6 イジメ その2
しかし二学期が始まるとイジメはさらに酷くなった。
クラスの女子達の前でズボンを引き下げられ、トイレで三人の尿入りの水を頭からかけられ、校庭の土を食わされた。
とうとう精神の限界を超えて家に帰るなり玄関先で吐いて、大声で泣いた。丁度仕事から帰って来た母に見られて問い詰められ、イジメの日常を告白した。
母はその日の内に学校に乗り込み担任に解決を迫ったが、
――男の子同士のふざけた遊びが過ぎたんでしょう
担任はイジメという言葉を回避し、遠回しに否定した。
――高校受験を控えて、みんな神経が過敏になる時期なんですよ。ちょっとしたことでも過剰に反応しやすい年頃ですし、特に久住君は繊細な性格ですから
息子の被害妄想のように言われ憤慨した母は、相手三人と学年主任も交えての話し合いを要求したが、それもかわされた。
――生徒の間の問題は下手に教師が口を挿むと拗れる場合もあるんです。もう少し様子を見てから
とりあえず明日からどういう対処をするのかと問えば、
――こういうことは黙って見守っていれば、時間が解決するんじゃありませんか?
担任の無能さをようやく悟った母はそれ以上要求することなく引き揚げ、代わりに父に相談した。
――何で黙って殴られてるんだ
母から話を聞いた父の、第一声はそれだった。
隣の市に本社がある地方紙の新聞記者をしている父は学生時代ラグビーをやっていたスポーツマンで体力と根性に自信があり、仕事も精力的にこなす人だった。だから昔から自分に似ずひ弱で消極的な息子を日頃から情けなく思っているのは感じていたが、
――殴られたら殴り返せ。お前が抵抗しないから、相手がつけ上がるんだ
この期に及んで、そんな馬鹿なことを言われるとは思わなかった。
相手は三人。殴り返したら三倍のお返しが来るに決まっている。
抵抗すれば相手が何もせず退くなんて幻想を、父は本気で信じているのだろうか。
大体暴力は嫌いだった。
仮にも自分も男だから時には喧嘩に強い漫画の主人公などに憧れもしたが、現実での暴力は恨みとトラブルを引き寄せるだけのものでしかないと知っている。
殴り合って相手を認め、爽やかに笑い合って和解するなんて実際にはありえない。
――そんなことできる訳ないでしょう。晴彦は優しい子なんだから
母が庇うと、父は怒鳴った。
――優しいんじゃない! 弱いんだ!
だからイジメになんて遭うんだ、と吐き捨てて母を睨みつけた。
――お前が過保護だからこんな軟弱な奴に育ったんだ。スイミングクラブに行かせた時も練習プログラムに体力がついていかないからと辞めさせたし、サッカークラブも指導がきつ過ぎると辞めさせた。母親のお前が甘いから、根性のない男に育ったんだ。根性があったら、相手にやられっぱなしでいるわけがない
体育会系の思考を今も信望している父は、「根性があればどんな困難も打ち砕ける」と力説した。
この人にかかれば、世の中のトラブルの全ては「根性がなかったせい」の一言で片がつくだろう。
――元々晴彦はお前に似て気が弱くて、ちょっと嫌な事があるとすぐにグズグズ言う子だった。お前が厳しく教育して逞しい男に育てていれば、イジメに遭うなんてなかった。こんな根性無しに育ったのは、お前が甘やかしたからだ
自分の信条の旗を振りつつ、父は母を一方的に責めた。
父の叱責が途切れるのを待って、
――そう、分かったわ
黙って俯いていた母が、ゆっくり顔を上げた。
――この家で何か問題が起きたら、必ず私のせいなのね
父を見返す母の目には暗い炎が揺らめいていた。
――この家を建てて早々に外壁に亀裂が入ったのも、結婚記念日に予約して行ったレストランの料理とサービスが最低だったのも、買った車がリコール車だったのも、晴彦がイジメに遭うのも、全部私のせいなのね
母はテーブルの上のカップを壁に投げつけた。カップの割れる音が母の悲鳴に聞こえた。
――何もかも私のせいなのはあなたが何もしないからでしょう! 不動産屋も施工業者もレストランもカーショップも調べて探して交渉したのは私、あなたはカタログ眺めていただけ! 面倒なことは全部私に押し付けて、あなたがするのは自分の好きな事だけじゃないの!
普段は父に従順な母がこれほど激しく反論する姿は初めてだった。
――私のすることに文句があるなら、初めからあなたが全部自分ですればよかったのよ!
――お、俺は仕事があって、忙しいから
思わぬ母の反抗に動揺し困惑する父の言葉を母は一蹴した。
――仕事なら私だってしてるわよ! 忙しいなんてやりたくないことをやらない時の言い訳だっていつも言ってるのは誰よ!
――い、言い訳じゃない。俺はお前たちのために夜遅くまで働いて
――一家の主人が家族のために働くのは当然でしょう! 当たり前なことをしてるだけなのに、偉そうに言わないで!
イジメの解決策の相談は完全に忘れられていた。
興奮した母は叫びながら泣き出して、挙げ句家を飛び出て行った。
父は母を追いかけもせず、無言で俯きソファーに座り込んでいたが、
――晴彦、学校は休むな
長い沈黙の後、顔を上げて言った。
――お父さんはお前に、相手に勝てと言ってるんじゃない。負けるなと言ってるんだ。学校に来るなと相手が言うなら、尚のこと学校に行け
続けてイジメへの具体的な対抗策が語られるものと信じて期待して待った。
が、それだけだった。
父はそれ以上何も言わず、部屋から出ていった。
翌朝になっても母は家に戻って来なかった。
父はいつもより早く会社へ出かけたようで、キッチンのテーブルの上にコーヒーカップとトーストを食べた皿が残されていた。
何か食べる気にもなれず、制服に着替えて家を出た。仲の良い友達同士が楽しげに話をしながら登校している通学路を一人でぼんやり歩いて校門近くまで来た時、無意識に足が止まった。
立ち止まった自分を同じ制服の者たちが追い越していく。
声をかけられる事もない。振り返られる事もない。
自分はモブキャラクターだ。
何かの、誰かの、背景でしかない。
急に、何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。
家でも学校でも、どこに居ても自分の存在価値はないなら、いっそ誰も知らない所へ行きたくなった。名も顔も知っている人達の中での孤独より、見知らぬ人間達の中での孤独を選びたかった。
登校する生徒の流れを離れて、街のバスターミナルに向かった。
行き先はどこでも良かったので、県外に出るバスで一番早く乗れる便に乗った。
後方の窓の中、遠ざかる街を振り返っても一片の感傷も湧かなかった。