13話 月光のレースと無防備な誘惑
静まり返った部屋に、微かにシャワーの水の音が響き始める。
カズヤはベッドの上で、逃げ場のない心臓の音を必死に宥めていた。しかし、数分も経たないうちに、部屋の空気が一変する。
バスルームの隙間から、ふんわりと、けれど抗いようのないほど甘い香りが漂ってきたのだ。
(……シャンプーか? いや、もっと花の蜜みたいな……)
レナが纏う、清潔感のある、それでいて少女の瑞々しさを感じさせる香りが、ゆっくりと、確実に特別室の隅々まで満たしていく。
ただの病室だった場所が、彼女の存在によって、急速に「彼女の色」に染まっていく。その香りを肺に吸い込むたび、カズヤは自分の平穏が音を立てて崩れていくのを感じていた。
狭い病室という密室で、扉一枚隔てた向こう側に、自分を救い主だと信じて疑わない少女が身を清めている。
カズヤは熱くなった顔を隠すように枕に押し付け、今夜という長い夜が、一刻も早く、あるいは永遠に過ぎ去らないことを願わずにはいられなかった。
月光のレースと無防備な誘惑
バスルームの扉が静かに開き、湿り気を帯びた温かな空気が部屋へと流れ出した。
現れたレナは、カズヤの知る「学校のお嬢様」とは別人のような姿をしていた。艶やかな琥珀色の髪はしっとりと濡れ、その毛先から滴る雫が鎖骨の上で光っている。身に纏っているのは、クリーム色の柔らかな生地に繊細なフリルとレースが施された部屋着。ゆったりとしたシルエットのトップスに、それと同じ素材の、驚くほど短いショートパンツが彼女の真っ白な脚を惜しげもなく晒していた。
「女の子は、雰囲気が変わるものだな……。すごく、可愛いな」
あまりの眩しさに、カズヤは取り繕うことも忘れて、本音が言葉として零れ落ちた。
「……じろじろ見られると……。その、恥ずかしい……です」
レナは潤んだ瞳を伏せ、膝を揃えるようにして縮こまった。その仕草が余計に、彼女の庇護欲をそそる可愛らしさを強調する。
「わ、悪い……。滅多に見られる姿じゃなかったから、つい見惚れちゃって……」
「んふふ、可愛いと言ってくれたお礼に、もう少し見ていても良いですよ。……本当に可愛いですかね? ただの部屋着なのですけれど……」
レナは少しだけ顔を上げると、裾を軽く摘んで、カズヤの前でクルリと一回転してみせた。レースがふわりと舞い、石鹸の清らかな香りが室内に弾ける。
「えっと……その格好で、部屋の外には絶対に行かないでな」
カズヤは半ば祈るような、必死の面持ちで釘を刺した。
「っ……! 行かないですよ。部屋着と言いますか、パジャマですし。それに、少しだけ肌の露出も多いですので。……そもそも人前に出るような格好ではありませんよ」
(う、うん……。太ももが思いっきり見えてるし、色気がありすぎるだろ……。っていうか、俺に見せても良いのか? 俺だって男なんだけど、男として見られてないのか……?)
カズヤは必死に理性を繋ぎ止めながら、布団を強く握りしめた。彼女の無邪気な信頼が、今の彼には毒よりも甘く、そして苦しく響いていた。
眠れぬ夜の境界線
消灯時間を過ぎ、部屋の明かりが落とされると、特別室は深い静寂と月光に包まれた。
カズヤの数メートル先、ソファベッドにはレナが横たわっている。布地が擦れる微かな音、規則正しい穏やかな寝息。それらすべてが静まり返った部屋の中で鮮明に響き、カズヤの鼓動を容赦なく急き立てた。
(……寝れるわけないだろ、こんなの)
仰向けになれば天井に彼女の笑顔が浮かび、横を向けば暗がりに白く浮かぶ彼女の輪郭が目に入る。目を閉じれば閉じたで、先ほどまで鼻腔をくすぐっていた甘い香りが、脳の奥底を執拗に刺激した。
暗闇は感覚を鋭敏にさせる。
彼女を襲おうとした男たちの下卑た笑い声と、彼女を守った時に感じた衝撃。そして、今のこの非現実的なまでの幸福。
守りたいと思った。自分のような人間でも、誰かの役に立てるのだと教えてくれた彼女。その彼女が今、同じ部屋で無防備に眠っている。その圧倒的な信頼の重さに、胸が締め付けられるように痛む。
結局、カズヤは一度も深い眠りに落ちることはなかった。
やがて、窓の外が薄明るい群青色から、淡い白へと移り変わり始める。
朝を告げる一番鳥の声が遠くで響いた頃、カズヤは充血した目をこすりながら、ゆっくりと上体を起こした。
「……んっ……。ふわぁ……おはようございます、夜月くん。よく眠れましたか?」
ソファの上で、レナがシーツを抱きかかえながら、まだ夢見心地のような声で挨拶をしてきた。朝露を浴びた花のように瑞々しいその姿に、カズヤは力の抜けた返事しか返せなかった。
「……おはよう。……あはは、まあ、それなりにな」
隈の浮かんだカズヤの顔を見て、レナは不思議そうに小首を傾げる。
ついに、運命の退院日がやってきた。




