15話 境界線のない家
正面玄関を抜けると、澄み渡った冬の空気に包まれた。そのロータリーに、一台の漆黒の高級車が、周囲の空気を圧するように停まっている。
「ん? あれ、タクシーじゃないぞ?」
「はい。タクシーじゃありませんね。うちの車ですから」
(ああ……やっぱり、とんでもないお嬢様なんだ……)
鈍く光る漆黒のボディを目の当たりにして、カズヤは改めて自分と彼女の住む世界の差を突きつけられた気がした。
レナが車に近づくと、黒いスーツに身を包んだ運転手が素早く降りてきた。彼は一言も発さず、流れるような動作で後部座席のドアを開けると、最敬礼の角度で頭を下げた。
「どうぞ、夜月様。お嬢様も」
「ありがとう。……さあ、夜月くん、ゆっくり乗ってくださいね」
レナに促され、カズヤはおずおずと高級な革の香りが漂う車内へと腰を下ろした。
これから向かうのは、自分が住んでいたはずの、けれど今は見知らぬ場所へと変貌を遂げているであろう場所だ。静かに走り出した車の中で、カズヤの胸には期待よりも、正体不明の緊張感が渦巻いていた。
琥珀の隣人と確かな約束
「ふぅ……いろいろと、本当にありがとうな」
「いえ、わたしの方こそ……ありがとうございます」
高級車の革張りのシートに深く身を沈め、二人は静かにお礼を言い合った。静粛性の高い車内は、外の喧騒を完全に遮断し、二人の声だけが穏やかに響く。
運転手は一度も行き先を尋ねることなく、滑らかに車を走らせていた。
「そういえば……行き先を言ってないけど、大丈夫なのか?」
「心配ありませんよ。わたし、何度か様子を見に行きましたから。道はバッチリです」
(あぁ……掃除や片付け、それに例の『工事』の進捗を見てくれてたのか……)
やがて車は見慣れた路地へと入り、カズヤの自宅付近で停車した。しかし、窓の外に広がる光景に、カズヤは目を疑った。
「……えっ? 数週間で、こんなに景色って変わるもんなのか? 隣の古いアパートが取り壊されて……立派な新しい家が建ってるぞ……」
「そうですね。……頑張りましたから、わたし」
「……はい?」
カズヤが呆然としていると、隣に座るレナがえへへと照れくさそうに笑った。
「わたし、夜月くんの家の隣に家を建てたんですよ。業者さんに少しだけ無理を聞いてもらったり……立退きの交渉も頑張りました♪」
レナは「褒めてください」と言わんばかりに、上目遣いで少し俯き加減になり、カズヤの方へと頭を寄せた。
(えっと……これって、撫でろってことだよな……?)
戸惑いながらも、カズヤはそっと手を伸ばし、彼女の琥珀色の柔らかな髪に触れた。初めて触れる女の子の髪は、絹糸のように細く、驚くほど滑らかだった。カズヤの指先から、ドキドキという激しい鼓動が彼女に伝わってしまいそうだった。
「……あの、イヤじゃなかったか……?」
「え、何がですか?」
「その……俺なんかに触れられて、というか。頭を撫でられて、キモいとか……」
「……なんでですか? 嬉しかったですよ。キモいなんて思うわけないじゃないですか。夜月くんですよ? わたし、彼女ですし」
「それ、病院で手続きをスムーズにするための役だったんじゃ……」
カズヤが遠慮がちに言うと、レナは「むぅ」と頬を膨らませた。
「べ、別に……そんなに否定しなくても良いと思いますけれど。……今も、そう思っていますから。褒められれば嬉しいですよ」
彼女の真っ直ぐな想いに、カズヤの胸に温かな光が灯る。
「そう思ってくれているなら、俺も……すごく嬉しい」
二人の距離は、病院を出た時よりも、確実に、そして深く縮まっていた。
境界線のない家
車は、カズヤの知っている「隣のアパート跡地」に建った、白亜の邸宅の駐車場に滑り込んだ。
運転手にドアを開けられ、外へ出たカズヤは、思わず息を呑んだ。
自分の古びた平屋が、隣に建ったモダンな豪邸に飲み込まれそうなほどの存在感を放っているのも驚きだったが、何より目を疑ったのは、二つの建物の接合部だった。
「綾瀬さん……これ、家同士が繋がっているように見えるんですけど……?」
カズヤの言葉通り、二つの家を繋ぐように渡り廊下のような構造が増築され、物理的に一軒の巨大な邸宅のように連結されていた。
「はい。いつでも夜月くんのお世話ができるようにと……。ダメでしたか?」
レナは小首を傾げ、純粋な善意に満ちた琥珀色の潤んだ瞳でカズヤを見上げた。
「いや、ダメというか……扉や鍵は、ちゃんと閉まるんだよな?」
「え、必要でしたか? いざという時に入れなくなると困るので、付けていませんけれど……」
「ん……。俺は気にしないけど、綾瀬さんはもう少し気にした方が良いと思うぞ。女の子なんだし」
「わたしが指示をしたことですし、わたしも気にしませんよ」
レナは事も無げに言い切り、カズヤを促して新居(?)の方へと歩き出した。カズヤはなおも食い下がる。
「でも、寝てる時とか、お風呂に入ってる時とかは……不用心すぎだろ」
「それ、もう……病院で話したじゃないですか。現に、昨日だって何も起きなかったじゃないですか……」
レナは少しだけ呆れたように、けれど確固たる信頼を込めてカズヤを見つめた。その琥珀色の瞳には、自分を救ってくれた「ヒーロー」への絶対的な安心感が宿っていた。




