2話 枯れ木に宿る灯火
古びた木造家屋に漂う、乾いた畳と微かな線香の香り。その静謐な空気だけが、荒みきったカズヤの心をそっと包み込んでくれた。
祖父とは、まだ幼かった頃から不思議と馬が合った。大きな節くれだった手で頭を撫でてくれた温もりや、縁側で並んで眺めた夕暮れの景色。そんな断片的な記憶が、冷え切った胸の奥で小さな灯火のように再燃していく。
「無理に外へ出んでもええ。ここがお前の城や」
祖父は、カズヤが不登校であることを責めるような真似は一度もしなかった。世間の厳しい視線や、腫れ物に触れるような親戚たちの言葉をすべてその背中で遮り、ただ静かに、当たり前のようにカズヤを迎え入れてくれたのだ。その深い理解は、何物にも代えがたい救いだった。
やがて、カズヤが意を決して勉強机に向かうようになると、祖父はことさらに喜んだ。
「頑張っとるな」
夜更けまで明かりが漏れるカズヤの部屋の戸を、祖父は音を立てぬよう、そっと叩く。差し出されるのは、不器用に剥かれたリンゴや、湯気の立ち上る熱い茶。カズヤが参考書を繰る音を、祖父はまるで心地よい音楽でも聴くかのように、満足げな表情で見守ってくれた。
一人ではない。その確信が、カズヤのペンを握る指先に力を与える。
志望校合格という高い壁に挑む孤独な戦いの中に、祖父という確かな味方がいた。その存在が、カズヤにとっては何よりの追い風となっていた。
結実の春
掲示板に並んだ数字の羅列の中に、自分の受験番号を見つけた瞬間、カズヤの視界は白く弾けた。
何度も目を擦り、受験票の数字と照らし合わせる。一字一句違わないその並びは、暗い部屋で一人、ペンを握りしめ続けた日々が幻ではなかったことを証明していた。喉の奥から込み上げる震えを抑えきれず、カズヤは春の淡い光の中で立ち尽くした。
帰宅して合格を告げると、祖父は「そうか、そうか」と何度も頷き、深く刻まれた目尻の皺をさらに深くして笑った。
その夜、食卓にはささやかな、けれど温かいお祝いの膳が並んだ。
祖父が近所の店で奮発して買ってきたという、瑞々しい刺身の盛り合わせと、カズヤの好物である甘い卵焼き。不慣れな手つきで用意してくれたのであろう料理からは、湯気と共に祖父の慈しみが立ち上っているようだった。
「よう頑張ったな、カズヤ」
差し出された茶碗を受け取る際、触れた祖父の手は相変わらず節くれだって硬かったが、そこから伝わる体温は何よりも熱く、カズヤの胸に染み渡った。
「……うん。じいちゃん、ありがとう」
絞り出すような声でそう答えるのが精一杯だった。
豪華なパーティーも、派手な演出もない。ただ、古びた茶の間で差し向かい、箸を動かす音だけが響く静かな時間。しかし、孤独と絶望の淵を歩いてきたカズヤにとって、これ以上の贅沢はどこにもなかった。
窓の外では、まだ冷たさの残る風が、新しい季節の訪れを告げるように優しく吹き抜けていた。
潰えた夢
真新しい制服の、少し硬い生地が肌を撫でる。
入学式の朝、鏡に映る自分の姿を何度も確かめた。有名校という盾があれば、知性というヴェールを纏えば、自分を苛む過去の亡霊から逃げ切れるはずだと信じていた。だが、その淡い期待は、校門を潜った瞬間に冷え冷えとした現実へと塗り替えられた。
「……おい、あれ。カズヤじゃねーか?」
耳を劈くような、聞き覚えのある声。心臓が跳ね、視界がぐらりと揺れた。
同じ中学から進学してきた、かつての「傍観者」や「加害者」たち。彼らの視線は、獲物を見つけた野獣のようにギラつき、瞬く間に教室の空気を汚染していった。
噂が広がるのは、瞬きをする間よりも早かった。
「不登校のキモデブ」「あいつ、中学のときから……」
ひそひそと交わされる密談、隠しきれない嘲笑、そして向けられる冷淡な好奇の目。カズヤの太った体躯は、新しいクラスという閉鎖空間において、あまりにも目立ちすぎる標的となった。大人しく、反論の一つも口にできない彼の性格は、連中にとって「叩いても壊れない玩具」としての価値を再確認させるだけだった。
休み時間になるたび、教室のあちこちで笑い声が上がり、気の合う者同士が固まって見えない壁を築いていく。
その輪の中から弾き出されたカズヤは、ただ自分の机にしがみつくように座り続けるしかなかった。誰の目も合わず、誰の助けも届かない。
隣の席から聞こえる楽しげな会話は、カズヤにとっては鋭い刃となって鼓膜を削る。かつての悪夢が、より洗練された、より逃げ場のない孤独として再び幕を開けたのだ。
窓から差し込む春の陽光は、今のカズヤには眩しすぎて、ただただ、残酷だった。




