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キモデブと、琥珀色の守護天使  作者: みみっく


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10話 特別室の迷宮

 入ってきた医師は、通話を終えると静かだが重みのある声で指示を出した。


「この患者を、例の空き部屋へ移してくれ。それと退院期間は、お嬢様の言う通りに。決して粗相のないようにな」


 有無を言わせぬ上司の口調。その医師はレナに向かって深々と、畏敬の念を込めて頭を下げると、嵐のように去っていった。


「……お知り合いですか?」


 担当医の佐藤が、呆然とした様子でレナに尋ねた。


「いえ、父の関係者ですかね……」


 レナは困ったように、けれどどこか涼しげな微笑みを浮かべて答えた。主治医の説明もそこそこに、カズヤの移動準備が慌ただしく始まった。


「……『例の空き部屋』って……何だろ? いわくつきの部屋だったりして……?」


 あらぬ想像をして身をすくめるカズヤを見て、レナは優しく視線を投げかける。


「大丈夫ですよ。もしそのようなお部屋でしたら、すぐに変更してもらいますから」


 レナがさりげなく看護師に視線を向けると、看護師は慌てて首を振った。


「大丈夫ですよ! 『例の部屋』というのは特別室のことですから。通常はお忍びで入院されるVIPの方が使用されるお部屋で、普段は空き部屋として管理されているんです」


(ちょ、ちょっと……待て……)


 カズヤの脳内に、真っ白な高級ホテルのような内装と、恐ろしい額の差額ベッド代の請求書が浮かんだ。


「はい? 俺……そんな待遇を受けるような人間じゃないし!? 大部屋で十分だし、そもそもそんなお金、どこにもないって……! 予定通り、二、三日で退院させてください」


 必死の訴えも、レナの断固とした、けれど慈愛に満ちた言葉に遮られた。


「ダメですよ。今帰られてしまいますと……お部屋の模様替え、今まさに工事中なのです。埃っぽいですし、音も響きますから、ゆっくり休めるような環境じゃありませんよ」


「工事……? 掃除だけじゃなかったのか?」


「ええ、夜月くんが快適に過ごせるように、少しだけ、本当に少しだけ手を入れさせていただいているんです」


 ニコリと微笑むレナ。その背後に透けて見える「お嬢様」のスケールの違いに、カズヤはただ天井を見上げ、遠のいていく自分の常識を必死に繋ぎ止めようとしていた。



特別室と加速する困惑

「え? ちょっと……綾瀬さん!? 工事って……なんですか? 家を工事なんて聞いてないよ。それに、俺の今後の生活費の蓄えは残しておきたいから、家にお金をかける余裕なんてないよ……」


 カズヤの背筋を冷たい汗が伝った。もしかして、親切を装って法外なリフォーム代を請求されるのではないか。

(これ……新手の詐欺なのか!?)


 そんな被害妄想に近い不安を抱くカズヤに、レナは機嫌よさそうに目を細めた。


「んふふ、夜月くんに請求なんてしませんよ。勝手に、わたしがしていることなのですから♪」


 そのやり取りを傍らで聞いていた看護師が、感心したように、あるいは少し呆れたように苦笑いを浮かべる。


「気前のいい彼女さんですね……。羨ましいくらいですよ♪」


 車椅子に揺られ、案内された「例の空き部屋」。重厚な扉が開かれた先には、病院の無機質さとは無縁の光景が広がっていた。


 広々としたリビングのような空間。最新式のシステムキッチンに、清潔感溢れる独立したトイレ。さらには、大理石調のタイルが敷き詰められた広々としたバスルームまで完備されている。病棟を出ることなく、すべての生活がこの一室で完結するように設計された、浮世離れした「特別」な空間だった。


「良いお部屋そうで良かったですね、夜月くん」


 レナは満足げに室内を見渡し、ふかふかのソファに指を滑らせた。


(ここ一泊……一体いくらかかるんだよ!?)


 カズヤは豪華な調度品の一つひとつに視線を移すたび、胃が痛むような思いだった。これまでの人生、贅沢とは縁遠い生活を送ってきた彼にとって、この至れり尽くせりの環境は、安らぎよりもむしろ、底知れぬ恐怖に近い感覚を呼び起こしていた。



琥珀のキッチン、初めての味

「こちらなら、わたしも過ごしやすくなります♪ ソファーにキッチンもありますよ」


 部屋を隅々まで見渡し、満足げに頷いたレナが、太陽のような笑顔を向けた。その言葉の響きに、カズヤの心臓はまたしても落ち着かない音を立て始める。


「こちらは、面会時間の制限はありませんので……ご自由にどうぞ」


 去り際、看護師が含み笑いを浮かべながら、余計な一言を添えていった。


(……余計なことを言わないでくれ……)


 カズヤの内心の叫びをよそに、レナはその言葉に敏感に反応した。


「そうなのですか……。そう……ですね……でしたら……」


 レナは柔らかそうな頬に人差し指をあて、何やら真剣に考え込んでいる。その仕草一つをとっても、絵画のような美しさが病室に溢れ、カズヤは視線の置き場に困るばかりだった。


 看護師が静かに扉を閉めて出て行くと、広い特別室には二人きりの沈黙が流れた。しかし、その静寂を破ったのは、レナの弾むような声だった。


「夜月くん、何か食べたい物はありませんか? わたし、こう見えてもですね……料理が好きなのですよ♪ 作れるものなら作りますから、ご一緒に食べませんか?」


 レナが琥珀色の瞳をキラキラと輝かせ、期待に満ちた表情で覗き込んでくる。

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