25話 朝霧のキッチンと、期待の余韻
慎重に階段を上がり、二階へ。「レナ」と可愛らしくデザインされたネームプレートが掛かった扉を、カズヤは肩で押し開けた。
そこは、淡いピンクと白を基調にした、いかにもお嬢様らしい清潔感と可愛らしさに満ちたレナの良い香りが漂う部屋だった。
カズヤは天蓋付きの豪華なベッドに彼女をそっと降ろそうとした。その時、眠っていたはずのレナの指先が、カズヤのシャツの襟元をぎゅっと引き寄せた。
驚きで顔を近づける形になったカズヤの頬に、ふわりと柔らかな感触が触れる。
「ちゅっ」
静まり返った部屋に、小さく、けれど甘い音が響いた。
「……ありがと……おやすみ……カズヤ、くん……」
レナは満足げに口元を綻ばせると、今度こそ深い眠りに落ちたように力を抜いた。
残されたカズヤは、頬に残る熱と、自分の名前を呼ぶ愛おしい残響に、しばらくの間その場から動くことができなかった。
朝霧のキッチンと、期待の余韻
翌朝。カズヤが目を覚ますと、リビングの方から食欲をそそる香ばしい香りが漂ってきた。
キッチンでは、レナがエプロン姿で忙しなく立ち働いている。朝陽を浴びて透き通るような琥珀色の髪が、彼女の動きに合わせてさらさらと揺れていた。
「レナ、おはよ」
「お、おはようございます……カズヤくん。昨日は、お部屋まで運んでいただいたようで……。傷のことを失念していました。大丈夫でしたか?」
レナは手を止め、少し申し訳なさそうにカズヤを見つめた。
「傷は何も問題なかったよ。それと、一応体に触ることや部屋に入ることは確認を取ったつもりだけど……レナの記憶も曖昧だろうし、嫌がられるかと思ったけど。あのままだと風邪を引くから、放っておけなくて」
「そのことは全く問題ないのですけれど……。あの、お休みのキスをした記憶はあるのですけれど。カズヤくんは、わたしにお休みのキスは……してくれたのですか?」
レナは期待を込めた眼差しで、じっとカズヤの唇を見つめてくる。
(そっちかよ……。寝ているレナにキスなんてしたら、それこそ大ごとになるだろ。襲ったとか思われてもおかしくないし……)
カズヤは彼女のあまりに無防備な問いかけに、思わず視線を泳がせた。
「いや……流石に寝てる相手にはできないだろ。男として……その、理性が持たないっていうか」
「むぅ……。わたしはされても良かったのに。カズヤくん、真面目すぎますよ……」
レナは不満げに頬を膨らませると、ぷいっと顔を背けて味噌汁の味見を始めた。だが、その耳たぶが隠しきれずに赤く染まっているのを、カズヤは見逃さなかった。
朝陽の儀式と、小さな勝利
「寝ている女の子にキスは……流石にダメだろ……」
カズヤが困り果てたように呟くと、レナは手にしたお玉を握りしめ、あからさまに潤んだ瞳でこちらを振り返った。
「うぅ……昨日とお話が違います……。仲良しだから良いと、カズヤくんが言っていたのですけれど……。本当は、イヤだったのですね」
「イヤだった訳じゃない……けどさ……」
カズヤが必死に言い訳を並べていると、レナがおもむろに歩み寄ってきた。
彼女はぐいっと背伸びをしてカズヤのシャツの胸元を小さく掴むと、恥ずかしそうに、けれど断固とした意志を持って、陶器のように白い頬を差し出した。
「イヤじゃないのですよね。では、おはようの挨拶をキスでお願いします♪ 早くしないと……せっかくのお料理が焦げちゃいますよ?」
レナの潤んだ瞳が、至近距離でカズヤを射抜く。
もう逃げ場はなかった。カズヤは観念して、震える手でレナの華奢な肩をそっと支えた。ゆっくりと顔を近づけると、レナの甘いシャンプーの髪の香りと、朝の瑞々しい肌の匂いが鼻腔をくすぐる。
「……ちゅ」
カズヤの唇が、レナのスベスベとした柔らかな頬に触れた。
吸い付くような肌の感触に、カズヤの心臓は今日一番の激しい鼓動を打つ。
「んふふ、やったぁ……!」
レナは弾かれるようにカズヤに背を向け、コンロの前へと戻った。
小さな声で呟きながら、胸の前で可愛らしく拳を握りしめる彼女の背中からは、隠しきれない喜びが溢れ出している。
「さぁ、カズヤくん! 最高の朝ごはんにしましょうね♪」
カズヤは赤くなった顔を隠すように食卓へと座り、キッチンで軽やかに鼻歌を歌う彼女の姿を、呆れながらも温かな気持ちで見つめていた。
勘違いの境界線
「デブな俺にキスを求めて来るなんて……レナは変わってるよな……」
カズヤは、キッチンで弾むように動くレナの後ろ姿を見つめ、自嘲気味に呟いた。だが、その独り言は静かなリビングに思いのほか響き、レナが勢いよく振り向いた。
「人は外見や容姿ではありません! 外見だけで好きになったとしても、お付き合いをして長続きするわけがありませんし。カズヤくんは、その、えっと……とっても素敵な方ですよ。それに、これは朝の挨拶ですから……っ」
レナは少しだけ怒ったように、けれど必死にカズヤを肯定した。その瞳はどこまでも真剣で、淀みがない。




