13 久住秀雄 その4
上司に息子の所在が判明したことを報告した秀雄は、仕事を早退して帰宅した。
一人ですぐに向かうつもりだったが、礼を言うのも兼ねて両親揃って行くのが常識だと上司に叱られてしまったのだ。
社を出るとき「やはり二人で晴彦を迎えに行きたいから今から一度家に帰る。出かける用意をして待っていてくれ」と電話しておいたのだが、家に戻ると由紀子は普段着のままうつむいてリビングのソファーに座っていた。
「どうしたんだ。出かける用意してないのか」
問いかけても反応がない。
「体の具合でも悪いのか」
由紀子は無言でゆるゆると首を振ったが、顔色はあまりよくなかった。額に手を当ててみると熱はないようだが、手が冷たかった。
「寒いんじゃないのか。何か飲むか」
秀雄が問いながらエアコンの温度を上げたが、由紀子は顔も上げない。
キッチンで二人分のコーヒーを入れて戻っても、由紀子は一言も口を利かなかった。差し出されたコーヒーカップを受け取った後は、カップを両手で握り俯いたままだった。
「何故羽崎さんが自分の住所も電話番号も教えないか、訳が分かった」
「知ってる」
無感情で簡素な返事が返って来た。
「ネットで調べたから」
その程度の事なら家でも調べられたという嫌味かもしれないが、秀雄はあえて無視した。
「岸原さんって人にも電話してみたよ。羽崎さんって人は良い人のようだ」
売れっ子とは言わないが作品が映画化もされた実力のある作家で、と耳触りのいい情報だけを由紀子に話す。
瞬きもせず、何もないテーブルの一点を無表情に見つめながらコーヒーを飲む由紀子の思考が読めず、秀雄はため息をついた。
「今から羽崎さんに電話して晴彦を迎えに行くから、お前も着替えて一緒に」
「晴彦は家に帰りたくないって言ったわ」
由紀子は視線も動かさず答えた。
「帰りたくないって言ったって、そうはいかないだろう。見も知らない人に迷惑をかける訳にはいかない。羽崎さんに頼んで住所を教えてもらおう」
「じゃあそうしましょう」
秀雄の方へ顔を向けないまま頷き、
「連れて帰ってご飯を食べさせてお風呂に入れて寝かせて学校に行かせて高校に行かせて大学に行かせて就職させて結婚させて」
一息にそこまで言って黙り込み、そして、
「でも、その間にあの子は何回でも家出するわ」
不穏な予言を吐いた。
「何度連れ戻しても、また家出する。そしていつか完全に連絡を絶って、行方不明になって、死ぬまで会えなくなるのよ」
「何を馬鹿な事を言ってるんだ。そんなことある訳ないだろう」
眉をひそめる秀雄を無視して、由紀子の目は何もないテーブルから離れない。
「イジメの件なら俺が学校に行って」
「晴彦が家出したのは」
秀雄の言葉を遮って、由紀子はゆるゆると首を振る。
「イジメのせいじゃなかったのよ。あれはきっかけになっただけ」
独り言のように呟いて、
「本当は私がいる家には帰りたくないのよ――晴彦もあなたも」
くしゃりと顔を歪ませた由紀子の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「晴彦は家出あなたは仕事私はずっと一人きり一人だわ晴彦もあなたも私の事なんてどうでもよくて家は黙っていてもご飯ができてて寝る所があるだけの意味しかない場所なのよ他でご飯が食べられて眠れるなら必要がないのよ家も私も」
由紀子の血色の悪い唇から、鬱積した思いが息継ぎもなく流れ出る。泣いているのに感情の感じられない不気味に抑揚のない声が呪詛のように聞こえた。
「掃除も洗濯も料理も子育ても何にも報われない無駄な時間だった全部無駄無駄無駄無駄バカみたいホントにバカみたいこんなに無駄な時間ばかり費やして何も良いことがない」
不意に声が途切れて、どうして、と由紀子はカップを置いて顔を両手で覆い、俯く。
「どうしてこの家には誰も帰って来ないの? 私は死ぬまで一人なの?」
問いかけられて我に返り、由紀子の肩を揺すった。
「しっかりしろ、由紀子。俺が今、帰って来てるだろう? 晴彦だってすぐに」
顔を上げた由紀子は視線は秀雄から遠く彷徨っていた。
「帰って来ない誰も帰って来ない家だわここは」
駄目だ。由紀子はまともじゃない。
家出した晴彦を心配して張りつめていた心が本人から無事を知らされて一気に緩んだ所へ帰宅拒否をされたものだから、精神がバランスを崩してしまったのだろうか。これは医者に連れて行った方がいいかもしれない。
一難去ってまた一難とはこのことだ。悪い出来事は連鎖するものらしい。
不幸と不幸は握手する。格言はいつだって正しい。
それにしても、何をどう考えたらこんな結果に辿り着くのか。
秀雄には由紀子の苦悩が理解できなかった。
電話で晴彦に手酷く何か言われたのだろうか。いや、あの子は母親に暴言を吐くような子ではない。
自分にしても由紀子を放置していた意識はない。確かに仕事は忙しく帰宅が遅くなることもあったが、そんなことは結婚前から由紀子も承知していたはずだ。今更孤独を嘆かれる理由が分からない。
性差による思考の違いで理解しきれない部分があるのは仕方のないことだが、それを差し引いても埋める事の出来ない隔たりがあるような気がした。
妻が、見知らぬ他人に思える。
本当に自分はこの女と生活してきたのだろうか。
彼女と共に暮らしてきた十数年の中の、あのありふれた幸せな日々は実際にあったことなのか。
由紀子は気弱ではあったが芯はしっかりしていて、困難があっても最後は腹をくくって事に当たれる女だと思っていたが、それは自分の脳が作り出した勝手な由紀子像で、今目の前にいる由紀子が偽りない本物なのではないのか。
家庭も以前から崩壊していたのに、認めたくなくて目を逸らしていただけではないのか。
自分はずっと自己創作した人格の家族と現実を見ない生活をしていたのではないのか。
――馬鹿な考えだ
秀雄は一つ頭を振って自嘲した。
疲れているんだ。そう、疲れているから、馬鹿な事を考えるのだ。
自分も由紀子も。
「お前、疲れてるんだよ。少し横になれ」
秀雄は由紀子からカップを取り上げて、ソファーに寝かせた。
「晴彦は帰って来たら二度と家出なんかしない。大丈夫だ」
痩せた肩を撫でてやりながら、子供に言い聞かせるようにゆっくり、言い聞かせる。
「晴彦も俺も、お前がいる家に帰りたいと思ってるよ」
由紀子の閉じた目からまた涙がこぼれた。
すぐに微かな寝息が聞こえ、秀雄はため息をつく。
由紀子の身体に毛布をかけてやり、暫く考え込んだ末に由紀子の携帯を持ってリビングを出た。




