女は夫人から預かった書状を渡し、私が帰宅したことを確かめてから帰っていった。
居間には、母と妹がいた。
妹は新しいドレスのまま、目元を赤くしていた。
「夫人に、何と書いたの」
母が尋ねた。
「自分が出席したいと書きました」
「それだけで、あんな態度になるはずがないでしょう。あなたは、妹を悪く言ったのね」
私は書状を開けようとしていた父を見た。
「私の手紙の控えもあります。持ってきます」
母が何か言ったが、部屋へ戻った。
控えは、引き出しに入れてある。封をする前に、何を書いたか残しておこうと写しておいた。
父の前へ置くと、母も身を寄せた。
出席を望むこと。交代には承諾していないこと。
妹の容姿も、性格も、一言も書いていない。
「……家族のことを、外へ持ち出したのか」
父が言った。
「私の招待を変更しようとなさったので、先方にお伝えしました」
「私たちを妬んでいると思われたわ」
妹が口を挟む。
「ガスパール様の前で、あんなことを」
「私は、あなたを悪く言っていないわ」
父は夫人の書状を読んだ。
追加の招待を断ったこと。母がそれを承知して来たこと。父からも、私の席を妹に渡すよう求められたこと。
最後に、私の出席や手紙に、失礼はなかったと記されていた。
「返事は来ていないと言っていたな」
父が母を見る。
母は視線を逸らした。
「直接お願いすれば、考え直していただけると思ったのです」
父はしばらく黙った。
母を叱れば終わるわけではない。あの応接室で、私を帰すように言ったのは父だった。
「謝罪の返事を書く」
父は書状を畳んだ。
「ナディーヌ、お前からも――」
「私から、何を謝るのですか」
父の手が止まった。
私は続けなかった。
母も妹も、私の方を見ていた。
その夜、私に謝れと言う人は、いなかった。
父は母に、私宛ての手紙を取り上げたり、伯爵家との約束を勝手に変えたりしないよう言った。
「先方は、ナディーヌ本人の希望を確かめておられる。これ以上、こちらから話を違えるわけにはいかない」
私の気持ちを分かってくれたのかは、分からない。それでも、母はその場では頷いた。
◇
数日後、夫人から私宛てに、手紙が届いた。
晩餐会で話題になった本の名前と、また庭へいらっしゃいという誘いだった。さらに、まずは息子と二人で我が家を訪ねてもよいかと、父への取り次ぎを頼む一文があった。
ガスパール様からの便箋も入っていた。
『あのパン屋へ行けました。お好きであれば、次の訪問の折に持参してもよいでしょうか』
私は、お願いしますと書いた。
父は訪問を認めた。前の会でのことを詫びるためにも、今度は正式な申し入れを断れなかったのだろう。
母はメリザも同席すると言ったが、私は父に、私への訪問として返事をしてほしいと頼んだ。
父は招待をめぐる書状を見直し、その通りの返事を出した。
訪問の日、彼はパンを持ってきた。
薄く切ったものを一口食べると、思っていたより固かった。
「……歯が丈夫になりますね」
彼が言った。
私は笑いそうになり、口を押さえた。
「そのお店の一番人気なの?」
「いつも買える方だそうです。人気のものは、間に合いませんでした」
同席した夫人も笑った。
私たちは紅茶に浸しながら、そのパンを食べた。
母は後から、何のお話をしたのか尋ねた。
パンが固かったと答えると、そんな話をしたのかと眉を寄せた。
私は、楽しかったですと返した。
それから、会う約束が少しずつ増えた。
夫人の同席する茶会や、少人数の庭の集まり。手紙は、私宛てに届いた。
ガスパール様は、私が庭の話を好きだからと、毎回、植物について調べてきた。
ある日、珍しい木の説明を聞き終えて、私は尋ねた。
「今日は、町を歩いていらっしゃらないの?」
「ええ。これを調べていたら、時間がなくなって」
私は、彼の持っていた本を見た。
「あなたの好きなお話も、聞きたいです」
「川沿いの道ですか」
「それも。できれば、行ってみたいわ」
彼が顔を上げた。
「一緒に?」
「ご迷惑でなければ」
夫人が、二人から少し離れた席で、お茶を飲んでいた。
彼は私を見たまま頷いた。
「ご案内します。母にも、予定を聞いておきます」
出かけたのは、その十日後だった。
夫人と侍女が一緒で、馬車を降りてから、川沿いを歩いた。
彼は、道を間違えた。
「こちらからなら、近いと思ったんですが」
橋へ出るはずが、倉庫の裏だった。
夫人が、いつも遠回りばかりしているからと息子をからかった。
「普段は、誰かを案内するつもりで歩いていないので」
彼は真面目に答えた。
私は笑い、来た道を一緒に戻った。
橋の上からは、両岸に並ぶ屋根が見えた。
水のそばで働く人も、対岸で洗濯物を取り込む人もいる。
庭とは違う、いくつもの家の暮らしが見えた。
「また来たいです」
言うと、彼は嬉しそうに橋の向こうを指した。
「丘の上にも、見晴らしのいい場所があります。次は、道を確かめておきます」
「迷っても、一緒に戻れますよ」
彼が私を見た。
私は少し恥ずかしくなり、川へ目を戻した。
帰宅してから、橋の上で彼が何を言ったか、何度も思い出した。
次の手紙には、私から行きたい日を書いた。
◇
伯爵家から、母と妹への招待は来なかった。
父は謝罪の書状を送ったが、夫人からは、当面、家族揃っての招待を控えると返事があった。
以前から続いていた家同士の茶会への招待も、止まった。
母は他の知り合いの集まりへ、妹を連れていった。
社交のすべてを失ったわけではない。それでも、伯爵家から誘われなくなった理由を尋ねられると、答えに詰まった。
父が望んでいた商会主への紹介も、夫人は引き受けなかった。
娘への招待を、自分の用件を通す場へ変えようとした人の取り次ぎはできない、と。
父の仕事そのものがなくなるわけではない。必要なら、自分で商会へ話を通すしかなかった。
「お前から、頼めないか」
父は一度、私に尋ねた。
「私は、その商会について知りません。お父様のお仕事のお願いはできません」
私はそう答えた。
父は不満そうだったが、私にできるのは、夫人へ父の言葉を運ぶことだけだ。その言葉に責任を持てなかった。
妹は、最初のうちは私の訪問に同行したがった。
断られると、来た手紙を読ませてと言うようになった。
「お姉様だけ、お話が分かるのはずるいわ」
私は封筒を机の引き出しへ入れた。
「あなたへのお手紙ではないから」
妹は唇を尖らせた。
私は見せないと言って、引き出しを閉めた。鍵を回し、小さな鍵を自分のポケットへ入れた。
◇
秋の庭は、歩くたびに足元で葉が鳴った。
夫人は少し離れた椅子に座り、私たちは並んで小道を歩いた。
「次は、いつお会いできるでしょう」
彼が尋ねた。
私は来週ならと答え、続けて、私ばかりお願いしていませんかと聞いた。
「あなたのお仕事の予定も、知りたいです」
「そうですね。来週の初めは、父と出かけます。戻るのは水曜です」
「では、金曜は?」
「空けておきます」
すぐに答えた後、彼は少し黙った。
歩く速さが、ゆっくりになった。
「母の茶会にお誘いする形ばかりではなくて」
私は顔を上げた。
「私自身が、お会いしたいと申し上げてもいいでしょうか」
彼の手が、上着の前で少し動いた。
「園遊会で話が途中になったとき、まだ話したいと思いました。あの晩餐会でも。帰られた後は、次は何を話そうかと考えていました」
私は足を止めた。
彼も止まった。
「私も、そうです」
声が小さくなった。
「お手紙が来ると、先に予定を確かめてしまいます。会える日を決めてから、返事を書きたくなるんです」
彼が笑った。
私も笑い、けれど目は逸らせなかった。
「ナディーヌさん。私と、お付き合いしていただけますか」
私は頷いた。
「はい。私も、あなたに会いたいです」
彼は夫人の方を一度見た。夫人は私たちを見ていたが、こちらへ来ようとはしなかった。
「ご両親へ、正式にお願いに伺います。父にも話をします」
私は、その言葉にまた頷いた。
彼は手を差し出した。
「手を、取っても?」
私は自分から、その手に触れた。
少し冷えていた指が、重なると温かくなった。
◇
翌週の金曜にも、約束通り彼に会った。その後、彼と伯爵が我が家へ訪れ、両家で交際の話がまとまったのは、告白から半月ほど経ってからだった。
父は私の返事を確かめ、伯爵へ承諾を伝えた。母も、伯爵家からの正式な申し入れには反対しなかった。
その翌日、居間へ呼ばれた。
母と妹が待っていた。
「よいお話になったわね」
母は、いつもより柔らかい声で言った。
「これで、先日のことも済んだでしょう。次の茶会には、メリザも一緒に行かせてちょうだい」
私は立ったまま、二人を見た。
「それは、別のお話です」
「別ではないでしょう。いずれ親族になるのよ」
妹が身を乗り出した。
「お姉様が一言、私も呼んでって言ってくだされば済むでしょう?」
母が頷いた。
いつもなら、私が手紙を書くところだった。
誰かにお願いをして、誰かに謝って、妹が望んだ形へ整える。
「私が行きたいと言ったときは、聞いてくれなかったでしょう」
妹の顔が強張った。
「あのときは、私も行きたかったのよ」
「私も、そうだったわ」
母が口を挟んだ。
「昔のことを、いつまでも。今は、家族のために――」
「お母様たちは、追加の招待を断られた後に伺いました。私を帰すようにもお願いしました。そのことを、夫人は問題にしておられます」
私は息をついた。
「お二人から、私にも謝っていただいていません」
妹は私を見たまま、黙った。
母は扇を手に取ったが、開かなかった。
「謝れば、連れていってくださるの?」
妹が尋ねた。
「招くかどうかは、夫人がお決めになることよ。私が、帳消しにしてくださいと頼むことはありません」
妹の目に、涙が浮かんだ。
「もう仲間外れにするのは、やめて」
私は胸が痛くなった。
妹が泣くと、いつも自分が悪いような気がした。
「家の茶会には、あなたも出ているでしょう。私の誘いまで、あなたのものにはできないわ」
私は、そこで話を終えた。
母にもう一度呼ばれたが、振り向いて、頼みは引き受けませんと答えた。
数日後、父も伯爵へ、母と妹を会へ迎えてもらえないかと申し入れた。
返事は、変わらなかった。
交際は、私とガスパール様の希望として進める。家族への招待や仕事の紹介を約束するものではない。今後、同じ要求は控えてほしい。
父はその書状を、私にも見せた。
私に取り次がせる余地は、もうなかった。
「お母様とメリザへの招待は、私に頼まないでください」
私は言った。
父は、分かったとだけ答えた。
◇
交際が決まってから、初めて彼の家を訪ねる日。私は好きな紺色のドレスを着ていった。
母には、帰りの時刻だけ伝えた。妹の支度を頼まれることはなかった。
庭で、ガスパール様が迎えてくれた。
手を取る前に、私は鞄から一枚の紙を出した。
「地図を、返そうと思って」
彼が園遊会の続きに用意してくれたものだった。
橋とパン屋の印の隣に、丘の上の道が書き足してある。
「お持ちいただいていて、構いませんよ」
「では、もう少し。次に行きたい場所も、書き込んでいいですか」
彼は頷いた。
私は紙を畳み、鞄へしまった。
彼が差し出した手を取り、並んで歩き始めた。
夫人は庭師と話しながら、後ろを歩いている。
私たちは、温室のそばで足を止めた。
「母には、冬の鉢の置き場所を相談したいと言われています」
彼が言った。
「また、教えていただけますか」
「もちろん。でも、今日は先に」
私は彼を見た。
「もう少し、一緒に歩きたいです」
言うと、彼の指が私の手を握り直した。
「私も、そのつもりでした」
帰るまで、まだ時間があった。
私は温室に入るのを後にして、彼と小道を歩き始めた。
川沿いに新しい店を見つけたと、彼が話し始める。
どんな店か尋ねた。
返事を聞きながら、私は次に出かける日のことを考えていた。




