19話 幸福な拘束
カズヤが自嘲気味に笑うと、レナはそっと顔を背け、誰にも聞こえないような小さな声で、けれど確かな熱を込めて呟いた。
「んふふ。みんな、夜月くんの優しいところや、素敵なところを見つけられなかったのですね。……良かったです。誰かに取られちゃう前に、わたしが一番に見つけられたのですから♪」
「ん? 取られる?」
微かに聞き取れた言葉をカズヤが繰り返すと、レナは「何でもないですよ」とはぐらかし、次のお皿を差し出した。
「さ、次ですよ。はいっ」
こうして、二人の初めての共同作業である皿洗いは、甘く、少しだけもどかしい空気を残したまま、無事に終わりを迎えた。
絆をなぞる指先
「夜月くん、そろそろ傷口の手当てをしましょうか。……先生に教わった通りに、頑張りますね」
片付けを終えたレナが、救急箱を抱えて戻ってきた。その表情は、先ほどまでの甘い雰囲気とは一変し、どこか神聖な儀式にでも臨むような真剣なものだった。
カズヤは促されるまま、リビングのソファで上半身の衣類を脱いだ。
「……やっぱり、こうして見ると……凄い傷ですね」
レナの動きが止まった。カズヤの背中から脇腹にかけて残る、生々しく赤みを帯びた傷跡。彼女を守るために負った、暴力の爪痕だ。
「悪い……やっぱり、女の子に見せるもんじゃないよな。自分でも、化け物みたいだって思うし……」
カズヤが身を固くして目を伏せると、レナが小さく、けれど鋭く息を呑む音が聞こえた。
「……二度と、そんなこと言わないでください」
冷たい消毒液を含んだガーゼが、熱を持った傷口にそっと触れる。レナの指先は微かに震えていたが、その瞳に迷いはなかった。
「痛くないですか? 染みたら言ってくださいね」
彼女は、まるで壊れやすい宝物に触れるかのような手つきで、丁寧に、ゆっくりと傷の縁をなぞっていく。消毒液の鼻を突く匂いが広がる中で、カズヤは背中越しに、彼女の震える吐息を感じていた。
「……怖いなら、無理しなくていいんだぞ」
「怖くなんてありません。……ただ、胸が締め付けられるんです。わたしのせいで、夜月くんがこんなに痛い思いをして……」
ポタリ、と。
カズヤの背中に、温かい雫が落ちた。
「泣かないで……、綾瀬さん。俺は……この傷があるおかげで、君を助けられたんだって思える。だから、これは俺にとって……」
「……『絆の証』、ですよね?」
レナはカズヤの言葉を先回りすると、涙を拭い、ふわりと微笑んだ。
新しいガーゼを貼り、テープで固定する。その一連の動作が終わる頃、二人の間には、言葉以上の確かな絆が刻まれていた。
幸福な拘束
退院後の慌ただしさが一区切りつくと、カズヤはどうしても自分の「元々の居場所」が気になり始めていた。
「ちょっと、自宅の方が気になるから見てくるよ」
「わたしも、ご一緒いたしますよ」
レナは待機していたかのように立ち上がると、すかさずカズヤの腰に腕を回した。そのまま、自分の肩をカズヤの脇に滑り込ませ、密着するようにして支えてくる。
「いや、だから……一人で歩けるってば」
「ダメですよ。もし転んで怪我が開いて、病院に逆戻りになったら……どうするのですか? 一人で転んで入院なんてことになったら、わたし、今度は付き添いも面会も一切しませんからね」
レナはそこまで言い切ると、プイッとそっぽを向いて唇を尖らせた。
カズヤは想像した。レナのいない、あの白く無機質な病室。一度この暖かなぬくもりと、彼女の笑顔がある生活を知ってしまった今、彼女のいない入院生活がどれほど孤独で辛いものになるか、容易に理解できてしまった。
そして、ふとした疑問が口からこぼれた。
「……もし俺が、今度別のことで入院することになったら……?」
「え、ご一緒いたしますよ。彼女ですから、当然じゃないですか」
レナは何の衒いもなく、まるで明日の天気を話すような自然さで答えた。
「……そっか。ありがとな」
「困ったときはお互い様だと、夜月くんが言ったのですからね」
彼女は満足そうに微笑み、さらに力を込めてカズヤを支える。
カズヤは、連結部分の廊下をゆっくりと歩きながら、ふと窓に映った自分たちの姿を見た。
(これ、傍から見たら……俺がレナに馴れ馴れしく肩に腕を回して、美少女を連れ回しているように見えるんじゃ……。というか、客観的に見たら完全に俺が寄生してるみたいだな……)
情けなさと幸福感が入り混じった複雑な心境のまま、カズヤは「自分の家」へと通路へと足を踏み入れた。
再生した居場所と、琥珀の光
家と家を繋ぐ、まだ木の香りが新しい廊下を二人で渡り、カズヤの自宅へと足を踏み入れた。
そこには、かつての荒れ果てた光景は微塵もなかった。
リビングに山積みになっていたゴミ袋や、床を埋め尽くしていた古い雑誌、チラシの類はすべて処分されている。何層にも積もっていた埃は払われ、床も壁も徹底的に磨き上げられていた。
それは、カズヤがこの家に越してきたばかりの、一番清潔だった頃の状態へと完全に戻っていた。
「清掃費……いくらだった? 払わせてくれないか」
「え、必要ないですよ。わたしが勝手に申し出て、勝手に行ったことですから」




