2 家出少年 その2
彼の家はフェンスの向こう側にあった。
晴彦が倒れていた場所から百メートルほど先にフェンスの出入り口があり、そこから入って林の中を少し歩いた所に二階建ての家が建っていた。
家に着くと晴彦はバスタオルを敷いたソファーに寝かされて毛布をかけられ、熱めの湯で絞ったタオルで顔と両手を丁寧に拭いてもらい、寝かされたまま湯で割ったスポーツドリンクやお粥を口に入れてもらった。
すでに目を開けていられる力さえ尽きていた晴彦はずっと目を閉じたまま彼の世話を受けた。
栄養を腹に入れてもらい身体が温まったせいか、強烈な睡魔が襲ってきた。
「眠いなら寝なさい。大丈夫、寝ている間に警察に連絡するなんて事はしないから安心して休みなさい」
温かな手で頭を撫でられ、涙が溢れた。礼を言おうとしたが、喉が震えて上手く声が出なかった。枕代わりに当てられたバスタオルが涙を吸い取ってくれるのを感じながら、晴彦は眠りに落ちた。
眼下に強い風に波立つ海があった。
深く暗い碧の海。一番好きな色の海だ。グラビアなどによくあるエメラルドグリーンの穏やかな海は好みじゃない。あんなのはただの水たまりだ。
随分高い場所からの視界。けれど自分がどこに立っているのかは分からない。
海面が泡立つ程なのに、風を感じない。気が付けば音もなかった。あるべきはずの風の音が、波の音がない。
視線を少し上げると、灰色の空の下に水平線が見えた。
幼い頃はあの水平線が世界の終わる所だと信じていた。
自分のいる世界はあの海と空に挟まれた所で閉じられているのだと。
もし水平線をファスナーのように開いて見ることができても、その向こうには闇があるだけだと思っていた。水平線の向こうに何かがあるという想像すらしなかった。
成長して、自分の立っている地面が巨大な球形のほんの一部であると学び、世界の終りと信じていた線までがたかだか五キロほどの距離しかないと知っても、その先の存在を実感できなかった。
視認できる範囲しか、世界を理解できない。
それは僕だけなのだろうか。
みんなは見えなくても広域な世界を認識しているのだろうか。
突然、海へと落下する。
衝撃もなく海の中へ落ちて――
目覚めた。
目覚めてから、夢を見ていたと分かった。
淡く吐き出したため息の先に見慣れない白い天井があった。ここが自室でないと気付き、視線を転じると、すぐ横にあるローテーブルに画面から白い光を放っているノートパソコンがあり、そのキーボードに凭れかかるようにして床に座ったまま背を向けて寝ている男性がいた。
誰だろうと考えて、助けてくれた人だと思い出す。
目は覚めたものの完全に覚醒しきれていない晴彦は、自分がいる状況の把握に少し時間がかかった。
声をかけようとしたが掠れた小さな呻き声しか出なかった。それでも彼は反応して、顔を上げ晴彦の方に振り向いた。部屋は暗く、パソコンの光が逆光になり、彼の顔ははっきり見えない。
何か飲むかと問われて、頷くと彼はストローを差したコップを晴彦の口元に寄せてくれた。温い日本茶が喉を下って胃へと下りて行く。茶を飲み干すと、腹がぐうと鳴いた。
彼は軽く笑って、少し考えるそぶりを見せた後、何かを晴彦の口に入れた。咀嚼してそれがバナナだと分かった。彼は辛抱強く少しずつ与えてくれた。
「ゆっくり眠りなさい。僕はここにいるからね」
柔らかい声に安堵して、晴彦は再び眠った。