5 イジメ その1
何がトリガーになったのか、今もって分からない。
三年生になって一カ月、ゴールデンウィークも過ぎたある日、それは急に始まった。
登校すると、自分の机がなかった。列の半ばに位置していた席があった場所はそこだけ切り取られたような空間になっていた。
周りに聞いても誰も答えるどころか目も合わせてくれない。朝のホームルームに担任教師が来るまで、その場に立ち尽くすしかなかった。
担任の女性教師はそれを本人も承知で加担した悪ふざけとしか取ってくれず、無くなった机を持って来るよう言った。仕方なく校内を探すと、机と椅子は体育館の裏で泥だらけで見つかった。
それ以来、陰湿な嫌がらせが続くようになった。
典型的だが教科書に口にするのも馬鹿らしい幼稚な悪口の落書きをされたり、返されたテストがいつの間にかカバンの中から抜かれて廊下に張り出されたりした。
同時にクラスの誰に話しかけてもあからさまに無視され、挨拶すらしてもらえなくなった。
親友と呼べるほどの友達はいなかったが、日常で普通に会話するくらいの友人はいたのに彼らも揃ってそっぽを向き、孤独の中に捨て置かれた。
黙って耐えていると、嫌がらせはエスカレートしていった。
知らぬ間にペンケースの鉛筆を全部折られる。カバンの中に水を入れられる。靴は二度捨てられた。登校すると机の中に牛乳をしみ込ませた雑巾が詰め込まれていたり、体育の後着替えたら制服の背中に白絵具をべったり付けられていた事もあった。
親には言えなかった。心配をかけたくなかった気持ちもあるが、自分がイジメの標的になる弱者で、円満な人間関係を作れない欠陥者であると認めたくなかった。
代わりに担任に相談した。が、
――単なる友達の悪戯でしょう
担任は面倒くさそうに笑った。
――悪ふざけなんだから「止めて」って言えばいいじゃないの
誰がやっているのかおおよその見当はついていたが、確固たる証拠もなしに何と言って止めさせればいいのだ。
――それなら、誰が悪戯してるかはっきり分かったらもう一度相談に来て
悪戯とか悪ふざけの限度を超えている。今、実害を被っているのに、どうして解決策を講じてくれないのか。
――あのね、先生も君たちの高校入試に向けての準備で色々忙しいの。クラスのみんなが無視するって言うけど、勘違いじゃないの? 久住君は大人しくて目立たないから、あまり話しかけられないだけなんじゃないの?
相談する相手を間違えたと後悔した。
担任は独り善がりですぐ感情的になる面があった。一部の生徒たちから『智香ちゃん先生』と呼ばれて自分では慕われていると思っているらしかったが、実は教師として頼りにならないと馬鹿にされているとも分からない愚者だった。
担任に相談して間もなく、イジメの首謀者が陰から姿を現した。
予想通り、クラスメートの宗田、品川、大石の男子三人だった。
登校してすぐ、彼らに囲まれ教室の隅へ追いやられた。
――何でお前まだ学校に来てんだよ
――ムカつくから、お前のツラ見たくねえんだよ。もう学校に来んなよ
――て言うか、死ねよ
三人共自己顕示欲の強い性格で好き嫌いが激しく、気に入らない人間に対しては態度も物言いも横柄になる人間だった。道徳も正義も自分の感情が基準の幼稚な奴らで、絶対気が合わないと思っていたが、それは彼らの方も同じだったらしい。
黙っていると、いきなり脇腹を蹴られた。痛みに屈み込むと背中を蹴られた。
――いい加減気付けよ。みんなお前が嫌いなんだよ
教室にいる人間の誰からも否定の声は上がらなかった。
それからは事あるごとに三人から暴力を受けた。
小賢しい彼らは教師の目のあるところでは親しい友人同士のじゃれ合いを装うため、見かけた教師も笑い含みに軽く注意して通り過ぎてしまう。クラスメートは相変わらず見て見ぬふりで、味方は一人もいなかった。
体育の時間に宗田に足を引っ掛けられて転び、左手首をねんざして保健室に行った時、堪りかねて養護教師に相談した。
――ああ、担任の先生に聞いてるわ
教師は困惑したように眉根を寄せた。
――君、少し思い込みが激しい性格なんだって?
思い込みじゃない。現にこうして怪我をしているのに。
――何でも誰かのせいにしては駄目よ。自分を客観的に見ることも大事なことよ
イジメに遭っていると相談したのに、何故自己の性格矯正を促されるのだろう。
『嫌い』という感情一つで他人に怪我を負わせることのできる性格の人間は矯正の必要はないのだろうか。
酷い目に遭っているのが自分の嫌いな人間だったら黙認するのは、責められるべきことではないのだろうか。
今自分が抱いている心身の痛みは、他人にすれば同情を寄せるほどでもない、取るに足らないことなのだろうか。
教師に問おうとしたが、次の授業へ出るようにと保健室を追い出された。
――自分を甘やかす癖がついたら、将来ろくなことにならないんだから。くよくよ考え込まないで、しっかりしなさい
学校内に言葉が通じる人間はいないと諦めた。
夜も良く眠れず、食欲も落ち、疲れ果てて虚ろな心を抱えて、それでも学校には通った。一度でも休めばもう二度と登校する気力が湧かず、登校拒否に陥るだろうと自分でも分かっていたからだ。
幸いもうすぐ夏休みだった。夏休みに入れば学校へ行かなくて済む。ひと月余り顔合わせしない時間が経過すれば、状況も変わるかもしれない。
が、淡い期待は、無残に潰された。
一学期の成績が悪かった事で、母が勝手に夏休みから塾へ通うことを決めてしまった。本当は夏休みの間、誰にも会いたくなかったが、落ちた成績と高校受験を考えれば嫌とは言えなかった。
しかしその塾で宗田と仲のいい隣のクラスの奴と会った時、嫌と言わなかったことを死ぬほど後悔した。
そいつから聞いたのだろう、宗田たち三人は週三回の塾の帰り時間を狙って待ち伏せるようになった。
塾のあるビルの出入り口は一つしかなく、玄関辺りで張っていられたら避けて帰る事も出来なかった。暴力に加えて金をたかられるようになり、母には塾の勉強の仕方が自分に合わないと強硬に言い張って、家から遠い別の塾に変えてもらった。
それから夏休みが終わるまで、わずか二週間だったが奴らから逃れられた。