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妹に招待状を奪われましたが、彼が待っていたのは私でした

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/10

「こちらには、メリザを行かせます」


 母は私の手から招待状を取り、妹の前に置いた。

 私は返事を書こうとしていたペンを、机に下ろした。


「お母様。それは私宛てです」

「分かっています。だから、お前から妹に譲りなさいと言っているの」


 メリザが封筒を引き寄せた。

 表には、私の名前が書いてある。ナディーヌ様。アガート伯爵夫人が、ご自身で書いてくださった文字だった。


「晩餐会ですって。お姉様、どなたがいらっしゃるか、ご存じ?」

「少人数の集まりとしか、伺っていないわ」

「それなら、なおさらよ」


 母が言った。


「あなたは大勢の前では、あまりお話ししないでしょう。メリザなら、お客様を楽しませられるわ」


 少人数なのか、大勢なのか。

 尋ねても、意味はない。どちらであっても、私ではなく妹を行かせる理由になる。


「夫人とは、手紙を交わしています。先日のお話の続きをと、書いてくださいました」

「何のお話?」

「庭の植物のことです」


 妹が、招待状から顔を上げた。


「ああ。それなら、お姉様から聞いておけば大丈夫ね」

「私が行って、お話ししたいの」


 母の指が、机を二度叩いた。


「妹に譲るだけでしょう。あなたには、また機会があります」


 また。

 私は、妹の手元の封筒を見た。


 十七の誕生日に選んだ飾り櫛も、そう言われて譲った。

 妹が鏡の前で着けてみて、欲しいとねだったからだ。私の髪より似合うと母が言い、私はまた選べばいいことになった。

 買い直してもらえる日は、来なかった。


 友人と菓子店へ行く約束も、妹の買い物に付き添うために断った。

 次に誘われた日にも、家の用事が入った。三度目には、友人は先に予定を尋ねるようになった。

 その気遣いまで、申し訳なかった。


 今、妹が持っている招待状には、もう一枚、便箋が添えてある。

 私はその最後の一行を、今朝、何度も読んだ。


『息子も、あなたにまたお会いできるのを楽しみにしております』


「行くのなら、お姉様の薄緑のドレスを直していただこうかしら」


 妹の声がした。

 母は、伯爵家へ伺うのだから新しいものを作りましょうと答えた。


「ナディーヌ。あなたは、メリザに庭のお話を教えてあげて。当日は支度も手伝うのよ」


 私は二人を見た。


「代理を頼むつもりはありません。出席のお返事は、私から出します」


 母の眉が上がった。

 妹は封筒を押さえ、私に返さなかった。


     ◇


 ガスパール様と会ったのは、ひと月前の園遊会だった。


 我が家も招かれたが、母は妹を連れて客の輪を回り、私は少し離れて歩いていた。

 母に何か尋ねられた人が私へ顔を向けても、すぐ妹が答える。私は笑って、一歩下がる。

 家でも外でも、その方が話は早く進んだ。


 温室の入口で、アガート伯爵夫人に声を掛けられた。

 以前、母に付き添った茶会でお会いした方だ。そのとき、私が実家の庭で育てている草花について話し、後日、夫人から苗の様子を尋ねる手紙を頂いた。

 それ以来、何通かやり取りをしている。


「鉢は、あちらでいいのかしら。あなたに教わったものを、庭師に用意してもらったの」


 夫人の指した先には、大きな鉢が並んでいた。

 私が頷くと、隣の青年が先に歩き出した。


「こちらですね」

「それは、別の鉢です」


 青年の足が止まる。

 夫人が笑った。


「紹介する前に、間違えましたね。息子のガスパールです」


 彼は私に挨拶をしてから、鉢を見比べた。


「どこで、見分ければ?」


 私は隣の鉢を示した。葉の形と、触れたときの香りが違う。

 彼は私に教えられた通り、一枚の葉を指先でそっと擦った。


「本当だ。こちらは、よく知っている香りです」

「ご存じなくても、不思議ではありません。庭師は見分けられますから」


 夫人が言うと、彼は首を振った。


「でも、間違えたままだと、次も同じ鉢へ行きます」


 私は笑ってしまった。

 彼も少し笑い、今度は正しい鉢の前へ移った。


 夫人が客に呼ばれ、私たちは温室の外を歩いた。すぐ後ろには侍女がついていた。

 私が話す間、彼は途中で別の人を呼ばなかった。知らないことは尋ね、分かったところで頷いた。

 説明ばかりしていると気づき、私は言葉を切った。


「お好きなものでもないのに、長くお話ししてしまって」

「香りの違いを知るのは、面白かったです」

「ガスパール様は、何をなさるのがお好きですか」


 彼は、町を歩くのが好きだと言った。

 伯爵家の仕事を覚えるため、父親と商人に会う機会が増えた。帰りに少し遠回りをして、知らない店を見つけるのが楽しみなのだという。


「同じ通りでも、時間を変えると、ずいぶん違います。朝だけ窓を開けるパン屋があって」

「朝だけ?」

「昼には売り切れるそうです。私も、まだ一度しか買えていません」


 今度は、私が尋ねる番だった。

 パン屋の場所を聞き、川沿いの道について聞いた。地図でしか知らない町が、少し近くなった気がした。


「ナディーヌ」


 母の声がした。

 温室の向こうで、妹が手を振っている。知り合いの家を訪ねるので、出発するという。


「失礼します。母が呼んでおりますので」


 彼は引き止めなかった。

 ただ、別れ際に言った。


「次にお会いしたら、続きを聞かせてください」

「私も、川沿いのお話を伺いたいです」


 そう答えると、彼の顔が明るくなった。


 馬車に戻ると、母は誰と話していたのか尋ねた。

 アガート伯爵夫人のご子息だと答えると、妹が私を見た。


「そういう方なら、私も呼んでくださればよかったのに」


 その後は、妹が誰と会ったかという話になった。

 私は窓の外を見ながら、次に何を尋ねようかと考えていた。


     ◇


 招待状を取り上げられた晩、私は夫人へ手紙を書いた。


 母と妹のことを、どこまで書けばよいか迷った。

 怒っていることを全部書いたら、便箋は足りなくなる。けれど、代わりに妹をお願いしますと書く気はなかった。


『私は、晩餐会への出席を希望しております』


 まず、その一文を書いた。

 家族が妹を代理に出すつもりでいるが、私が承諾した交代ではないことを続けた。

 礼を欠く連絡になることを詫び、招待してくださったことへの感謝を書いた。


 手紙は、自分で使いを頼んだ。

 手元の小遣いから代金を払うと、残りは少なくなった。けれど、返事を書かないまま終わるよりはよかった。


 二日後、伯爵家から使いが来た。

 私への手紙と、父への書状だった。


 父は私を呼び、机の上に書状を置いた。


「伯爵夫人は、お前を招いたのだと書いておられる」

「はい」

「庭の見学にも来てほしいそうだ。晩餐会より早い時刻の迎えを出す、と」


 母が夫人の返事を覗き込み、口を挟んだ。


「それなら、妹も一緒に伺わせればよろしいでしょう。姉妹でお話しした方が、楽しいわ」

「メリザへの招待は、ありません」


 私は言った。

 母の顔が険しくなる。


「まだお願いしていないからでしょう」


 父は考えてから、私へ顔を向けた。


「お前は、先方の迎えで行きなさい。伯爵家のご厚意を断ることはない」


 母は頷いた。

 私は胸の奥で、ようやく息をつけた。


 ところが、その日の夕方、母は妹の同行を知らせる手紙を書いた。


「返事が来てから、支度をなさるのですか」


 尋ねると、母は封をしながら答えた。


「もう知らせたのだから、よいでしょう。メリザに会えば、夫人も喜ばれます。お父様も、ご一緒することになりました」


 父は以前から、伯爵家の親しい商会主に紹介を頼みたがっていた。

 家同士の集まりでは何度か顔を合わせていたが、仕事の話をするほど親しくはない。

 母は今回、妹の顔を覚えてもらい、父も夫人と話す機会を得られると考えていた。


「私への招待なので、お父様たちもお席があるとは限りません」

「大きなお屋敷よ。一人二人増えても、困らないでしょう」


 三人です、と言おうとして、やめた。

 私は父に、追加の出席を認められたわけではないと伝えた。父は、着いたら自分からお願いすると答えた。


 仕立屋からは、妹の新しい衣装が届いた。

 私には新調するよう言われなかった。

 持っている中で、いちばん気に入っている紺色のドレスを出した。


 袖口を確かめ、ほつれた糸を切った。

 当日は、母に借りるつもりだった飾りをやめた。借りれば、妹の分も整えるよう言われるかもしれない。

 細い銀の鎖を着けて、鏡を見た。

 これで行こうと思った。


     ◇


 迎えの馬車には、伯爵家の侍女が同乗していた。

 私の侍女も一緒に行く。

 母は玄関で妹の髪を整え、私には、先に行って妹も来ると伝えておきなさいと言った。


「私から、招待をお願いすることはありません」


 そう答え、馬車に乗った。

 母の返事は聞かなかった。


 伯爵家では、夫人が玄関まで出てきてくださった。


「よくいらっしゃいました」


 私はお礼を言い、深く頭を下げた。

 夫人は私を客間へ案内してから、母の手紙を受け取ったと伝えた。


「お母様には、追加の招待はできないとお返事しました。昨日の使いが、受領の控えを持ち帰っています」


 私には、母から何も伝えられていなかった。


「それでも、伺うおつもりのようです。申し訳ありません」

「あなたからは、変更を頼まれていません。別のお話として扱います」


 夫人は卓上の花瓶を少し動かした。


「まずは、庭へ参りましょう。あの鉢は、まだ元気ですよ」


 庭にはガスパール様がいた。

 私たちが近づくと、手に持っていた紙を畳んだ。


「お待ちしていました」


 顔を見ると、私も笑ってしまった。


「今日は、続きを聞けますか」

「はい。私も、川沿いのお話を伺いたくて」


 彼は手の紙を、また開いた。

 小さな地図だった。


「説明しようとして、私も道の名前を間違えそうになったので。書いてきました」


 川と橋、それからパン屋の印がある。

 夫人が横から覗き、いつ描いたのですかと尋ねた。

 彼は今朝ですと答えた。


 私は地図を両手で受け取った。

 植物を見に来たはずなのに、先に町の話になった。

 夫人も、この橋は馬車で通ったことがあると話に加わった。


 庭の鉢を見るときには、ガスパール様が前と違うものを指した。


「こちらですね」

「正解です」


 彼はほっとした顔をした。

 覚えていてくださったことが、嬉しかった。


 家族が来ることを、忘れたわけではない。

 それでも、その時刻まで、私は自分の話をした。

 夫人の話を聞き、彼に尋ね、笑った。


     ◇


 晩餐の支度を知らせる侍女が、夫人に何か耳打ちした。

 夫人は私を見て、応接室で待っていてよいと言った。


「ご家族がお着きになりました」


 私は膝の上で指を握った。


「私も、伺います」


 夫人は少し考え、頷いた。

 ガスパール様も一緒に、玄関脇の応接室へ入った。


 母は妹の肩に手を置き、父は扉のそばに立っていた。

 私の顔を見ると、母は一瞬黙った。


「まあ、ナディーヌ。もう庭を見せていただいたの?」

「はい。夫人に、ご案内いただきました」


 妹は私の隣にいるガスパール様へ目を向けた。

 母が夫人に挨拶をし、娘たちを改めて紹介する。


「妹のメリザです。この子も、庭の話を伺うのを楽しみにしておりまして」

「お出かけ前に、お返事はお読みになりましたか」


 夫人が尋ねた。

 母の笑みが、少し固くなる。


「拝読しました。ただ、家族で伺えば、事情をご説明できるかと」

「追加の招待はできないと、お伝えしました」


 父が、一歩前へ出た。


「追加のお席は無理でも、娘同士の交代ならお願いできませんか」


 母が返事を隠していたことよりも、今、妹を残す方法を考えているらしかった。


「一度だけ、娘をお引き合わせ願えませんか。ナディーヌは既に庭を拝見したのですから、晩餐はメリザに」


 妹が、私を見た。


「そうしていただければ、お席も足りますわね」


 私は母と父の間を見た。

 帰りの馬車に、私を乗せれば済むと思っている。

 庭を見るところまでは許しても、食卓には妹を座らせる。


「私は、晩餐会にも出席したいです」


 母が小さく息を吸った。


「ナディーヌ、ここでそんな――」

「ナディーヌさんは、私の客です」


 夫人の声は、大きくなかった。


「ご本人が帰るとおっしゃったわけでもないのに、お席を別の方へ渡すことはありません」


 母は妹の肩に置いた手を引いた。


「この子は、大勢の前では話が続かないこともありまして。メリザの方が」

「先ほどまで、私たちは楽しくお話ししていましたよ」


 夫人が言った。

 ガスパール様も、頷いた。


「まだ、伺いたいことが残っています」


 妹は彼へ、笑顔を向けた。


「私も、お姉様に教えていただいたんです。何でも聞いてくださいませ」


 私は教えていない。訂正しようと口を開く前に、彼が答えた。


「ありがとうございます。ただ、今日はお姉様にお話の続きをお願いしています」


 妹の笑顔が、止まった。

 彼は試すような質問をしなかった。妹が答えられるかどうかは、問題ではなかった。


 夫人は父へ向き直った。


「皆様のお席は、ご用意しておりません。ナディーヌさんは、会の後、こちらの馬車でお送りします」


 父は口を開きかけた。

 母も何か言おうとしたが、夫人は侍女に、玄関まで案内するよう頼んだ。


 妹が、私のそばへ来た。


「お姉様だけ残るの?」


 家でも聞いた声だった。

 私が自分の約束を守ろうとするたび、妹は置いていかれる側になる。


「ええ。招いていただいたから」


 私は、彼女の手を取らなかった。


 扉が閉まると、息が一度に出た。

 父と母の顔が、頭から離れない。帰ったら、何と言われるだろう。


「少し、お休みになりますか」


 夫人に聞かれ、私は頷いた。

 ガスパール様は侍女へ水を頼み、私から少し離れた椅子に座った。


「申し訳ありません。せっかくの会なのに」

「あなたは、お願いされた時刻に来てくださいました」


 夫人が言った。


「お帰りになって、今日のことを別の話にされるようなら、こちらへ知らせてください。私からも、お父様へ経緯をお送りします」


 私はお礼を言った。

 ガスパール様が、卓上に地図を置いた。


「続きは、お水を飲んでからにしましょう」


 私は頷き、カップを受け取った。


 食卓には、私の名前を書いた札があった。

 席に着くと、夫人が隣の客を紹介してくれた。

 何度も話題を振られ、途中で分からない話になれば、尋ねた。


 ガスパール様がパン屋の話をすると、一人の客が、その店は妹夫婦がよく買いに行くと言った。

 私もその話に加わった。

 皿が下げられるまで、一度も席を譲るように言われなかった。


     ◇


 帰りの馬車には、伯爵家の侍女がついてくれた。

 父は玄関で待っていた。


「遅かったな」

「晩餐会の終わる時刻は、書状にありました」


 父は侍女を見て、口を閉じた。

 彼女は夫人から預かった書状を渡し、私が帰宅したことを確かめてから帰っていった。


 居間には、母と妹がいた。

 妹は新しいドレスのまま、目元を赤くしていた。


「夫人に、何と書いたの」


 母が尋ねた。


「自分が出席したいと書きました」

「それだけで、あんな態度になるはずがないでしょう。あなたは、妹を悪く言ったのね」


 私は書状を開けようとしていた父を見た。


「私の手紙の控えもあります。持ってきます」


 母が何か言ったが、部屋へ戻った。

 控えは、引き出しに入れてある。封をする前に、何を書いたか残しておこうと写しておいた。


 父の前へ置くと、母も身を寄せた。

 出席を望むこと。交代には承諾していないこと。

 妹の容姿も、性格も、一言も書いていない。


「……家族のことを、外へ持ち出したのか」


 父が言った。


「私の招待を変更しようとなさったので、先方にお伝えしました」

「私たちを妬んでいると思われたわ」


 妹が口を挟む。


「ガスパール様の前で、あんなことを」

「私は、あなたを悪く言っていないわ」


 父は夫人の書状を読んだ。

 追加の招待を断ったこと。母がそれを承知して来たこと。父からも、私の席を妹に渡すよう求められたこと。

 最後に、私の出席や手紙に、失礼はなかったと記されていた。


「返事は来ていないと言っていたな」


 父が母を見る。

 母は視線を逸らした。


「直接お願いすれば、考え直していただけると思ったのです」


 父はしばらく黙った。

 母を叱れば終わるわけではない。あの応接室で、私を帰すように言ったのは父だった。


「謝罪の返事を書く」


 父は書状を畳んだ。


「ナディーヌ、お前からも――」

「私から、何を謝るのですか」


 父の手が止まった。

 私は続けなかった。

 母も妹も、私の方を見ていた。


 その夜、私に謝れと言う人は、いなかった。


 父は母に、私宛ての手紙を取り上げたり、伯爵家との約束を勝手に変えたりしないよう言った。


「先方は、ナディーヌ本人の希望を確かめておられる。これ以上、こちらから話を違えるわけにはいかない」


 私の気持ちを分かってくれたのかは、分からない。それでも、母はその場では頷いた。


     ◇


 数日後、夫人から私宛てに、手紙が届いた。

 晩餐会で話題になった本の名前と、また庭へいらっしゃいという誘いだった。さらに、まずは息子と二人で我が家を訪ねてもよいかと、父への取り次ぎを頼む一文があった。

 ガスパール様からの便箋も入っていた。


『あのパン屋へ行けました。お好きであれば、次の訪問の折に持参してもよいでしょうか』


 私は、お願いしますと書いた。

 父は訪問を認めた。前の会でのことを詫びるためにも、今度は正式な申し入れを断れなかったのだろう。


 母はメリザも同席すると言ったが、私は父に、私への訪問として返事をしてほしいと頼んだ。

 父は招待をめぐる書状を見直し、その通りの返事を出した。


 訪問の日、彼はパンを持ってきた。

 薄く切ったものを一口食べると、思っていたより固かった。


「……歯が丈夫になりますね」


 彼が言った。

 私は笑いそうになり、口を押さえた。


「そのお店の一番人気なの?」

「いつも買える方だそうです。人気のものは、間に合いませんでした」


 同席した夫人も笑った。

 私たちは紅茶に浸しながら、そのパンを食べた。


 母は後から、何のお話をしたのか尋ねた。

 パンが固かったと答えると、そんな話をしたのかと眉を寄せた。

 私は、楽しかったですと返した。


 それから、会う約束が少しずつ増えた。

 夫人の同席する茶会や、少人数の庭の集まり。手紙は、私宛てに届いた。


 ガスパール様は、私が庭の話を好きだからと、毎回、植物について調べてきた。

 ある日、珍しい木の説明を聞き終えて、私は尋ねた。


「今日は、町を歩いていらっしゃらないの?」

「ええ。これを調べていたら、時間がなくなって」


 私は、彼の持っていた本を見た。


「あなたの好きなお話も、聞きたいです」

「川沿いの道ですか」

「それも。できれば、行ってみたいわ」


 彼が顔を上げた。


「一緒に?」

「ご迷惑でなければ」


 夫人が、二人から少し離れた席で、お茶を飲んでいた。

 彼は私を見たまま頷いた。


「ご案内します。母にも、予定を聞いておきます」


 出かけたのは、その十日後だった。

 夫人と侍女が一緒で、馬車を降りてから、川沿いを歩いた。


 彼は、道を間違えた。


「こちらからなら、近いと思ったんですが」


 橋へ出るはずが、倉庫の裏だった。

 夫人が、いつも遠回りばかりしているからと息子をからかった。


「普段は、誰かを案内するつもりで歩いていないので」


 彼は真面目に答えた。

 私は笑い、来た道を一緒に戻った。


 橋の上からは、両岸に並ぶ屋根が見えた。

 水のそばで働く人も、対岸で洗濯物を取り込む人もいる。

 庭とは違う、いくつもの家の暮らしが見えた。


「また来たいです」


 言うと、彼は嬉しそうに橋の向こうを指した。


「丘の上にも、見晴らしのいい場所があります。次は、道を確かめておきます」

「迷っても、一緒に戻れますよ」


 彼が私を見た。

 私は少し恥ずかしくなり、川へ目を戻した。


 帰宅してから、橋の上で彼が何を言ったか、何度も思い出した。

 次の手紙には、私から行きたい日を書いた。


     ◇


 伯爵家から、母と妹への招待は来なかった。


 父は謝罪の書状を送ったが、夫人からは、当面、家族揃っての招待を控えると返事があった。

 以前から続いていた家同士の茶会への招待も、止まった。


 母は他の知り合いの集まりへ、妹を連れていった。

 社交のすべてを失ったわけではない。それでも、伯爵家から誘われなくなった理由を尋ねられると、答えに詰まった。


 父が望んでいた商会主への紹介も、夫人は引き受けなかった。

 娘への招待を、自分の用件を通す場へ変えようとした人の取り次ぎはできない、と。

 父の仕事そのものがなくなるわけではない。必要なら、自分で商会へ話を通すしかなかった。


「お前から、頼めないか」


 父は一度、私に尋ねた。


「私は、その商会について知りません。お父様のお仕事のお願いはできません」


 私はそう答えた。

 父は不満そうだったが、私にできるのは、夫人へ父の言葉を運ぶことだけだ。その言葉に責任を持てなかった。


 妹は、最初のうちは私の訪問に同行したがった。

 断られると、来た手紙を読ませてと言うようになった。


「お姉様だけ、お話が分かるのはずるいわ」


 私は封筒を机の引き出しへ入れた。


「あなたへのお手紙ではないから」


 妹は唇を尖らせた。

 私は見せないと言って、引き出しを閉めた。鍵を回し、小さな鍵を自分のポケットへ入れた。


     ◇


 秋の庭は、歩くたびに足元で葉が鳴った。

 夫人は少し離れた椅子に座り、私たちは並んで小道を歩いた。


「次は、いつお会いできるでしょう」


 彼が尋ねた。

 私は来週ならと答え、続けて、私ばかりお願いしていませんかと聞いた。


「あなたのお仕事の予定も、知りたいです」

「そうですね。来週の初めは、父と出かけます。戻るのは水曜です」

「では、金曜は?」

「空けておきます」


 すぐに答えた後、彼は少し黙った。

 歩く速さが、ゆっくりになった。


「母の茶会にお誘いする形ばかりではなくて」


 私は顔を上げた。


「私自身が、お会いしたいと申し上げてもいいでしょうか」


 彼の手が、上着の前で少し動いた。


「園遊会で話が途中になったとき、まだ話したいと思いました。あの晩餐会でも。帰られた後は、次は何を話そうかと考えていました」


 私は足を止めた。

 彼も止まった。


「私も、そうです」


 声が小さくなった。


「お手紙が来ると、先に予定を確かめてしまいます。会える日を決めてから、返事を書きたくなるんです」


 彼が笑った。

 私も笑い、けれど目は逸らせなかった。


「ナディーヌさん。私と、お付き合いしていただけますか」


 私は頷いた。


「はい。私も、あなたに会いたいです」


 彼は夫人の方を一度見た。夫人は私たちを見ていたが、こちらへ来ようとはしなかった。


「ご両親へ、正式にお願いに伺います。父にも話をします」


 私は、その言葉にまた頷いた。


 彼は手を差し出した。


「手を、取っても?」


 私は自分から、その手に触れた。

 少し冷えていた指が、重なると温かくなった。


     ◇


 翌週の金曜にも、約束通り彼に会った。その後、彼と伯爵が我が家へ訪れ、両家で交際の話がまとまったのは、告白から半月ほど経ってからだった。

 父は私の返事を確かめ、伯爵へ承諾を伝えた。母も、伯爵家からの正式な申し入れには反対しなかった。


 その翌日、居間へ呼ばれた。

 母と妹が待っていた。


「よいお話になったわね」


 母は、いつもより柔らかい声で言った。


「これで、先日のことも済んだでしょう。次の茶会には、メリザも一緒に行かせてちょうだい」


 私は立ったまま、二人を見た。


「それは、別のお話です」

「別ではないでしょう。いずれ親族になるのよ」


 妹が身を乗り出した。


「お姉様が一言、私も呼んでって言ってくだされば済むでしょう?」


 母が頷いた。

 いつもなら、私が手紙を書くところだった。

 誰かにお願いをして、誰かに謝って、妹が望んだ形へ整える。


「私が行きたいと言ったときは、聞いてくれなかったでしょう」


 妹の顔が強張った。


「あのときは、私も行きたかったのよ」

「私も、そうだったわ」


 母が口を挟んだ。


「昔のことを、いつまでも。今は、家族のために――」

「お母様たちは、追加の招待を断られた後に伺いました。私を帰すようにもお願いしました。そのことを、夫人は問題にしておられます」


 私は息をついた。


「お二人から、私にも謝っていただいていません」


 妹は私を見たまま、黙った。

 母は扇を手に取ったが、開かなかった。


「謝れば、連れていってくださるの?」


 妹が尋ねた。


「招くかどうかは、夫人がお決めになることよ。私が、帳消しにしてくださいと頼むことはありません」


 妹の目に、涙が浮かんだ。


「もう仲間外れにするのは、やめて」


 私は胸が痛くなった。

 妹が泣くと、いつも自分が悪いような気がした。


「家の茶会には、あなたも出ているでしょう。私の誘いまで、あなたのものにはできないわ」


 私は、そこで話を終えた。

 母にもう一度呼ばれたが、振り向いて、頼みは引き受けませんと答えた。


 数日後、父も伯爵へ、母と妹を会へ迎えてもらえないかと申し入れた。

 返事は、変わらなかった。

 交際は、私とガスパール様の希望として進める。家族への招待や仕事の紹介を約束するものではない。今後、同じ要求は控えてほしい。


 父はその書状を、私にも見せた。

 私に取り次がせる余地は、もうなかった。


「お母様とメリザへの招待は、私に頼まないでください」


 私は言った。

 父は、分かったとだけ答えた。


     ◇


 交際が決まってから、初めて彼の家を訪ねる日。私は好きな紺色のドレスを着ていった。

 母には、帰りの時刻だけ伝えた。妹の支度を頼まれることはなかった。


 庭で、ガスパール様が迎えてくれた。

 手を取る前に、私は鞄から一枚の紙を出した。


「地図を、返そうと思って」


 彼が園遊会の続きに用意してくれたものだった。

 橋とパン屋の印の隣に、丘の上の道が書き足してある。


「お持ちいただいていて、構いませんよ」

「では、もう少し。次に行きたい場所も、書き込んでいいですか」


 彼は頷いた。

 私は紙を畳み、鞄へしまった。


 彼が差し出した手を取り、並んで歩き始めた。


 夫人は庭師と話しながら、後ろを歩いている。

 私たちは、温室のそばで足を止めた。


「母には、冬の鉢の置き場所を相談したいと言われています」


 彼が言った。


「また、教えていただけますか」

「もちろん。でも、今日は先に」


 私は彼を見た。


「もう少し、一緒に歩きたいです」


 言うと、彼の指が私の手を握り直した。


「私も、そのつもりでした」


 帰るまで、まだ時間があった。

 私は温室に入るのを後にして、彼と小道を歩き始めた。


 川沿いに新しい店を見つけたと、彼が話し始める。

 どんな店か尋ねた。

 返事を聞きながら、私は次に出かける日のことを考えていた。


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