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49  久住晴彦  その6

「これは(なれ)の想像に過ぎぬ。また、今抱いた思いも本心ではない」


 倒れ伏した晴彦のすぐ傍に千代子がいた。

 今話しているのが千代子だと理解するのに少し時間を要した。

「千代子……ちゃん……? 僕とはしゃべらないんじゃ」

 千代子は晴彦の問いかけを無視して、

「今一度、汝の心に問い直せ」


 本当はどうしたい?


 本心。

 羽崎に問われた「周りの事情も実現が可能か不可能かも関係ない、自分自身の純然たる意思」――それは。



 気がつけば崖際のフェンスの傍に来ていた。

 ここは防風林の中でも海がよく見える場所で、今日の海は冬風に荒れて波が高く、一際美しかった。

 鯨に生まれていれば水平線を越えて、海の果てまで行けたのに。

 人間に生まれてしまったばかりに、生涯陸地に縫い止められてしまう。


 今からでも鯨に生まれ変わりたい。

 あいつらも両親もいない世界に行きたい。


「それが汝の願いか」


 声の方を振り返ると、千代子が暗い林を背に立っていた。


「我は社を持たぬ故に、結界を張りその内を我が領内としておる。その結界を越えて我の領内に来、石を積んで、我と(えにし)を結んだ。縁が成り立った故、汝の声が我に聞こえ、我の声も汝に聞こえよう。汝が望めば希望を叶える。代わりに」


 汝の魂をもらう。


「魂? 命のこと?」

「否。命は世で尽きるまで汝のもの」

 はんなりと笑った小さな赤い唇は、着ている服と同じ色だ。

「汝たちの言葉で一番近いもので言うならば、『えねるぎい』じゃな。生きて活動する時に生じる様々な感情が発する熱。それをもらう代わりに、汝の希望が叶う世界へ汝を送る」


 希望が叶う?

 鯨に生まれ変わり、家も学校も無い世界に行ける?


 でも、あげるとしたら、どうやったらあげられるんだ。


 疑問を問おうにも混乱しすぎて言葉が出てこない。

 そもそもこれは現実の出来事なのか。

 夢じゃないのか。

 実はもう自分は狂ってしまっていて、幻想の中にいるんじゃないのか。

 一度も話したことのない幼い少女の言葉を真に受けるなんて、自分の頭がいかれてしまったとしか思えない。


 しかし根拠はないが、千代子が見た目通りの子供ではないことは分かる。

 彼女から不可思議な威圧感を感じる。樹齢数百年の大樹の前にいるような、あるいは増水した川の畔にいるような畏れに似ている。

 彼女は子供の――少女の形をした何かだ。


 難しいことは何もない、と千代子が笑う。

「我に捧ぐと言えば良し。希望が叶わずとも良いのなら、()くここを去れ。さすればもう二度と我の姿を見ることはなく、我の存在すら記憶から消え失せる」


 千代子の真っ直ぐな視線が晴彦を射貫く。

 その視線には温度があり意思がある。


 これは現実だ。幻じゃない。


「それなら」

 晴彦の決断は早かった。

「あげます。僕の魂をあなたに捧げます。この世のどこにも僕には居場所はありません。すぐにでも鯨に生まれ変わりたいです」

 千代子はこくりと頷くと、白い手を伸ばして晴彦の胸に触れた。が、

「この世界を去るに、心残りがあるな?」

 眉根を寄せてすぐに胸から手を放した。

「汝の魂には(かせ)がある」

「枷?」

「しがらみ、と言えばよいか。汝の魂はそれに囚われて、我の手の中に来ぬ」

 そんなものはないと否定する言葉より先に、千代子の手が再び晴彦の胸に触れた。

 瞬間、体の奥深くから抑えようのない怒りが急に湧いてきた。

 両親に対する怒りだ。


 勝手にこの世に産んでおいて、勝手に自分が好むように教育しようとしておいて、期待通りに育たないと怒る。

 性格も適性も無視して、自分の理想を一方的に押しつける。

 そんな理不尽に十五年も付き合わされた。


 同級生のあの三人もまた怒りの対象だった。


 宗田の人を見下すような目が嫌いだった。

 大石の右腕が書き出す奇妙な絵が嫌いだった。

 品川は中身のない軽口が嫌いだった。


 嫌いだから関わらなかったのに、奴らは暴力で無理に絡んできた。

 その理不尽さが腹立たしい。


「これが汝の魂の枷。固く封印した怒りが重石となり、魂の自由を許さぬ」


 怒りを解き放て!


 晴彦の胸に触れた千代子の手が、一瞬体を通り抜けた――ような感覚を覚えた。

 急速に思考が一方向に走っていく。

 鯨に転生すればもう二度と彼らに会うことがない。

 だったら今、まだ人間でいる間に、彼らに自分のこの怒りをぶつけるべきではないか。


 彼らには相応の報いを――。


「枷を外しに行くか?」

 千代子に問われ、晴彦は大きく頷いた。

「では、しがらみが消え次第、門を開こう」

 幼い声が厳かに告げる。


 その神々しさ――これは神託だ。


 知らず知らずのうちに晴彦は千代子の前で膝を折り、深く頭を下げていた。


「汝にとっての門は海。汝がどこにいようと海は現われ、門が開かれる。飛び込みてそのまま鯨となり、水平線の向こうに行けば良し。そここそが汝の生きるべき世界」


 波荒れる北の海が思い浮かぶ。

 いつか夢で見た、寒色の海。


「ありがとうございます」

 晴彦は体を起こすと、歓喜に叫び出しそうになりながら弾むような足取りで林の中を駆けた。

 ここは本来自分が生きる世界ではなかったのだ。だから色々と問題が生じたのだ。

 しかしもう悩むことはない。この世界でのしがらみを排除して、自分の世界で生きるだけ。


 羽崎の家に戻り、二階にいる彼を呼んで「自分の世界で生きる決心ができたから、明日自宅に戻る」と告げた。

 夜の自宅への電話でもそう言うと、母は泣いて喜び、父は自分の意見に晴彦が従うと思ったのか満足そうに「帰りを待っている」と言った。

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