4話 鈍色の閃光、消えゆく意識
今回は、暴力と血の表現が入ります。
「んな、簡単に可愛い子を逃がすかよ!」
男の一人が、獲物を狙う獣のような足取りで、逃げようとする少女へと手を伸ばした。その瞬間、カズヤの意識から恐怖が消えた。這いつくばっていた地面を力いっぱい蹴り、逃がすまいと男の服を掴んで引き戻す。
不意を突かれた男が、たたらを踏んで後ろへ転がった。すかさず、もう一人の男の足に、泥に塗れた腕を伸ばして必死にしがみつく。
「なんだよコイツ!」
「邪魔すんなよ! 次、邪魔したら……刺すぞ!」
苛立ちに染まった声と共に、金属が擦れる冷たい音が響いた。一人の男がポケットから引き抜いたのは、掌に収まる程度の小型ナイフだった。街灯の頼りない光を反射し、その刃が不気味にキラリと、青白く光る。
威嚇を背に、男が再び少女を追って踏み出した。カズヤの体は、思考よりも先に動いていた。
痛む体に鞭打ち、弾かれたように起き上がる。カズヤは遮二無二、男の腕を掴み取った。ナイフを奪い取ろうと、重い体をぶつけるようにして揉み合う。冷たい金属の感触が、指先に触れた。
その、瞬間だった。
サクッ、という、これまで受けてきた衝撃とは明らかに質の違う感覚がカズヤを襲った。
言葉を失うほどの激痛。そして、腹部の奥底から、熱く粘り気のある何かがじわっと広がっていく。
逃げようとしていた少女が振り返り、夜の静寂を切り裂くような悲鳴を上げた。その声が、遠くの、まるで異世界の出来事のように聞こえる。
「これ、やべえって!」
「逃げるぞ!!」
さっきまでの傲慢な態度はどこへやら、男たちの声には隠しきれない動揺と恐怖が混じっていた。カズヤに刺さったナイフを抜くと無様に背を向け、暗がりの向こうへと散り散りに逃げ去っていく足音。カズヤに刺されたナイフが抜かれ、腹から温かなモノが溢れ出て地面に滴り落ちた。
逃げていく男たちを見届け、カズヤは最後の一葉が落ちるように、ゆっくりと膝を折った。
(ああ……あの子、逃げられたんだな……よかった……)
腹部から溢れ出す熱気が、急速に体温を奪っていく。視界の端が煤けたように暗くなり、あんなに疼いていた激痛さえ、今はひどく遠い。
深い、深い眠りに誘われるように、カズヤの意識はスーッと、静かな闇の中へと溶け込んでいった。
まどろみの代償
深い闇の底から、ゆっくりと意識が浮上していく。
瞼が鉛のように重く、ようやくこじ開けるようにして開いた瞳に映ったのは、無機質な白に塗り固められた天井だった。ぼんやりとした視界の中で、鼻を突く消毒液の特有な匂いが、ここが現実の世界であることを執拗に主張している。
ピー、ピー、ピー……。
静寂を等間隔に刻む、乾いた電子音。それは、かつて祖父が最期を迎えた瞬間に聞いた、あの忌まわしい音と同じだった。耳の奥にこびりついて離れない死の旋律が、今度は自分を繋ぎ止めるために鳴り響いている。
状況を確認しようと首を動かそうとした瞬間、顔面に焼けるような熱い痛みが走った。
頬から顎にかけて、厚手の包帯が巻かれている。指先で触れずとも、そこが酷く腫れ上がっているのがわかった。ナイフの熱さに気を取られていたが、あの時、自分は執拗に殴られていたのだと、今更ながらに記憶が追いついてくる。
(……いや、ここ……個室なのか?)
焦点が合うにつれ、部屋の様子が見えてきた。他の患者の気配はなく、整然と並ぶ高価そうな医療機器が、冷たい光を放っている。孤独な自分には、大部屋の片隅さえ贅沢だというのに。
(俺なんか大部屋で良いのに……自腹なのか? それとも……)
通帳に刻まれていた数字を思い出し、カズヤは皮肉な笑みを浮かべようとした。だが、引き攣れた頬がそれを許さない。
あの時、ナイフの熱を感じた瞬間、カズヤは自分の人生の幕をそこで下ろしたつもりだった。見知らぬ少女を救うという、一生に一度の「正しいこと」を成し遂げて、満足して眠りについたはずだったのだ。
生き延びてしまった。
静まり返った個室で、カズヤは再び、重たい生の実感と向き合わされていた。
白昼の困惑
微かな衣擦れの音と共に、扉が静かに開いた。
「やっと、目を覚まされましたね」
入ってきた看護師が、安堵したように目尻を下げて微笑む。彼女は手慣れた動作で点滴の残量を確認しながら、どこか茶化すような、温かいトーンで言葉を継いだ。
「彼女さんが心配そうに毎日、お見舞いに来ていましたよ」
(ん? 彼女……? 毎日?)
聞き慣れない単語に、カズヤの思考は一時停止する。喉の奥に張り付いた違和感を押し殺し、掠れた声で問い返した。
「彼女……ですか?」
「え、はい。とても可愛らしい彼女さんですよね。品があって、こう、お金持ちのお嬢様って感じの女の子ですよ」
看護師の屈託のない言葉が、カズヤの脳内をさらなる混乱へと突き落とす。
自分の人生を振り返ってみても、お嬢様どころか、まともに言葉を交わす女子の知り合いなど一人も思い当たらない。不登校で引きこもり、鏡を見るのも嫌になるような今の自分に、毎日見舞いに来る熱烈な知人がいるはずもなかった。
「俺に、女の子の友達どころか、知り合いもいませんけど……」
「そう……なんですか? そろそろ面会時間なので、いらっしゃると思いますよ。そうとう親身になって、容態はどうですか、自分に出来ることは無いでしょうかって……。ずっと付き添っていらしたので、てっきり彼女さんかと」
看護師は少し意外そうな顔をしたが、すぐにまた優しく微笑んで、ナースカートを押しながら部屋を後にした。
静まり返った病室に、カズヤの荒い鼓動だけが響く。
(毎日? 俺なんかのために……?)
あの夜、闇の中で必死に背中に隠した少女の震える肩を思い出す。助けたはずの自分が、逆に誰かに見守られていたという事実。
心臓の音が耳の奥で早鐘を打つ。間もなく訪れるというその主との対面を前に、カズヤは包帯に覆われた顔で、ただ戸惑いの中に立ち尽くしていた。




