45 久住晴彦 その3
だからお前は弱いままなんだ。
父が電話でそう言い放った。
――家に帰って来たらあの三人と対決しろ。俺が付き添ってやるし、校長にも立ち会わせるから。抵抗しないから、なめられるんだ。強気な態度で臨めば相手も一目置くようになる。そこで二度と自分に手を出さないと誓わせるんだ
仮に誓わせたところで意味などない。相手が約束を守るとは限らない。
――守るさ。男と男の約束だぞ。第三者が見ている前で約束したことを、守らないわけがない
彼らはそんな真っ直ぐな性格の人間じゃない。大人を欺く狡い人間なんだ。
――そんなにあの三人が恐いのか。卒業するまでそこに隠れているつもりか。だからお前は弱いままなんだ
弱くて何が悪いんだ。人に暴力を振るう人間よりましじゃないか。
母にそう育てられたんだ。暴力は悪だと何度も言い聞かせられて育ったのに。
――どうしてお父さんの言うことを聞けないの。お父さんの言う通りにして。そうじゃないとお母さんがお父さんに怒られるの
母は情に訴える分、敵に回れば一番質が悪い。グズグズと愚痴を垂れ流して、罪悪感を煽る。
――お母さんもう疲れた。毎日毎日晴彦の心配ばかりして疲れた。それなのに眠れなくて、病院で導眠剤をもらって、それを飲んでようやく寝られるの。お願いだから家に帰って来て、お父さんと一緒に学校へ……
家出して心配かけて悪かったとは思っている。でももう限界だったのだ。
父も母も、僕には背負えない荷物を背負わせようとする。
毎晩十時に両親へ電話する。それが晴彦には段々苦痛になってきていた。
電話するとまず母が出て、毎回同じ愚痴を繰り返す。その後父が電話に出て、独りよがりで現実味ないイジメの対処方法を延々と語る。
そんな二人の相手をするのに疲れ、最近は早々に羽崎と電話を替わる。羽崎は晴彦より遙かに上手く父と会話をしていた。
「よくあんな唯我独尊の権化ような人と話ができますね」
父と楽しげに会話した後電話を切った羽崎に、晴彦が呆れたように言うと、
「同じ人類で同じ国に住んで、しかも共通言語を持っているんだ。会話はできるよ」
羽崎は笑った。が、晴彦はため息をついた。
「僕はあの人の言ってることが理解できない時があります」
「会話ができることと理解し合えることは別だよ。話し合いでお互いを理解し合えるなら、パレスチナ問題は遙か昔に解決してる」
羽崎はキッチンへ行くとココアを二人分入れて戻ってきた。
「晴彦君がお父さんと理解し合うのは困難かも知れないね。ものの考え方の基本が違いすぎている」
「僕もそう思います」
ココアを一口飲むとほどよい甘さが口の中に広がり、鬱々とした心を慰めた。
「君のお父さんは成功体験が多い人だ。それは勿論お父さんが努力したからだけど、運も良かったんだ。お父さんはその運の良さを自覚していない」
「運、ですか?」
「そう。お父さんは学生時代ラグビーをやっていて、そこで仲間が出来、友情を培うことができた。でもそれは周りに性格の良い人間が多数いた運の良さのおかげもある。もしも熱意のない指導者や足を引っ張り合うことしかしない部員達に囲まれていたら、今のような考えは持てなかったと思う。それに、世の中には学費を自分で用意しなければならなくてアルバイトをする子もいるのに、経済力のある家庭に生まれて自分で学費を稼ぐ必要もなく大学まで行かせてもらえた。良い環境にいられたのは運が良かったからなのに、お父さんは全て自分の努力の賜だと勘違いしている。だから、性格の悪いクラスメートに絡まれている君の運の悪さを理解できない。努力が足りないと考えてしまう」
イジメは運が悪かったからだと言われれば、そうかも知れないと思う。
その証拠に、一年生と二年生の時にはイジメに遭わなかった。三年生になり、あの三人と同じクラスになってしまったからイジメに遭った。
三人とクラスが別だったら、イジメはなかったかも知れない。
「何だか、今の君を追い詰めているのは、イジメ犯の三人じゃなくお父さんのような気がするね」
その言葉にハッとして、羽崎を見返すと、
「ああ、もうこんな時間だ」
羽崎はリビングの時計に視線を向けていた。
「晴彦君、話の途中で悪いけど、もう僕も二階に行くね」
多分また今から仕事をするのだろう。
おやすみ、と挨拶して羽崎はリビングから出て行った。
晴彦もリビングの電気を消し、飲みかけのココアのカップを持って寝起きしている部屋へ戻った。
――追い詰めているのはお父さんのような気が
羽崎の言葉が頭の中で繰り返される。
羽崎の親族でもない未成年の自分がいつまでもここにいるわけにはいかない。
高校受験も迫っている今、学校を長く休むのも良くない。
父は持論を曲げない。母は父に逆らわない。
ならば、自分に残された道は父の言う通りに戻ってあの三人と対決することだ。
しかし、賭けても良いが、結果は父の思惑通りにはならない。彼らは大人相手にうまく立ち回る術を知っている。その陰でイジメはもっと陰湿になるだろう。
家にも学校にも味方がいない。
どこにも居場所がない。
そこから逃げてきたのに、逃げた先のここで行き詰まってしまった。
晴彦はベッドに寝転ぶと、枕元に置いていた本を手に取った。
書斎から持ってきた鯨の写真集だ。北の海を悠然と泳ぐ姿の写真を見て、晴彦は暫し現実を忘れ、自分が鯨になった空想を楽しむ。
父も母も、学校も、すべてを置き去りにして、鯨の晴彦は水平線へ向かう。
今こそあの水平線をファスナーのように開いて、その向こう側へ行こう。
きっとそこは宇宙だ。
水平線を越えて、星の海を泳ぐ鯨になるのだ。




