第45話:名も無き墓標
夜が明けるのは、思ったよりも早かった。東の空が淡い藤色に染まりはじめた頃には、ウィリアムはすでに目を覚ましていた。
全身に残る疲労の重さは拭えなかったが、昨夜の話し合いが頭の中をある程度整理してくれたのか、意識は不思議と澄んでいた。
隣には、ノーラがまだ寝息を立てている。その無防備な寝顔を見つめながら、ウィリアムは改めて、この女性の優しさに触れた気がした。
焚き火はすでに熾火となり、かすかな熱を放っていた。森からは夜の虫の音が遠のき、代わりに小鳥たちのさえずりが響きはじめる。
静寂そのものは変わらない。だが、夜のそれが彼らを包む重たい闇だったとすれば、今の静けさは、清々しく、新たな一日の訪れを告げるものに思えた。
ウィリアムはそっと身を起こし、薪を数本、熾火へとくべた。ぱちり、と乾いた音がして、再び温かな炎がゆっくりと広がる。冷えた身体にじんわりと熱が戻ってくるのを感じながら、彼は心の中で決意を固めた。
「イーリアスの安否確認、そして……当面の生活の確保」
言葉にしてみれば、たったそれだけのことなのに、それがどれほど困難なことか、彼には分かっていた。先の見えない現実。それでも彼の隣にはノーラがいる。そして、その先には、自身の故郷を滅ぼしたかもしれない“イグノール”の真実がある。
やがて、ノーラも目を覚ます。寝ぼけ眼を擦りながらも、状況をすぐに理解したのか、ウィリアムと同じく旅支度を始める。
「さあ、行こう、ノーラ」
ウィリアムの声には、ほんのわずかだが、確かな前向きの響きが宿っていた。
昨日の彼らとは違う。悲しみと絶望だけに飲み込まれてはいない。彼らの旅は、夜明けとともに、新たな一歩を踏み出したのだった。
朝の森を抜け、開けた道に出ると、ふたりは昨日の戦場へと向かって歩き出した。ウィリアムは時折足を止めては、周囲を警戒しつつ進む。
ノーラもまた、無言のまま隣を歩き続ける。表情には疲れが見えるが、足取りは揺るがなかった。
数時間後、草木のまばらな丘を越えた先に、彼らの目に、見慣れた……しかし変わり果てた光景が広がっていた。
夜明けの清らかな空気が、まるでこの場所だけには届いていないかのようだった。眼前に広がるのは、煤と土埃にまみれた、荒涼とした大地。
昨日の戦闘の爪痕が、えぐられた傷のように生々しく残っている。あちこちに黒焦げの木々が突き刺さり、異形のオブジェのような影を落としていた。
巨大なクレーターが地面を抉り、その一つひとつが恐ろしい魔法の力の痕跡を物語っている。
近づくにつれて、散乱した亜人たちの装備や血痕、無惨な死体の破片が視界に入ってくる。それは否応なく、昨日この地で繰り広げられた現実をウィリアムとノーラに突きつけた。
ウィリアムは息を詰める。ノーラもまた顔を青ざめさせ、口元を押さえていた。
「……ひどい、ですね」
震える声でノーラが言った。彼女の視線は、地に転がる折れた剣や、血に染まった布切れに釘付けになっていた。
ウィリアムの視線は、凄惨な光景をさまよいながらも、無意識のうちに遠くへと向かっていた。そして、その端に、小高い丘のシルエットが映る。
目を凝らすと、その頂に、何か不自然なものが立っていた。よく見ると、それは十字に組まれた木片――墓標のようだった。
「あれは……おそらく、墓標でしょうか?」
ノーラの問いに、ウィリアムは無言で頷いた。
だが、墓標があるという事実は、彼の胸に疑問をいくつも浮かび上がらせた。
なぜ、こんな場所に。それに、木片という簡素な形。もしそれが良き隣人たち《ザ・フォーク・ビサイド》によるものだとすれば、なぜ遺体をリトスに持ち帰らなかったのか? 逆に、亜人が同族を弔ったのだとすれば、なぜ他の死体は放置されたままなのか?
その答えを知るために、ふたりは無言のまま、丘へと向かった。
斜面を登る途中、風がかすかに、祈りのような呟きを運んできた。導かれるように視線を上げると、そこには墓標の前で膝をつき、うなだれるひとつの人影があった。
ずんぐりとした体格、小柄な体に不釣り合いなほど巨大な斧――その姿を見て、ふたりは思わず声を上げる。
「「ガドニス!」」
街道で出会い、おそらく亜人であろうと結論づけた男。彼が祈るように立ち尽くす墓標には、どこか見覚えのある剣が立てかけられていた。
それは、イーリアスが常に携えていたものだった。
「ウィリアム、か……」
ガドニスがゆっくりと振り返った。物憂げな瞳に宿る悲しみは、彼がこの墓標を立てたのだと語っていた。
なぜイーリアスの剣がここにあるのか、なぜ彼がここにいるのか、山ほど問いはあったが、ウィリアムの喉は言葉を詰まらせたまま動かなかった。
「すまない、人を……探しているんだ」
ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。墓標、剣、爆発、そして彼女の姿が消えた場所――全てが一つの結末を示している。それを理解していながら、認めたくないという思いが、真相を問うことを拒んでいた。
ガドニスは静かに顔を上げた。その表情が、次に発する言葉の重さを予感させる。
「……イーリアス、か」
その名が口にされた瞬間、ウィリアムの心臓は激しく締め付けられた。彼はすでに真実を察していた。それでも、脳はその事実を拒もうとしていた。
半ば怯え、半ば拒絶するように、ウィリアムの口元に微かな笑みが浮かぶ。
「な……なぜ、イーリアスの名を? それに……なぜ、ガドニスがそんなに、申し訳なさそうに……」
かすれた声で呟くウィリアムに、ガドニスは目を伏せた。
「イーリアスから話は聞いている。すまない……俺には何も、できなかった。……お前に、彼女から伝言がある」
そう言って、ガドニスが口を開こうとした、そのとき。
―違う。違うはずだ。イーリアスは、どこかで生きている。
「待て! その話は、聞かない!」
ウィリアムは反射的に叫んでいた。目の前の真実を否定したくて、心の奥から無理やりに言葉を引き出す。
「亜人の言うことなど……っ!」
それは根拠のない、しかし都合よく使える、差別的な言葉だった。両手で耳を塞ぐように、ウィリアムは頭を激しく振った――。
彼の口からこぼれたのは、根拠のない、しかし都合のいい差別的な言葉だった。
ウィリアムは、両手で耳を塞ぐように、頭を激しく振った。真実から目を背け、否定することで、目の前の現実を打ち消そうとする。
その時、背後から温かい腕が伸び、ウィリアムの体をぎゅっと抱きしめた。
「ダメです! ダメですよ、ウィリアムさん!」
ノーラの声は震えていたが、その両腕の力は強く、ウィリアムの体をしっかりと支えている。
「聞いてあげて下さい! イーリアスさんの想いを、無駄にしないで!」
ノーラの懇願が、ウィリアムの耳に、そして心の奥底に深く響いた。
彼女の腕の中で、ウィリアムは固まったまま動けずにいた。両手は耳を塞ぐように頭を抱えたまま、指先にはまだ、強く力がこもっている。
それでも――ノーラの言葉が、確かに心のどこかに届いていた。
否定しても、目を背けても、変わらないものがある。
逃げても、忘れようとしても、消えないものがある。
その痛みが、胸の奥にじくじくと広がっていく。
「……なんで、こんな……」
かすれた声が、唇からこぼれた。
誰に問いかけるでもない、痛みそのもののような言葉だった。
ノーラは答えなかった。ただ、抱きしめる腕に力を込める。
やがてウィリアムの腕が、そっと下ろされた。
握りしめた拳はまだ震えていたが、その視線がゆっくりと前へ向けられた時、彼の中で何かが静かに変わり始めていた。