15 羽崎薫と久住秀雄
「初めまして。羽崎薫と申します」
「晴彦の父です。息子を助けていただきまして誠にありがとうございました。その上、ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません」
いいえ、と彼は笑った。
「助けたなんて大げさです。困っているのを少し手助けしたに過ぎません。それも誰でもする程度のことですよ」
謙遜する彼は岸原から聞いた誠実な人物像そのままに思えた。
「早速ですが、晴彦をしばらく滞在させたいというお話を妻から聞いたのですが」
「はい、その通りです。今家に帰っても晴彦君には辛いだけではないかと。心配しておられるご両親が一刻も早く晴彦君と対面したいお気持ちは十分承知しています。ですが、家出するほど追い詰められていた晴彦君の気持ちも察してあげてはもらえないでしょうか」
穏やかな人柄を表す柔らかな物言いと声が、精神的に疲れ果てていた秀雄の心に甘く滲みる。
「晴彦君が感情的にならず素直に話をするためにも、自分の考えを整理する時間が必要でしょう。私の家には漫画もテレビゲームもありません。パソコンはありますが、私が仕事で使っているので晴彦君に貸すことはありません。持っている音楽CDも映画のDVDも多分晴彦君の歳なら退屈な物しかありませんし、私の家は町外れにあって一番近いコンビニまで七キロも離れていて、自転車もありません。これから先の事を考えるには静かで良い環境だと思います」
彼の言葉を信じるなら、現実から逃げだした晴彦が安易に怠惰な生活に陥ることはないように思える。
「そのお言葉に甘えさせていただいてよろしいでしょうか」
晴彦には内密にと前置きした上で、由紀子がついさっき心労で倒れてしまったことを簡単に説明した。
「赤の他人のあなたを私の家の事情に巻き込んで、ご迷惑をかけて申し訳ありませんが、せめて妻が回復するまで息子をお願いできますでしょうか」
ご遠慮には及びません、と彼は軽く笑った。
「元々滞在を勧めたのは私の方なんです。決して晴彦君が駄々を捏ねたのではありません。晴彦君は一人旅をしていて、今は妙縁あって私の所に泊っているくらいに思ってくだされば幸いです」
彼はどこまでも謙虚で、思いやり深かった。
「晴彦君もまだ体力が完全には回復していないようなので、もう休ませてあげたいのですが、他にご心配な点はありませんか」
彼の問いかけに一瞬逡巡したが、やはり問うことにした。
「では、もう一つだけ。何故あなたはこんなにも私たちに良くしてくださるんですか」
善意の人に無礼かもしれないが、この際率直に聞いておいた方がいいと判断した。晴彦に同情したのだとしても、ここまで親身になるのは親切の域を超えている。何か目的があるのではと勘繰るのは邪推だろうか。
「晴彦君に同情した、と言うだけでは納得されないだろうと予想はしていました。今の世の中、過ぎる親切には大抵裏がありますから」
彼の返答もまた率直だった。
「残念ながら私も何の見返りも求めず善行を行えるような、高尚な人間ではないんです。当然、それなりの理由があってのことです」
晴彦がどんな選択をするのか見届けたいのだと彼は言った。
「私は仕事柄、自分の感性を錆びつかせずおきたいのです。けれど人は生きて仕事をして歳を重ねて行く内に、融通や妥協や駆け引きを覚えて一途さが擦り減り、良くも悪くも鈍感になって行ってしまいます。その点、十五歳の晴彦君はまだ純粋で、その上繊細で思慮深い。もし僕が彼と同じ立場にいたらと思考して、十代の多感な彼が出した答えとどんな差があるのか、それはどんな考えの元に出た差なのかを検証して、物書きとしての自分の血肉にしたいと思ったんです」
「それがあなたの言う見返りですか」
「そうです。無欲な善人でなくて申し訳ありません」
いいえ、と秀雄はため息をついた。
「あなたは紛れもなく善人ですよ。色々言い繕うこともできたはずなのに、それをしなかったというだけでも十分に善人です」
「買い被りですよ」
羽崎は笑ったが、秀雄は言葉を重ねた。
「いや、文現社の岸原さんも真面目な良い人だと褒めていましたよ」
「え、岸原さんが、ですか? それは意外で、嬉しいですね。とても厳しい人なので滅多に人を褒めないのに。それ以前に、頼んだ私が言うのも何ですが、問い合わせに応じてくれたなんて」
羽崎は今回のことを電話した時、彼に相当叱られたらしい。
「迂闊に第三者に名乗って、ネットにでも上げられたらどうするのかと怒られてしまったので、てっきり久住さんも門前払いに遭ったんじゃないかと……あ、あの、実は私は出版社との契約があって」
「存じております。その辺の事情は岸原さんに聞いておりますから、安心してください。しかし、それなら晴彦がそちらに滞在するとなると、出版社からまた苦情が来るのでは」
秀雄の方にも岸原から嫌味な抗議が来るだろうと苦い気持ちがこみ上げたが、
「岸原さんには『晴彦君はタクシーで家まで送り届けた』と言っておきますよ。どの出版社の編集の人も私の家には来ませんから、知られることはありません。今は何よりも晴彦君の気持ちが落ち着くことを優先させましょう」
羽崎の明るく柔らかな声と言葉が秀雄の心を宥めた。
「久住さんの方も色々疲れていらっしゃるでしょうから、せめて今夜は心身を休めてください。久住さんご夫婦の都合が良ければ、いつでもこちらへおいでいただいて結構です。その時には電話で家までの道順をご案内しますから」
それは秀雄たちが羽崎の情報を世間にもらさないという信頼の証だ。
この善良な人を裏切ってはならないと秀雄は契約書にサインするより遙かに強く自身に言い聞かせた。
「ありがとうございます。どうぞ息子をよろしくお願いします」
「私にできる手助けは微々たるものですが、できる限りお力添えいたします。では、もう一度晴彦君に変わります」
電話の向こうで何か話をする声が微かに聞こえた後、晴彦が電話に出た。
「お父さん、お母さんの風邪、大丈夫?」
どうやら羽崎は母親の体調不調を風邪と説明したらしい。心労のために倒れたと言えば晴彦が悲しむと考えたのだろう。
「ああ、昨日から喉が痛いと言っていたが、お前が元気でいると分かって気が抜けたんだろう。熱も大したことはないし、今は薬を飲んで寝ているよ」
そう、と返事する晴彦の声はさっきより若干明るかった。
「羽崎さんにお前の事をお願いしておいたから、羽崎さんの言う事を良く聞いて、迷惑をかけるなよ。お母さんの風邪がよくなったら、羽崎さんにお礼をしにそちらへ行くから」
晴彦に由紀子の事を詳しく聞かれないよう障りのない会話を交わして電話を切る。
大きく息を吐き、ベッドに仰向けに寝転ぶと、途方もない疲労感が押し寄せてきた。
問題は山積みだが、とりあえず面倒事の一つは先延ばしできた。
晴彦も自分も運が良い。あんなに良い人に当たったのだから。
正直、ネットで羽崎のプロフィール非公開の理由を見た時は傲慢で自己中心的な人間なのではないかと思ったが、あれは文学に対して真摯な意識の現れだったのだ。それ以外なら、そこらにいる人間より遙かに優しく思いやり深い性格の――。
そこまでぼんやり考えて、ふと疑問が頭を過ぎり、跳ね起きた。
果たして自分は本当に羽崎薫という作家と話したのか。
馬鹿な、と秀雄は自嘲する。
岸原は羽崎から頼まれたと言った。良く知る人間の声を聞き間違うことはないだろうから、羽崎の名を借りた誰かが彼を騙して羽崎について喋らせるなんてできはしない。
いや、その岸原も本物ではなかったら?
そんなことはありえない。羽崎に教えられた電話番号は、間違いなく文現社の番号だった。そこから岸原の内線へ回してもらったのだから、関係ない第三者が電話を取るはずがない。
はずがないかもしれないが、本物の岸原は席を外していて、岸原宛ての電話を代理の人間が取ったとしたら?
偽岸原と自称羽崎の二人が共謀者だったとしたら、と考えたところで、秀雄は自分の考えの馬鹿馬鹿しさに首を振った。
誰が何のためにそうまでして騙すと言うのだ。意味がなさ過ぎる。
莫大な遺産を継いだ訳でも、巨悪の証拠を不本意に掴んでしまった訳でもない。
謎の美女を正体不明の輩から助けた覚えもないし、怪しいトランクを拾ってもいない。
ミステリー小説ではあるまいし、片田舎でごく平凡に暮らしてきた自分に、奇想天外な事柄は起こり得ない。
ただ、しがない現実があるだけだ。
秀雄はゆるゆると傍に放り出した携帯電話に目を向ける。
これから警察に捜索願の取り下げと学校への連絡をしなければならない。
羽崎の存在を隠すため、上司には「晴彦は野宿しながら私の昔の知人を頼って行ったようだ」と説明した。それを警察と学校に言えば良いだけだ。
学校には息子が精神的に落ち着くまで休ませると言い、同時にイジメの解決策についても話し合う。
暢気を通り越して愚かなあの女性担任では駄目だ。
晴彦が帰ってきたら学年主任、できれば校長同席でイジメをやっていた奴らと一対一で対峙させる。
イジメをやるにも複数でやるような小心者だ。大人が睨みを利かせての中で話し合いをさせれば、自分の卑小さに気づくだろう。家出なんて情けない形で逃げ出した晴彦には、相手に正面からぶつかる強さを教えなければ。
由紀子が不安定な精神を持ち直し、晴彦が学校に通うようになれば、また何も問題ない穏やかな日々が戻ってくる。
秀雄は大きく深呼吸し、携帯電話を手にした。




