表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雪だるまが溶けない宰相の冬

作者: 奇譚端
掲載日:2026/01/06

 

 北の大国ヴォルフラム帝国の王都は、あの日以来、冬という概念そのものを冠として戴いたかのように、あまねく白に沈んでいた。


 天蓋を覆う鉛色の雲からは、音もなく雪片が零れ落ち、幾重にも降り積もった白雪が地上の喧騒をすべて吸い込んでいる。

 石造りの回廊を歩けば、吐き出す呼気が瞬く間に白濁し、冷気を含んだ風が頬を撫でるたびに、皮膚の感覚が薄い氷膜に閉ざされていく。

 それはまるで、世界そのものが呼吸を止め、誰かの愛おしい時間を永遠に保存しようとしているかのようだった。


 その皇城の中枢たる回廊を、帝国の若き宰相シグムント・フェルナーは、見えない重圧と戦うように歩を進めていた。


 眉間に刻まれた深い皺、あえて香油で撫でつけられた鉄紺色の髪、そして眼鏡の奥で鋭く光る瞳。それらが構成するのは「冷徹な宰相」という完璧な仮面だ。

 だが、その仮面の裏側で、彼の中身は悲鳴を上げていた。


 手元の革で作られた重厚な紙挟み。その最上段にあるのは、『皇妃殿下の散歩コースにおける気温調整に関する緊急金策案』である。

 申請者は、皇帝ヴェルト・ヴォルフラムその人だ。

 かつて「氷の彫像」と恐れられた冷酷な王子は、今や愛妻のくしゃみ一つで国庫を動かしかねない、史上稀に見る過保護な君主へと変貌していた。


「……また魔導省の管轄か。温室維持の魔石消費量が、先月と比べても三割増し……。おまけに執務室のインクまで凍りついている始末だ」


 シグムントはこめかみを指で押し、重い溜息を吐き出した。

 連日の徹夜で強張った肩、胃の腑を焼くほど煮詰まった苦い茶の澱だけで、辛うじて繋ぎ止められた意識。

 世界を凍らせてでも一人の女性を守り抜いた皇帝の「愛」は美しい。吟遊詩人が歌えば涙を誘う英雄譚だ。だが、その「凍らせた世界」の運営を任された実務家の苦労など、詩の行間には一行たりとも記されていない。


 彼の孤独な戦いを理解する者は、この広い城内にも数えるほどしかいない。


 不意に、背後から軽やかな足音が鼓膜を打った。


 重厚な絨毯を踏みしめる音ではない。

 タタタ、という小動物が跳ねるような、あるいは春の雨だれのような、場違いに愛らしいリズムが急速に距離を詰めてくる。


「しぐ、もんとっ」


 その名を呼ばれた刹那、シグムントの肩が反射的に強張った。

 振り返るべきではない。振り返れば、宰相としての時間は終わりを告げる――理性がそう警鐘を鳴らすよりも早く、腰のあたりに温かく柔らかい塊が衝突した。


「だっこ!」


「……皇女殿下。廊下は走らぬよう、幾度申し上げれば――」


 諫める言葉が形を成す前に、幼い腕が宰相の仕立ての良い外套に絡みつき、生地にしがみつく。


 齢三歳。ヴィティ。

 皇帝ヴェルトと皇后ルミの間に生まれた、唯一の愛娘。

 この永遠に続く冬の世界に咲いた、奇跡のような一輪の花だ。


 追走してきた侍女たちが、数歩手前で足を止め、困惑と安堵の入り混じった溜息を漏らす気配がした。

 彼女たちは知っているのだ。この小さな暴君を鎮められるのは、父親である皇帝以外には、なぜかこの堅物の宰相しかいないことを。


 シグムントは観念し、深く重い息を吐き出すと、屈み込んでその小さな体を抱き上げた。

 腕の中に収まった瞬間、驚くほどの軽さと、ミルクと砂糖菓子のような甘い匂いが鼻腔を満たす。


 ――ああ、なんと温かいのだろう。


 雪の妖精のような名を持ちながら、その体温は陽だまりのように柔らかい。

 氷のように張り詰めていたシグムントの神経が、その熱に触れた箇所から、じわりと強制的に氷解させられていく。

 書類のインクと鉄錆、そして古紙の匂いが染み付いた彼の無彩色の世界に、唯一もたらされる色彩。


 その抗いがたい心地よさこそが、何よりも厄介な毒であった。


「……おとなしくしてください。私は今、国家の存亡に関わる重大な任務を遂行中なのです」


「うん。おしごと、がんばって」


 宰相の苦悩など露知らず、ヴィティは無垢な瞳を瞬かせ、あどけない声援を送ってくる。

 その瞳は、すべてを見透かしているように澄んでいた。

 子供の直感なのだろうか。ヴィティは時折、まるで「シグムントがつかれていること」を肌で感じ取り、それを分け合うためにしがみついてくるような素振りを見せる。

 両親の愛を一身に受けて育った彼女は、愛を与えることにも躊躇がない。


 その純真な信頼が、シグムントの古びた心臓をぎゅっと締め付けた。


 任務。宰相が自ら遂行すべき重大任務。

 それは、皇帝が「執務室という名の密室」で愛妻との甘い時間を過ごしている間、邪魔が入らぬようこの幼子の子守りをするという一点に尽きる。

 帝国の頭脳と謳われる男が、最終決裁の印章ではなく、三歳児の小さな掌の上で踊らされているという現実は、喜劇を通り越して救いですらあったかもしれない。


 ヴィティは退屈しのぎとばかりに、シグムントの眼鏡に興味を示し、小さな指先を伸ばしてきた。


「それは玩具ではありません」


「なんで?」


「これを奪われると、私が宰相としての威厳を維持できなくなるからです」


「しぐもんと、しぐもんとじゃなくなる?」


「……左様です。ただの、枯れ果てた男に成り下がります」


 自嘲を込めて呟くと、ヴィティは何かを深く思案するように眉を寄せた。

 そして、小さな両手でシグムントの頬を、むにゅりと挟み込んだ。


「じゃ、だいじ。まもる」


 柔らかな掌の感触。そこから伝わる熱が、凍えた頬に染み渡る。

 胸の内側で、何かが音を立てて崩れ落ちそうになるのを、シグムントは懸命に堪えた。

 誰にも守られることのない「宰相」という立場。皇帝の盾となり、国民の生活を背負い、誰にも弱音を吐けない孤独な役職。それを、この小さな手だけが守ろうとしてくれる。


「でも、しぐもんと、いつも、こわいかお」


「……仕事をしている顔とは、得てしてこういうものです」


「じゃあ、わらって。しぐもんとがわらうと、ヴィティもうれしい」


 皇女の言葉は、この国においてはいかなる法典よりも重く、そして優しい。

 シグムントは顔面の筋肉を総動員し、なんとか口角を持ち上げた。引きつった笑みだったろうが、ヴィティは花が咲くように破顔し、満足げに窓の外を指差した。


「ゆき」


 窓枠の向こうでは、新雪が城の尖塔を柔らかく包み込んでいる。

 その白さは、過去の傷も、現在の苦悩も、すべてを等しく覆い隠してくれるようだった。


 歩みを進めるにつれ、空気の質が変わった。

 回廊に漂っていた高貴な香油の匂いが薄れ、代わりに鼻をつくのは、研ぎ澄まされた鉄の匂いと、革防具が擦れる音。

 近衛騎士団の訓練場が近い。

 シグムントが居住まいを正そうとした次の瞬間、前方の重厚な扉が内側から開かれた。


 現れたのは、冷たい外気を身に纏い、白い息を吐く一人の女騎士だった。


 実戦用の黒革の軽装鎧を身に着け、腰には使い込まれた長剣を佩いている。肩口には払いのけ忘れた細かな雪が付着しており、彼女が今まで外気の中で剣を振るっていたことを物語っていた。

 無造作に束ねた亜麻色の髪と、化粧気のない凛とした顔立ち。

 彼女の瞳がシグムントと、その腕の中の皇女を捉えた瞬間、剣呑な武人の光が消え、護衛対象を見つけた安堵と――隠しきれない柔らかな色が滲んだ。


「……宰相閣下。それに、姫様」


 抑揚のない報告口調でありながら、その声音には、彼らを案じるような響きが含まれている。


 彼女の名はアストリッド・アステリア・アストレイア。

 近衛騎士団の小隊長にして、皇女ヴィティ付きの専属護衛を務める騎士だ。


 アステリア・アストレイア。星の乙女、あるいは正義の女神。

 そんな神話めいた美しいフルネームを持ち、深窓の令嬢として生きることも許されたはずの彼女は、しかし自ら泥と鉄の道を選んだ。

 ドレスよりも革鎧を、扇よりも剣を愛し、その実力のみで若くして隊長の座を勝ち取った傑物である。


 媚びず、飾らず、嘘をつかない。

 虚飾と腹の探り合いに満ちたこの王宮において、彼女の存在は、研ぎ澄まされた一本の刃のように清冽で、シグムントにとって眩しすぎるほどの「真実」だった。


 アストリッドは呆れたように、しかし愛おしげにヴィティを見つめた。


「私が訓練のために少し目を離した隙に、侍女たちの包囲網を突破されたのですね?」


「うん! あしゅとりっど、おしごと、おわった?」


 ヴィティは悪びれもせず、期待に満ちた瞳で問いかける。どうやら、訓練中のアストリッドが構ってくれないため、痺れを切らしてシグムントの元へ走ったらしい。


「……はい、終わりました。ですが、廊下を走ってはいけませんよ」


 短いやり取りの中に、濃密な信頼関係が見て取れる。ヴィティにとってアストリッドは、単なる護衛を超えた姉のような、あるいはもう一人の母のような存在なのだろう。


 アストリッドは次にシグムントへと向き直り、その顔色を遠慮のない視線でじっと観察した。

 彼女の視線は、書類上の数字のズレを見つけるシグムントの目とは違う。人の命の揺らぎを見抜く、戦場の目だ。


「……閣下。また目の下が暗くなっておられます。睡眠時間は確保されていますか?」


「国家に休みはありません。それに、誰かさんが余計な予算申請を通してくるせいで、調整に追われているのです」


「国家には休みがなくとも、それを支える人間には休息が必要です。……姫様をお守りする私としても、閣下に倒れられては困ります」


 アストリッドは一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せ、やや躊躇いがちに続けた。


「……皇后陛下も、よく似たことを仰います」


 シグムントが眉を上げるより早く、彼女は静かに言葉を重ねた。


「国の(ことわり)よりも先に、人の体温を気にかけるお方です。……凍えた兵に毛布を掛ける仕草を、姫様はよく真似なさるのですよ」


 それは称賛でも、告白でもない。ただ現場に立つ者の、静かな観測だった。


 その言葉の端々は、独り言のように小さくこぼれていた。その不器用な気遣いが、シグムントには眩しく、そして少しだけ痛い。


「帝国の威信に関わると、そう言いたいのですか」


「いいえ。帝国の平和を象徴する、実に好ましい光景かと申し上げているのです」


 慇懃な一礼とともに返された言葉に、シグムントは苦い顔をするが、内心では安堵していた。彼女の前では、なぜか肩の力が抜けるのだ。

 彼女もまた、この「終わらない冬」の世界を剣一本で守っている同志だ。言葉を交わさずとも、背負っている重さを共有できているという感覚が、シグムントを安らがせた。


 ヴィティが待ちきれない様子で、アストリッドの方へ両手を伸ばした。


「だっこ、して」


「はい、おいでなさいませ」


 シグムントの腕から、温かな重みが離れていく。アストリッドが慣れた手つきで皇女を受け止めた。

 その手は、貴婦人のように白く柔らかいものではない。剣だこがあり、無数の傷が刻まれた、武人の手だ。

 だが、その一瞬の受け渡しの際、彼女の指先がシグムントの手の甲に触れたとき、そこには驚くほど繊細な熱があった。


 革の手袋越しの接触。それなのに、微弱な電流が走ったように心臓が跳ねる。

 喪失感と、奇妙な高揚感。


 アストリッドはヴィティを抱き直すと、訓練場の外れに視線を向けた。

 そして、まるで戦況報告でもするかのように淡々と、しかし確信を持って告げた。


「……さて。宰相閣下、皇帝陛下より伝言を預かっております。会議は長引くため、閣下は“適宜、休憩を取れ”と」


「陛下は、休憩という言葉の定義をご存じないようですね。それはつまり、『今は妻と二人きりでいたいから誰も入れるな』という遠回しな勅命でしょう」


「私も同感です。ですが……今日は特別です」


 アストリッドは悪戯っぽく微笑み、ヴィティに視線を向けた。


「姫様が、閣下に見せたいものがあるそうです。訓練中にずっと、雪だるまを作って待っておられましたから」


「みる!」


 弾むような声。アストリッドは微笑み、そして遠慮がちにシグムントへ視線を戻した。


「宰相閣下。もしよろしければ、閣下もご一緒に。……姫様は、私と二人よりも、三人でご覧になるほうがお喜びになります」


 殿下のため。そう前置きしなければ誘えない不器用さが、彼女らしい。

 シグムントは、断る理由を探した。山積みの書類、待機する部下たち、財務評議会の根回し。

 だが、目の前の二人が醸し出す柔らかな空気が、彼をその場に縫い止めていた。

 この雪景色の中で、彼女たちが放つ温度だけが、シグムントを生身の人間として繋ぎ止めている。


「……十五分だけです。外気で思考が凍結する前に戻ります」


「ふふ。承知いたしました」


 アストリッドが嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見た瞬間、シグムントは自分が正しい選択をしたのだと直感した。たとえその代償として、今夜も徹夜が確定したとしても。


 中庭は、静寂そのものだった。

 降りしきる雪がすべての音を吸音し、世界を綿で包んだような静けさが支配している。

 その中心に、不格好だが愛嬌のある小さな雪だるまが鎮座していた。

 黒い石の瞳、小枝の口。そして頭頂部には一枚の紙片。


「……これは?」


 ヴィティが誇らしげに胸を張る。

 彼女は、シグムントに向かって二つ折りの紙片を差し出した。


「あけて。しぐもんと、って、かいた」


 紙片には、幼い文字で「しぐもんと」とある。

 シグムントは眩暈を堪えるように目を閉じた。


「殿下。私の名はシグムントであって、“開けろ”という命令語のような名前ではありません」


「あけて!」


 譲らないヴィティの隣で、アストリッドが声を殺して笑っている。

 普段は鉄のような規律の中に生きる彼女が、年相応の少女のように肩を震わせている。その無防備な姿が、シグムントの胸を甘く掻き乱した。


 雪の降る中庭。三歳の皇女。そして、彼女を守る女騎士。

 孤独だったはずの宰相の周りに、今、確かな体温がある。

 それがどうしようもなく愛おしく、同時に恐ろしかった。

 この温かさに慣れてしまえば、もう冷たい執務室には戻れないのではないか。かつて皇帝が、全てを捨てて皇后を選んだように、自分もまた「何か」を間違えてしまうのではないか。


 ヴィティがシグムントの外套の裾を引く。


「しぐもんと、ゆき、さわって」


 アストリッドが頷いた。


「閣下。雪は冷たいだけではありません。触れたその瞬間に、確かな形を残すのです」


 その言葉に押され、シグムントは手袋を外し、素手を冷気に晒した。

 新雪に触れる。指先を刺す鋭い冷たさ。

 ――ああ、なんと冷たい。

 皮膚を噛むこの鋭さは、単なる気象ではない。一人の女性を救うために皇帝が凍結させた、世界の『因果』そのものの温度だ。

 肺を焼くほどに静謐で、恐ろしいまでの停滞。

 だがその痛みだけが、逆説的に『今、生きている』という鮮烈な実感を与えていた。


 ヴィティがシグムントの凍えた手を、小さな両手で包み込もうとする。


「あったかく、して」


「……殿下、それは無理です。私の手は冷たい。書類と金貨、そして凍てついた国政ばかり触っている手ですから」


「じゃあ……」


 ヴィティは小さな頭を回転させ、唐突に、しかし彼女なりの真剣な解決策を提示した。

 大好きなシグムントと、大好きなアストリッド。この二人を繋げれば、きっともっと温かい。


「しぐもんと、あしゅとりっど、と、けっこん」


 時が止まった。

 風の音さえも消えたかのような静寂。


 アストリッドの目が極限まで見開かれ、雪景色の中で際立つほどの赤色が、首筋から耳へと一気に駆け上がっていく。

 シグムントもまた、言葉を失った。

 結婚。その単語が持つ甘美な響きと、自分たちとのあまりの懸絶に、思考が追いつかない。

 自分は、凍った世界の後始末をするだけの影のような男だ。光の中を歩く彼女の隣になど、立てるはずもない。


 沈黙が痛いほど長く落ちる。

 アストリッドが震える声で言った。


「ひ、姫様! 結婚とは……その、当事者たる二人が、決めること、です! それに、私のような剣しか持たぬ無骨な女など、閣下には……!」


 彼女はシグムントの方を見ない。見れないのだ。

 その横顔が、戦場での凛々しさとは程遠い、ただの恋する乙女のように脆く見えて、シグムントの胸の奥を切なく刺した。


 ヴィティが小首を傾げる。


「しぐもんと、いや?」


 嫌なはずがない。

 だが、自分は宰相で、彼女は近衛騎士だ。この国を支える二本の柱が揺らげば、不安定な平和は崩れかねない。

 何より、この淡い関係に名前をつけてしまえば、皇帝夫妻のように「世界を敵に回す」覚悟が必要になるかもしれない。

 ふと、アストリッドと視線がぶつかった。

 革手袋越しに触れた指先の熱が、幻のように皮膚の奥で明滅し、シグムントの理性を揺さぶった。


 沈黙を救ったのは、アストリッドだった。

 彼女は深呼吸をし、意を決したように顔を上げ、ヴィティに優しく語りかけた。


「殿下。宰相閣下は“嫌”なのではなく、“難しい”のです。……閣下は、この帝国でいちばん難しい書物のような方ですから」


 アストリッドが一瞬、シグムントへと視線を流す。その瞳には、今まで隠していた熱情が、ほんの少しだけ灯っていた。


「私もずっと読み解こうとしてきましたが……私のような騎士には、一生かかってしまうかもしれません」


 その声には、諦めと、それでも捨てきれない慈愛が滲んでいた。

 一生かけてもいい、という願望にも聞こえるその言葉に、シグムントはたまらず視線を逸らした。

 心臓の音が、雪原に響きそうなほど高鳴っている。


「……隊長。勝手な注釈を付けないでいただきたい」


「では、注釈ではなく事実として訂正しておきます」


 気まずさと、くすぐったさが入り混じる沈黙。だが、それは決して不快なものではなかった。

 二人の間にある「難しさ」を共有できたこと自体が、一つの進展だったのかもしれない。


 ヴィティが突然、太陽のような笑顔で宣言した。


「じゃあ、きょうは、ゆきだるま、いっしょに、つくる!」


 アストリッドが頷き、どこか縋るような目でシグムントを見た。


「閣下。……姫様のお願いです」


 シグムントは小さく溜息をつき、膝を折って雪の上に跪いた。

 高価なスラックスが濡れることも、今はどうでもよかった。

 アストリッドもまた、細かな作業に備えるように、静かに革の手袋を外して雪の上に置いた。


 ヴィティが雪を転がし、シグムントが形を整え、アストリッドがそれを支える。

 作業の中で、偶然、アストリッドの指先がシグムントの手に触れた。


 素肌と素肌の接触。冷たいはずの雪の中で、そこだけが火傷しそうなほど熱い。

 二人は一瞬動きを止めたが、どちらも手を引かなかった。

 シグムントの冷え切った指先を、アストリッドの鍛えられた指先が、包み込むように触れている。


 ふと、彼女が長い睫毛を伏せ、困ったように――けれど愛おしそうに、口元だけで微かに微笑んだのが見えた。

 それは、鉄の仮面を被った騎士が、ただ一人の男の前だけで鎧を脱いだ瞬間だった。


 言葉には出せない想いを、その接触だけで確かめ合うように。


 出来上がった雪だるまは、歪で、不格好だった。

 だが、その歪みこそが、三人で作った時間の結晶だ。

 ヴィティが満足げに「できた!」と叫ぶ声を聞きながら、シグムントは自然と笑みを浮かべていた。それは、仮面の下の、彼自身の本当の笑顔だった。


 遠くで鐘が鳴る。休息の終わりの合図だ。


 任務に戻らねばならない。冷徹な宰相の仮面を被り直さねばならない。

 だが、今はまだ、この温もりの余韻に浸っていたかった。


 ヴィティがシグムントの冷えた手を、再び両手で包み込んだ。


「しぐもんと、また、あしたも、だっこ」


「……明日も会議が長引くようであれば、そうなるでしょう」


「やった」


 アストリッドが立ち上がり、優しく微笑んだ。その瞳は、雪解けの水のように澄んでいる。


「閣下。明日も……微力ながら、お手伝いいたしましょうか。書類仕事は手伝えませんが、少なくとも、閣下の黒茶が凍らないように見張ることくらいは」


 それは、明日もまた会いたいという、彼女なりの精一杯の求愛だったのかもしれない。

 シグムントは、喉元まで出かかった公的な拒絶を飲み込み、不器用な肯定を選び取った。


「……必要が生じれば、要請します。……私の執務室は冷えますから、貴女のような生きた暖炉が必要なのかもしれません」


 少しだけ踏み込んだ言葉に、アストリッドが目を見開き、そして嬉しそうに頬を染めた。

 だが、シグムントはそこで終わらせなかった。眼鏡の位置を指で押し上げ、一拍置いてから、視線を逸らさず言葉を継いだ。


「それに、直近の気温低下に伴う皇女殿下の護衛体制についても、再考の余地があります。……明日の同時刻、執務室にて詳細な報告を求めます。以後、これを定例とします」


 必要。そう定義しなければ自分を保てないほど、彼はもう、この二人の温もりに依存し始めていた。

 だが、それは決して悪いことではない。

 かつて世界を敵に回して愛を貫いた主君のように、自分もまた、この小さな春を守るために戦えるのなら。


 雪が降る。

 ヴォルフラム帝国の冬は、終わらないかのようだ。世界は明日も、凍てついたことわりの中に閉ざされているだろう。

 だが宰相シグムントの胸の奥底には、溶けない氷河を抱きしめるように、小さな、けれど決して消えることのない熱が灯り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ