7 提案
晴彦が全てを語り終えると、口を挿むことなくじっと話に耳を傾けてくれていた羽崎が、すっかり冷めてしまった日本茶の代わりに甘いミルクティーを入れてくれた。
晴彦がミルクティーを飲む間、羽崎は黙って思考を巡らせるような顔つきで掃き出し窓の外を見ていた。
「君の話を聞いての、僕個人の意見だけど、聞いてくれるかな」
茶を飲み干した晴彦がカップを置くのを待って、羽崎が問いかけて来た。晴彦が頷くと、羽崎は少し暗い表情で語り出した。
「気の毒だけど、君がこのまま家に帰って学校に行っても、何一つ状況は変わらないと思う。君が家出した事実を知っても、イジメをやってる奴は反省なんてしない。教師は家出の原因を家庭の問題にすり替えてイジメの対処なんか考えないだろうし、ご両親も今一つ君の苦悩も事の深刻さも理解していないから、もっと悪くなる可能性さえある」
それは晴彦も放浪している間予想していたことだった。
「イジメから逃れるために一番現実的で有効なのは転校だけど、住んでいる所によっては校区の規制があるから家を引っ越さない限り難しいだろう。学校に味方はいないし、ご両親が解決に有効な打開策を打ち出してくれるとも思えない。教育委員会に直接訴えれば、なんて希望は持たない方がいい。イジメに遭ったと遺書を残して生徒が自殺しても、それをなかなか認めない組織だからね。登校拒否は高校入試を考えれば不利益過ぎる。いっそ今年度の受験を諦めて学校を休んで来年度受験する手もあるが、まずご両親の賛同は得られないだろうから無理だね。どう考えても八方ふさがりだ」
だからこそ家出したのだ。
もうどうにもならなくて、現在も未来も投げ捨てて来た。
「その上で、君に聞きたい。君はこれからどうしたいかな?」
どうしたいかと問われても、選択肢などあるわけがなかった。自分がどう考えようと、家出中の未成年なのだから家へ強制送還されるだけだ。
しかし羽崎は晴彦の思考を読んだように首を振った。
「周りの事情は関係ない。実現が可能か不可能かもこの際考慮しなくていい。君自身の純然たる意思を聞きたいんだ」
現実に横たわる壁や常識の足枷を全て払って考えろと言われ、かえって晴彦は迷った。
どうなればいいか、と問われたのであれば、イジメがなくなって普通に学校に通えるようになればいいと答えた。
しかし問いは「どうしたいか」だ。
だったら単純に学校に通いたい、だ。
が、何か違う気がした。
元々学校はあまり好きではなかった。比較的気の合うクラスメートと過ごすのはそれなりに楽しかったが、トラブルを避けようと自分の気持ちを押し殺して相手に合わせる窮屈さがあったし、自分より要領のいい人間がうまく立ち回って得を得る様子を見るのも不愉快だった。
学校に通いたいのは高校へ行くため、引いては大学、その先にある就職を他人より有利に進みたいからだ。学校そのものに魅力を感じてはいない。だから、学校に通いたいというのは正解ではない。
改めて考えれば考えるほど、自分はこれから本当はどうしたいのかビジョンが全く浮かばなかった。
戸惑う晴彦に、羽崎が鋭く切り込んできた。
「実は、今一番問題なのは君が自分がどうしたいのかを自分で分かっていないことじゃないかと思うんだよ」
ハッとして顔を上げると、怜悧な作家の目が晴彦を見ていた。
「例えが僕個人の話で申し訳ないが、僕は小説を書く時はまず主題、これを書くという明確なテーマを決めるんだ。そうでないと物語の軸がぶれてしまうから。人生も似たようなものだよ。自分の思考や行動の指針が決まらない内に歩き出しても遭難する。イジメの問題を含めて、君が君らしく生きるために今最も必要なのは、自分自身の考えをしっかり把握することじゃないのかな」
それでね、と彼は軽く身を乗り出して問いかけてきた。
「もし君が良ければ暫くここに滞在してみないか」
「え、ええっ?」
意外な彼の申し出に、瞬間、晴彦は意味が理解できず問い返した。
「僕が? この家に、ですか?」
「そう。勿論ご両親の承諾を得た上での話だけど。さっきも言ったように、このまま家に帰っても君にとって良いことは一つもない。僕の方も君を家に帰すのは簡単だけど、事情を知った今は無理に帰しても後味が悪い。それなら君が今後のことをゆっくり考える時間と場所を提供したいと思って」
それは願ってもない話だった。とりあえずあの地獄へ戻らなくて済む。
「で、でも、迷惑じゃ」
「迷惑と思うならこんな提案はしないよ。僕は、君がどんな答えを出すか作家として興味がある。君がいいなら、僕がご両親を説得してみてもいい」
「お願いします!」
晴彦の即答に羽崎は頷き、表情を引き締めた。
「ただ、一つ頼みがあるんだよ。この家の事も僕の事も、誰にも絶対話さないで欲しいんだ」
「え、どうしてですか」
「うん、実は――」
彼の声が急に途切れ、
「おかえりなさい」
笑顔で自分の背後にかけられた言葉に振り返ると。
あの子がいた。
温度も生気も感じさせない、人形少女が隣室の薄闇を背に立っていた。
こちらの部屋が明るいためか、彼女から闇が滲み出しているような錯覚を覚える。
「お腹空いたでしょう。冷蔵庫の中にシュークリームがありますよ」
笑いかける羽崎と対称的に、千代子は無表情だった。
返事もせず、初めて会った時と同じどこを見ているのか分からない目を晴彦に向ける事なく、晴彦のすぐ横を通っても振り返るそぶりもなく、少女はキッチンへ移動する。
そう、移動だ。
歩くと言うには彼女の気配は薄過ぎた。何かの影が自分の影を掠めて通って行った時の感覚に似ていた。
キッチンの水道で手を洗って冷蔵庫を開け、シュークリームを手に取って振り返った少女の目は、やはり何の感情も表していなかった。
「今、このお兄さんと大事なお話をしています。ご飯ができたら呼びに行きますから、自分のお部屋で遊んでいてください」
瞬きもしない黒目がちの瞳が晴彦の方にひたりと向けられる。
視線の合わない無感情な目だ。その何も見ていないような目がかえって不安を煽る。
この子の目は、人には見えない何かを見ているのではないか。
対峙する人の身体を通り越し、精神の奥底にある、本人も自覚しない暗闇を見ているのではないか。
今は動かない唇が唐突に開かれて、自分も気づかないでいる暗部を暴露し始めそうな気がして、背筋が冷えた。
しかし小さな唇は閉じられたまま瞳は逸らされ、千代子は部屋から出ていった。
晴彦は羽崎に気付かれないようにそっとため息を吐き、緊張して不自然に力んでいた身体の力を抜いた。
あの子は、怖い。
真夜中に一人きりで鏡を覗くような怖さを感じる。
「ごめんね、話の途中だったのに。どうして僕の事を誰にも話して欲しくないかの話をしてたんだったよね」
温和な笑顔で謝る彼も、晴彦には不可解だった。
千代子のあの様子を少しも気にしていない。千代子の言動が異常だと思わないくらい、彼自身も実は変わり者なのだろうか。
今の所そんな風には思えないのだけれど。
「僕は世間に僕自身の事を一切知られたくないんだよ。僕の電話番号や住所もね。君の携帯を充電するから、家へ連絡はとりあえずそれでして欲しい」
さすがに公文書への記入なら拒否しないが、個人情報をできるだけ晒したくないから銀行のキャッシュカードとネット通販の支払いのためのカード以外のカード類は一切作らないと言う。
携帯電話は持っておらず、この家の固定電話の番号も知っている人は僅か数人。仕事の連絡は基本Eメール。
「友達との連絡はどうしてるんですか」
「僕に友達なんていないよ。必要ない。もう友達に遊んでもらわなくても一人で遊べる歳だからね」
作家には変人が多いと聞くが、やはり彼もその部類か。
「どうしてそんなに知られたくないんですか」
「僕が作家であるから、だね」
彼はそれが当然であるかのように言って、微笑んだ。