第8話:暗闇を越えて
湿った土の匂いに混じって、かすかに獣の血の匂いが鼻をかすめた。
ウィリアムは森の奥深くで、剣鉈を振るっていた。
自ら鍛えたその刃を手に、彼は数日の間、昼夜を問わず木々の間を縫うように獲物を追い続けている。
初めて野兎の喉元に刃を当てた時の、生ぬるい感触と、確かに感じた命の重さ。
その記憶は、未だに胸の奥に残っていた。
奪うとは、こんなにも直接的で、こんなにも粗暴な行為だったのか――。
ウィリアムは、まとわりつくような不快感に眉をひそめた。
しかし、村を襲ったあの者たちは、それをいとも容易くやってのけたのだ。剣鉈を振るうたび、あの日の光景が嫌でも蘇り、復讐の道のりの険しさを痛感する。
これは、ただ力任せに振るうただの力ではない。
獲物の動きを読み、気配を殺し、仕留めるための戦いだ。
それは生き延びるための技術であり、意志の力だ。
(このままじゃ足りない……あの“力”に抗うには、まだまだ鍛えなきゃならない)
連日の鍛錬で、剣鉈の扱いはいくらか慣れてきた。
しかし、あの仮面の男が操る、目に見えぬ強大な力。あれに対抗するには、独り、見様見真似で剣を振るうだけでは到底届かない。まるで、素手で巨大な獣に立ち向かうようなものだ。
ウィリアムは、右手に握る鈍色の剣鉈を見つめた。冷たく、重く、どこまでも鈍く光るその刃は、今の彼の力不足を痛いほどに物語っている。
彼は、焼け落ちた村を思い浮かべた。無力だった自分、そして、なすすべもなく倒れていった村人たちの姿が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
(このままじゃダメだ……戦う方法を、あの力に対抗する術を教わらなければ……)
決意は、静かに、だが確実に彼の胸に広がっていった。
彼は、育ての親の墓前に誓ったのだ。必ず、奪われたものを取り戻すと――。
その誓いを果たすため、今の自分を変えなければならない。
ウィリアムは、静かに剣鉈を鞘に収めた。
そして、一度も振り返ることなく、深い森の外へと足を踏み出した。
焼け跡の村を後に、誰かに教えを請うべく、彼はまだ見ぬ外の世界へと確かな一歩を踏み出した。
「行ってくるよ、みんな……」
小さく呟いた声は、風に乗って背後の焼け跡へと消えていった。優しく撫でるような風が、彼の背中をそっと押した。
焦げ付きながらも懸命に生きる木々の葉が、微かに囁き揺らめき、彼の旅立ちを見送るようだった。
焼け跡に別れを告げたウィリアムは、隙間から差し込む太陽の下、ただひたすらに森の中を歩き続けた。初めて足を踏み入れる外の世界は、ウィリアムにとって何もかもが未知の連続だった。
木々の種類、土の感触、夜の匂い。故郷の森とは異なるそれらは、彼の五感を呼び覚ますと同時に、拭いようのない不安を掻き立てる。
どれほどの時間が経っただろうか――。
空を照らしていた陽光が西に傾き、東の空が淡い朱色に染まり始めた頃、ウィリアムは疲労困憊で足がもつれ始めていた。
遠くから聞こえる見慣れない鳥の鳴き声。一晩中歩き続けたにもかかわらず、人の気配は全く感じられない。
(このままでは……)
彼は、開けた場所を見つけて短い休憩を取ることにした。古木の根元に腰を下ろし、背負ってきたわずかな食料を取り出す。
乾いたパンを口に運びながら、ウィリアムは周囲を見渡した。深い緑に覆われた森は静寂に包まれ、時折吹く風が葉を揺らす音だけが耳に届く。
(どこかに、人がいる場所はないのか……)
不安と疲労が押し寄せる中、ウィリアムは今後の行動を考えあぐねる。しかし、具体的な当てはない。ただ、焼け跡に鳴ってしまったあの場所へは、もう戻れないという強い思いだけが、彼を前に進ませていた。
疲労が限界に達したウィリアムは、その場に腰を下ろすと、乾いた枝を集め、再び火を起こした。弱々しい焚き火の光の中、明日の行動を思い描きながら、彼は浅い眠りに落ちた――。
だが、夜の静寂が安らぎを与えることはなかった。
焚き火のぬくもりに身を寄せながら、彼は微睡の中をさまよっていた。数日間の彷徨で身体は疲弊していたが、故郷を失った痛みは、心を静めてはくれなかった。
ふと、微かな物音にウィリアムははっと目を開けた。
茂みの奥から聞こえてくる、乾いた葉を踏みしめる足音。それは、獣のものにしてはあまりにも規則的だった。
彼は鍛え上げた鈍色の剣鉈を静かに握りしめ、音のする方角へと神経を研ぎ澄ませ立ち上がる。
思わず声が漏れた。
「誰か――いる」
刃を構えたまま、ウィリアムはそちらへ一歩踏み出した。自分以外の人を探してはいたが、このタイミングで人間に出会うとは、考えもしなかった。
全身を駆け巡ったのは、恐れよりも深い警戒だった。
◇◇◇
同じ夜。その足音の主は、既に彼の存在に気づいていた。
燃えるような赤髪を後ろで一つにまとめ、金色の瞳で闇を見据える。
頬に刻まれた小さな傷跡は、彼女の歩んできた険しい道を物語る。
数日間、山火事の調査の依頼でこの地に留まっていたイーリアスにとって、獣の気配は珍しいものではない。
だが、この夜に感じる気配は、どこか違っていた――。
この地に滞在して数日たった彼女には、もはや獣の気配は日常の一部だった。
だが、今、彼女の肌に触れるそれは、まったく異質だった。
獣ならば、もっと慎重に動くだろう。だが、闇の中を誰かが意識的に音を立てて移動している。
彼女は腰に佩いた愛剣に、そっと手を添えた。
こんな山奥に、いったい誰がいる? そう思った瞬間、かさかさという音が彼女の腰に下げたランタンの明かりの範囲まで近づいてきた。
光の中に浮かび上がったのは、泥にまみれた少年だった。
その手には、奇妙な形をした鈍く光る刃物が握られている。
互いに警戒の色を露わにするウィリアムと、興味と緊張を募らせるイーリアス。二人の視線は、夕べの静寂の中で交錯した――。