3話 潰えた希望、吹き溜まりの孤独
再び、自らの殻に閉じこもる日々が始まった。
一度は掴みかけた希望が、指の間から砂のように零れ落ちていく。真新しい制服は、部屋の隅で無残に放り出され、埃を被っていた。カーテンの隙間から差し込む光さえも、今のカズヤには耐え難い暴力のように感じられた。
そんな絶望の淵に追い打ちをかけるように、運命は最後の手綱を断ち切った。
唯一の理解者であり、合格を誰よりも喜んでくれた祖父が、病魔に冒され、静かに息を引き取ったのだ。
葬儀の席で、カズヤはただ一点を見つめていた。線香の煙が目に染みることもなく、頬を伝う涙さえも枯れ果てていた。父を亡くし、母に捨てられ、そして最後に残った温かな居場所までもが、冷たい土の下へと消えていく。
「……独りだ」
誰に聞かせるでもなく、乾いた唇から零れた言葉は、広すぎる家の中に虚しく反響した。
皮肉なことに、経済的な不安だけは遠ざかっていた。父が遺した生命保険や慰謝料、そして祖父がカズヤのためにと細々と蓄えていた財産とこの古い家。それらは、当面の生活を保障するだけの十分な数字となって、通帳の中に刻まれていた。
だが、金で買える安寧など、今のカズヤには何の慰めにもならなかった。
必死に勉強し、死に物狂いで手に入れた合格。その先に待っていたのは、再び繰り返される嘲笑と、愛する者の喪失という残酷な結末だった。
目標を達成した瞬間に突き落とされたからこそ、その衝撃は以前の比ではなかった。心は、修復不可能なほどに細かく砕け散り、鋭い破片となって自分自身の内側を傷つけ始める。
誰もいない台所。冷え切った廊下。時計の針が刻む規則正しい音だけが、カズヤの精神をじわじわと削り取っていく。
鏡に映る自分を見ることさえ恐ろしくなった。脂ぎった肌、生気のない瞳、そして醜く膨れ上がった体。そのすべてが、自分という存在の敗北を象徴しているようで、カズヤは深い、深い闇の奥へと沈んでいった。深夜の彷徨
時計の針が何度一回転したのか、もはやカズヤには判別がつかなかった。
昼夜の境界が溶け出した暗い部屋。液晶から漏れる青白い光だけが、停滞した空気の中で呼吸を続けている。万年床のシーツは湿り、脱ぎ散らかされた服からは微かな酸っぱい臭いが漂っていた。かつて、必死に机に向かっていた頃の熱量は、どこにも残っていない。
カズヤの生命を辛うじて繋ぎ止めているのは、段ボール箱に詰め込まれたインスタント食品の山だった。
もともと包丁を握ったこともなければ、火の加減すら知らない。祖父が亡くなってからというもの、カズヤの食卓は熱湯を注ぐだけの乾いたプラスチック容器で埋め尽くされていた。
ふと、積み上げられた空の容器を避けながら、ストックを保管している廊下の隅へ視線を向ける。
「……あ」
そこにあるはずの、見慣れたパッケージの山が消えていた。手を伸ばしても、指先に触れるのは冷たいフローリングの感触と、カサリと音を立てる空のビニール袋だけ。
(なんだよ、ついてないよな……)
自分の不手際に、胸の奥で重たい澱のような溜息が漏れた。慣れた手つきでスマートフォンを操作し、通販サイトでいつものセットを注文する。しかし、画面に表示された「最短明日到着」という無機質な文字が、カズヤの空腹をあざ笑うかのように突き刺さった。
(今から注文しても、急ぎでも到着は明日か……家から出たくないけど、腹減ったし……コンビニ行くか)
グゥ、と情けない音が静まり返った家の中に響く。
カズヤは、襟元が伸び切ったヨレヨレのTシャツに、膝の出たハーフパンツという格好のまま、重い腰を上げた。鏡を見る気力すらない。ボサボサの髪も、無精髭が浮き始めた顎のラインも、今の彼にとっては「どうでもいい」ことだった。
玄関の扉を開けると、夜の湿った空気が、頬を冷たく撫でた。
人目を避けるように、街灯の届かない影を選んで歩く。カツ、カツとアスファルトを叩くサンダルの音が、深夜の住宅街に不気味なほど大きく響き渡る。
目指すのは、煌々と不自然なまでの光を放つ、近くのコンビニエンスストア。
その光の輪の中に、今の自分がどう映るのか。そんな恐怖よりも、腹を満たしたいという本能的な欲求が、重たい足を前へと進ませていた。
衝動の盾
深夜の静寂を切り裂くように、くぐもった悲鳴がカズヤの鼓膜を叩いた。
視線を向ければ、街灯の届かない路地の隅で、五人の影が一人の少女を囲んでいる。夜の闇には不釣り合いな高校の制服。翻るスカートと、必死にそれを守ろうとする細い腕。時折、数少ない通行人が視界の端を通り過ぎていくが、誰もがその異様な光景に気づかないふりをして、足早に闇に溶けていった。
いつも通りの自分なら、足が竦み、視線を逸らし、逃げるようにその場を去っていただろう。
だが、その時のカズヤの胸には、自分でも制御できないほどの熱い何かが込み上げていた。親を亡くし、夢を砕かれ、死んだように生きている自分。そんな自分でも、誰かの役に立てるという証明を、今の世界に、そして何より自分自身に突きつけたかった。
カズヤは重い体を揺らし、少女の腕を掴む男たちの間に割って入った。
「女の子が……嫌がってるだろ……離せ!」
腹の底から絞り出した声は、自分でも驚くほど大きく響いた。けれど、その指先は情けなく震え、喉の奥は乾ききっている。
「はぁ? なんだよ、お前はよ!? くそデブ! キモいぞ、お前!」
中心にいた男が、不快感を露わに吐き捨てた。嘲笑を含んだ罵声は、学校で浴びせられてきたものと同じ毒を孕んでいた。怯む様子もなく、壁のように厚いカズヤの体躯へ、男たちは一斉に詰め寄ってくる。
ドスッ、という鈍い音と共に、カズヤの腹部に焼火箸を押し付けられたような衝撃が走った。
容赦なく叩き込まれた蹴り。内臓がひっくり返るような激痛に、カズヤの視界が火花を散らす。肺から無理やり空気が搾り出され、膝の力が抜けてコンクリートの地面へと崩れ落ちた。
「早く! 逃げて……! 人通りが多い場所へ! 近くのコンビニへ逃げ込めば……」
地面に這いつくばり、込み上げる嘔吐感を堪えながら、カズヤは必死に声を振り絞った。
額に滲む冷や汗が、目に入ってしみる。少女の怯えた視線が自分に向けられているのを感じながら、カズヤは激痛に耐え、ただひたすらに彼女を背中に隠し続けた。




