9 久住由紀子 その2
「晴彦! 元気なの? 怪我はない?」
泣きながら由紀子が問うと、少しはにかんだ声が大丈夫と答えた。
「今、どこ? どこにいるの? どこにいてもお母さんがすぐに迎えに行くから」
逸る気持ちそのままに早口になる由紀子を、
「待って、お母さん。その前に、話をして欲しい人がいるんだ」
晴彦がもどかしくなるようなおっとりとした口調で押し止めた。
「今、代わるから」
「一体誰と」
何を話せというのだろう。
問い質す間もなく、晴彦に代わって男性の声がした。
「もしもし、晴彦君のお母様ですか?」
「はい、そうですけど」
もしや悪い人間に関わって、何かトラブルに巻き込まれているのではと急に不安になった。
「初めまして。私は羽崎薫と申します」
優しげな声の持ち主は、礼儀正しく突然の電話の詫びを言い、順序良く晴彦を保護した経緯を語った。
「さぞご心配されていた事と思いますが、晴彦君は元気で私の家に居りますのでご安心ください」
電話の相手は声と説明を聞く限り善良な第三者に思われた。
「ありがとうございます。息子がご迷惑をおかけいたしまして申し訳ございませんでした。早速迎えに参りますので、恐れ入りますがそちらのご住所を」
とにかく晴彦の無事な姿を見たかった。どれほど遠くに居ようと、今から駆け付けるつもりだったが、
「あの、その前にご相談があるんですが」
羽崎の妙な申し出が由紀子の声を遮った。
「相談? 何でしょうか」
「もしよろしければ、暫く晴彦君をここで預かりたいのです」
「預かりたいって……どういうことですか?」
じわりと背中に嫌な汗が浮く。
「タダでは帰さないと?」
震える声で問う由紀子に、羽崎は慌てて言い添えた。
「あ、誤解しないでください。金銭を要求しようというのではありません」
「じゃあ何が目的なんですか!」
胸が潰れる思いで息子の無事を祈り続け、ようやく元気な息子の声を聞けた母親から再び息子を奪う行為が善意から出る訳がない。
「これは晴彦君が希望したことでもあるんです」
「そんな訳ないでしょう!」
すでに家出と言う形で息子が『家』を拒否したことは無視した。
「晴彦は帰りたいはずです! 私がいるこの家に帰りたいはずなんです!」
家とはある意味母そのものだ。帰宅を拒むことは、母親を拒むのも同じ。それだけは耐えられなかった。認めたくなかった。
「晴彦を帰してください! 家出した子供は家に帰すのが当然でしょう! 今すぐ私が迎えに行きますから! そこはどこなんですか! あなたの家はどこにあるの!」
怒りに任せて叫んだ由紀子は、喉の力みに負けて咳き込んだ。咳のせいだけではない涙が滲む。
二度、三度大きく息を吸い込んで何とか咳を鎮めると、それを待っていたかのように羽崎の落ち着いた静かな声がした。
「イジメの問題は解決に向けて何か進展がありましたか」
思わぬ話を切り出され、由紀子は言葉に詰まった。
話は晴彦から全て聞いたと言う。それは当然だろう。羽崎がどれほどの善人であろうと、行き倒れた子供の事情を何一つ知らないままで預かりたいなどと言う訳がない。
そして今更ながら、息子が家出した原因である根本的な問題を放置していたことを思い出した。
晴彦はきっと両親がイジメの解決に対して何もしてくれないと思っているのだ。
無能な担任と無力な母親と無理解な父親では家出した後も事態は何一つ好転していないと予想して、だから、帰りたくないと言っているのだ。
黙り込んでしまった由紀子に焦れ、羽崎が問いかけて来た。
「今、ご主人は御在宅ですか」
「いいえ、まだ仕事で」
「連絡は取れるでしょうか」
「多分。会社に居ると思いますから」
「では、どうぞ一度ご主人とご相談なさってください。私もご両親の意向に反してまで晴彦君をここに止め置く気はありません。お二人が晴彦君を家に帰して欲しいとおっしゃるなら、私が責任を持って晴彦君を家まで送り届けます」
確かに母親の由紀子一人で即断できる問題ではなかった。夫が何と言うか想像はついたが、とりあえず息子の無事は伝えたかった。
「あの、それでは改めてご連絡いたしますので、そちらの電話番号を」
由紀子が問うと、羽崎がため息をついた。
「申し訳ありませんが、私の電話番号はお教えできないんです。住所も同様です。ご連絡は晴彦君の携帯へお願いします」
「どうしてですか」
ここに至って、羽崎薫がどこの誰なのか不明なままだったことを思い出した。
晴彦を保護してくれた事には感謝するが、住所も電話番号も言わない彼の背景を邪推すると、随分胡散臭い人間に思えてくる。
疑えば羽崎が本当の名前なのかどうかも怪しい。
「他人の子供を預かりたいと言いながら自宅の住所も電話番号も教えられないなんて、おかしいじゃありませんか」
問い詰める口調になった由紀子に、羽崎は穏やかに答えた。
「申し訳ありません。そう言えば、ご主人は新聞記者だそうですね。マスコミの方なら、もしかしたら私のことをご存知かもしれません。小説家の羽崎薫。それが私が住所も電話番号も他人に明かさない理由ですから」
「小説家……羽崎さんって小説家だったんですか」
驚いて問い返した由紀子に、無名ですがと照れたような笑い声が返った。
「そうだ、私の身元保証をしてくれそうな人間の連絡先も伝えておきます」
メモをと言って彼が告げたのは、由紀子も知っている一流出版社の、懇意の編集者だと言う人間の名前だった。
「第一出版部で副編集長をしている岸原和史という人です。公正で正直な人です。私は所謂堅気の仕事はしていないし、住所も電話番号も教えないとくれば胡散臭いことこの上ない人間ですが、私を知る人間が一応しっかりした会社に勤める社会人であれば、少しは安心していただけるかと」
羽崎は由紀子の不安を見抜いたように言い添えて、軽く笑った。
「もう一度晴彦君に代わりますから、晴彦君自身の気持ちも聞いてあげてください」
由紀子が何を思う間もなく、電話から晴彦の声がした。
「……お母さん」
一言呼びかけた後、晴彦は黙り込んでしまった。何かに葛藤し、懸命に言葉を探している感じがした。
「晴彦、やっぱり帰りたいならお母さんが迎えに」
里心がついたのかもしれない息子に助け船を出したつもりが、
「お母さん。僕は……今は帰りたくないんだ」
逆に背中を押してしまったようだった。
「僕はここで、僕自身の事を少し考えてみたいんだ。お父さんにもそう言って」
晴彦の声には迷いはなく、羽崎に無理やり言わされている感じではなかった。
「連絡は僕の携帯にして。待ってるから」
羽崎も一緒に待ってくれるという。少なくともあの無責任な担任教師よりは誠意がありそうな気がした。
由紀子は携帯の通話を切ると、夫の携帯へ発信履歴を利用して連絡する。
夫への電話が晴彦の家出を聞いたあの日以来ない記録を見て、長いため息をついた。