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11  久住秀雄  その2

 由紀子は万事控え目な女性だった。

 出会ったのは、よくある話だが知人の紹介によるものだ。

 優しく控え目で、気障な言い方だが野の花のような女性だと思った。同時に、この人だとも思った。自分の人生を共に歩いて欲しいのは、この人だと。

 遠慮も彼女の迷惑も考える余裕もなく、押しの一手で彼女にアプローチした。それが効いたのか由紀子は交際を承諾してくれ、一年半後には結婚に辿り着いた。

 由紀子は気弱なところはあったが堅実な性格だったから、安心して家庭を任せられた。仕事も順調で、家も建てられた。

 情熱的だった恋は穏やかな愛に変り、晴彦が生まれて二人の絆はゆるぎないものになり、他人が羨むほどの幸せを手にしていると信じていた。

 なのに、何が悪くて、どうしてこうなったのだろう。



 一人息子の晴彦が学校で酷いイジメに遭っている話は容易には信じられなかった。話を聞くまで晴彦に特に変わった様子は見受けられなかったからだ。

 女の由紀子には分からないだろうが男の世界には時に荒い小競り合いもある。それが今回はちょっと度を越したものだったのだ。


 晴彦は普段から覇気の薄い子だった。何事にも遠慮がちで相手を思いやって一歩譲るところは由紀子によく似ていた。

 優しいのはいい。しかし男は優しいだけでは駄目なのだ。欲しいものを勝ち取り、守り通すには、気概と逞しさがなければ。


 由紀子はつわりが酷い体質で、晴彦を妊娠したときには一時入院したほど大変だったためか、二人目の子供は拒否された。

 秀雄としてはせめてもう一人男児が欲しかったのだが、医者に「母体が前回以上に危険な状態になる恐れがある」と言われて諦めた。

 由紀子の過保護気味さは晴彦が一人息子だから仕方がないのかもしれないが、少々きつく当たられた程度でへこんでいる息子の不甲斐なさに苛立って思わず不満をもらすと、由紀子はこれまでになく怒り狂い、挙げ句泣いて家を飛び出してしまった。

 由紀子の交友関係など全く知らず、どこへ行ったのか見当もつかなくて探しにも行けなかった。義母からの電話で実家にいると知って安心し、彼女の気持ちが治まるまで待とうとあえて迎えには行かなかった。


 その翌日だった、晴彦がいなくなったのは。


 晴彦が登校していないと担任教師から会社へ連絡が来たのは、夕方だった。朝から来ていない生徒の事情を聞くための電話が何故父親へでしかも夕方なのかと問えば、家に何回か電話したが母親と連絡が取れなかったからと悪びれもせず教師は答えた。

 常識がなく責任感も薄いのかと呆れたが、捜索願を出した交番で本人に会って、彼女は悪気なく暢気なだけだと理解した。

 性善説を信望しているのか物事を悪い方へ考える習性がなく、自分の都合に良いように解釈するので、正直教師に向いている人物には思えなかった。

 警察は晴彦に自殺の恐れがあると慌てたが、死ぬつもりならわざわざ遠くへは行かないだろうと思った。晴彦がろくに金を持っていないのは分かっていたので、金が尽きたら帰ってくるか、最悪無銭飲食か万引きでもして警察の厄介になり連絡が来ると考えていた。

 気の小さい奴だから警戒心も強く、危なそうな人間は本能的に見分けてついて行かないだろうし、男だから貞操の危険もさほど心配していなかった。

 それでも行方不明の子供を心配しない親はいない。

 気を抜くと悪い結果ばかり予想してしまうので、いつもより増して仕事に打ち込んだ。仕事をしている間は無意味な事を考えなくて済み、不安をかき消すには丁度良かった。

 さすがに上司にだけは息子の家出を報告して、警察からの情報を最優先で回してもらうよう頼んだ。



 家では晴彦の話をするのを極力避けた。晴彦が家出して精神状態が不安定になっている由紀子には晴彦の話は毒に思えたからだ。

 不安で眠れないらしい由紀子は体調を崩したようだったので、一人の方がゆっくり身体を休められるかもしれないと思い、晴彦の部屋で眠るのを止めなかった。

 一人きりの寝室は薄ら寒く、広かった。ダブルベットの半分を寂しい空虚に占領されて眠るためにこの家を建てたのではなかったのに。

 最後に家族で出かけたのはいつだっただろう。三人で食卓を囲んだのも、三人で笑い合ったのも、遠い昔のような気がする。

 それでも、初めて由紀子の手を握った時の柔らかな感触も、生まれたばかりの晴彦を抱いた時の温かさも、未だにはっきりと記憶に残っているのだ。


 まだ取り戻せるはずだ。あの平凡でも穏やかな幸せを。

 晴彦が帰って来たら、校長と教頭の立ち会いの元、トラブルがあった子と話し合いをさせればいい。自分が同席してもいい。

 最初に話し合いに行ったのが由紀子で、しかも担任が女だったから駄目だったのだ。

 男には男の話し合い方がある。腹を割って話せば、きっと分かり合えるはずだ。


 だから逃げるな、晴彦。

 会って間もない他人に頼るくらいなら父親を頼れ。



 パソコンを開いて羽崎薫の名で検索し、出て来た彼のプロフィールを見て、秀雄は唖然とした。


 羽崎薫はざきかおる 作家 

 本人と各出版社の意向により

 本名 生年月日 性別 出身地 血液型 在住地 

 顔写真も含めてデビュー時から非公開

 公の場には姿を見せず インタビュー等も一切断っている

 そのため『羽崎薫』は実在せず

 既在作家の変名ではないかという噂もある


 何の冗談だと言いたくなる。

 作家なんて作品さえ良ければ出自も容姿も関係ないと言えばそれまでだが、もしかして身元を明かさないはミステリアスな作家として小説を売るための、戦略の一つなのだろうか。

 秀雄は呆れながらも追記に目を走らせた。


 羽崎は約十年前に文現社主催の文学賞で大賞を取った短篇の青春小説でデビューしたが、その後に女性誌に掲載された恋愛小説が好評を得てテレビドラマ化し、更には一昨年作品の一つの悲恋物が映画化されたこともあり、世間では恋愛小説作家として認識されているようだった。

 しかしドラマは深夜枠で主演も新人だったためか視聴率は低く、映画も監督が無名で良いスポンサーがつかなかったからか内容も宣伝も貧相で、話題にもならず終わったようだった。


 ネットではそれ以上の情報は得られなかった。

 そもそも取材を受けない作家なので記事自体が少なく、その記事も殆どが小説の感想で、作家本人については想像や予想を語るものしかなかった。

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