42 久住晴彦 その1
本を読むのは好きだ。
映画やドラマは考察する暇もなくストーリーが流れていってしまうけれど、本なら自分のペースで考えながら進められる。
この家にも本はあるとあの人が案内してくれたのは、一部屋の壁全てが本棚になっている部屋だった。
この部屋はこの家の持ち主の書斎で、集めた本はその人の趣味だそうだ。仕事が忙しい社長さんで、仕事を引退したらこの家に来て思う存分読書するつもりだったらしい。
本は海に関するものが多かった。中でも海洋生物の本は群を抜いている。
社長さんは多分鯨が好きなのだろう。何冊もの写真集が机に座ったまま手を伸ばせばすぐに取り出せる位置に置いてあった。
僕はその写真集の一冊が気に入った。
特に波高く荒れる暗色の海を水平線に向かって泳ぐ鯨を捕らえた写真に心奪われた。
この鯨は僕の前世なのかもしれない。
いや、きっと本来の今世の姿だ。鯨に産まれるはずだったのに、何かの手違いで人間に生まれてしまった。だから僕はこの世に馴染めない。海で生きるはずの者が陸に生まれてしまったのだから苦しいのも当然だ。
その苦しさを両親は全く分かってくれない。
父は肉食動物で母は草食動物。そして僕は海洋生物。
僕の家は三人とも生き物としての大元が違うから、相互理解は不可能なのだとようやく気がついた。
午後からはまた海を眺めに外に出よう。
本当はそこで生きる予定だった場所を見ていると、とても安らぐ。
ドアをノックする音に、晴彦はハッと後ろを振り向いた。
真後ろにあるドアから羽崎の声が聞こえた。
「晴彦君。いるかな?」
はいと返事を返すと、開けるよと柔らかな声がしてドアが開いた。
「もうすぐ昼食の時間だけど、何か食べたい物はないかな?」
「特にありません。あ、食事の準備なら手伝います」
「それはありがたい。じゃあお言葉に甘えてサラダを作ってもらおうかな。夕べのミートボールの残りでミートスパゲティーでも作ろうかと思ってるから」
晴彦は頷いて、見ていた写真集を置き、部屋を出た。
羽崎とリビングに戻り、キッチンで昼食の準備をしていると、外から千代子が戻ってきた。
「お昼ご飯はもうすぐです。手を洗って部屋で遊んで待っていてください。できたら呼びに行きますから」
千代子は頷いて洗面所の方へ歩いて行った。
千代子は本当に喋らない。
三食の食事を共にするものの、全くの無言で食べて終わるとリビングを出て行く。夕食後なら二階の自分の部屋なのだろうが、朝食や昼食の後はどこにいるのか分からない。
羽崎に聞くと雨降りでなければ敷地内の防風林で遊んでいるらしいが、あんな小さい子供をひとりで遊ばせていて大丈夫なのか心配になる。
防風林の海側は結構な高さの崖になっていて、フェンスはあるものの古いものなので、千代子が寄りかかって倒れて海に落下する危険がないとは言い切れない。
それだけでなく足場の悪い林の中で転んで怪我をしたり、張り出した木の枝で傷ついたり、悪意のある人間が入ってきて千代子に害をもたらす可能性だってあるのだ。
「大丈夫だよ。千代子さんは頭の良い子だから危ないことはしない。それに」
ひとりでいることを千代子自身が望んでいるのだと言う。
晴彦は理解も納得もできなかった。
自分も孤独は厭わない方だが、千代子くらいの歳の頃にひとりの方が良いと思った記憶はない。
それに、いくら頭が良いと言っても所詮は幼い子供、突拍子もないことをするかも知れないし、不法侵入してきた大人に力ずくで誘拐されたり暴行されたりしたら抵抗できるわけがない。
善意で引き取っただろうに、羽崎の世話は変な所で雑過ぎる。
千代子に対して言葉遣いがやけに丁寧なのは綺麗な言葉を覚えて欲しいからだというくらい、言葉には気を遣っているのに。
だからといって晴彦は千代子の面倒を見る気はなかった。
普通の子供のように話しかけてきたり笑顔を見せてくれたりするならともかく、無言で無表情な上に近づいてもこない子の世話などしたくない。
はっきり言うと、あの子は何か不気味で、できれば近寄りたくないのだ。
自分よりずっと年下の女の子を怖がるなんて自分でもおかしいと思うけれど、感情が全く読み取れない顔を見ると、言い知れない不安感が湧き起こってくる。
特にあの目だ。
こちらの方を見ているようでも視線が合わない、深淵を思わせる黒々としたあの目が、得体の知れない恐怖心を煽るのだ。
始終無言なのも気味が悪い。
内向的な性格だとしても、羽崎とだけでも「話せる」というのなら、同じ家にいるのだから会話しているところを見かけてもいいはずなのに、一度も見ていない。
三人で食卓を囲んでいるときでも、羽崎が一方的に千代子に話しかけるだけで千代子は返事すらしないので、未だに声を聞いたことがない。
羽崎と昼食を作り三人で食べた後、いつものように千代子はふらりと何処かへ行ってしまった。
後片付けを手伝った晴彦も外に出ようと玄関の方へ行こうとすると、羽崎に呼び止められ、リビングのサイドボードの引き出しから出してきたカメラを渡された。
「写真を撮るのが好きって言ってたよね。デジカメを貸してあげるから、ここでも色々写真を撮ってみたらどうかな」
言われて気がついた。
写真を撮るのは自分の唯一の趣味で、ここでもスマホで写真を撮ることも出来たのに、そんな考えさえ浮かばないほど自分の精神は追い詰められていたのかもしれない。
「いいんですか? これ、借りても」
「うん。遠慮しなくてもいいよ。それほど高いカメラじゃないから」
羽崎は基本操作を教えると、二階の仕事部屋へ上がって行った。




